ヨハネの福音書     37 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     37  13章1節~17節

 

愛を示される

13章になり、場面は変わって、夕食の場面となる。1節に、「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」とある。時は、「過越の祭りの前」とあるように、イエス様が十字架にかかられる過越の祭りが迫っていた。イエス様も、この世を去る時が来たことを知られたのである。そしてイエス様は、「その愛を残るところなく示された」とある。

その愛の示された行為が、この後に記されている弟子の足を洗うという行為である。イエス様はこれから十字架にかかられ、復活され、天に昇られ、それ以降は、御霊を通してイエス様を信じる者と共におられる。しかし、肉を持ったイエス様は、やがて地上から姿を消され、それ以降、二度と同じ肉を持ったイエス様は地上には来られない。したがって、弟子の足を洗う、ということは、この時にしかできないことなのである。

 

イエス様にゆだねられた

続く2節には、「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが」とあるが、イスカリオテ・ユダについては、後にも述べる箇所があるため、その時に詳しく見ることにする。

そして3節には、「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ」とある。「父が万物を自分の手に渡された」という箇所は、『新共同訳』では、「父がすべてを御自分の手にゆだねられた」となっており、この方が自然である。万物を渡された、などと訳すと、『創世記』の最初の天地万物の創造のことと何か関係するのか、などという思いも起こる可能性がある。しかしここでは、この世の人々の救いの道は、これ以降行なわれる、イエス様の十字架の贖いにかかっている、という意味である。

 

絶対相対の真理

そして、この3節の後半の、「ご自分が神から出て神に行くことを知られ」という訳は直訳的であり、文章が不自然である。この箇所も『新共同訳』の、「また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」という訳の方がわかりやすい。これは、イエス様は肉体を持ったその時期を終え、その肉体を去り、「神のもと」と表現された絶対的次元に入られる、ということを意味する。

大乗仏教の経典には、仏がある一定の期間、その国土で教えを説いたのち、滅度(めつど)といって、姿形がなくなる時を迎えることが記されている。つまり、相対的な世界で教えを説いても、永遠にその国土にいるわけではなく、必ずその期間に終わりがあるのである。そもそも、相対的な世界は有限である。その世界において、永遠に働きを続ける、ということは、絶対的な次元の神様からの、あるいは仏教でいう仏からの働きかけであっても不可能である。その世界が有限なのであるから当然である。

イエス様も、絶対的次元から救い主としてこの世に来られたが、イエス様は十字架の贖いを成就された後、やはり、絶対的次元に帰るために、姿形がなくなる時を迎えるということが、ここに具体的に記されているのである。そしてこれも相対的次元における必然なのである。異端の宗教の中には、「イエスは布教に失敗したために死んだ。わが教祖様は本当の救い主であるため、死ぬことはない」と恥ずかしげもなく主張するものがあるが、絶対相対の真理を知らない者たちは、このようなことにも容易にだまされるのである。

 

弟子の足を洗う

そしてイエス様は、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」(4節)、そして「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(5節)。

足を洗うということは、当時、家の中に入る時に行なわれるものである。そしてそれは奴隷の仕事であった。しかし、それは決して、食事の時にするようなものではない。ここから、このイエス様の行為は、単に、謙遜なお姿を示すために、奴隷の仕事までなさった、ということではないことがわかる。足を洗う、という行為を通して、深い霊的真理を教えるためなのである。したがって、足を洗うという行為自体に意味があるわけではない。この行為から、霊的真理を知ることが、その目的のすべてである。

ある教会では、「洗足式」などと名付けて、実際、教会員同士、足を洗い合う、ということを実践しているが、それはこの真理を知らないがためであり、非常に愚かしいことである。それは、そのような儀式的なことをすることによって、自己満足をする、という、信仰生活の中で最もしてはならないことをしてしまっていることになる。儀式的なことは目に見えるために、そこから得られる自己満足も大きい。そしてその自己満足によって、霊的真理を知ろうとしなくなってしまうわけであるから、その悪弊は計り知れない。

 

戸惑うペテロ

イエス様がペテロの足を洗おうとされた時、さすがにペテロは戸惑った(6節)。そのペテロに対して、イエス様は、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(7節)とおっしゃった。

この「今はあなたにわからないが」とおっしゃったところからも、イエス様は、単に足を洗うという行為に意味を持たせているわけではないことが明らかである。もしそうならば、足を洗っているという行為は、誰の目にも明らかなことであるため、今はわからない、などということはあり得ないからである。そして、「あとで」とは、言うまでもなく御霊が下った時を指す。弟子たちに御霊が下った後、彼らはここで語られたイエス様の御言葉とその行為を思い出し、その霊的真理を知ることとなるのである。

しかし、イエス様の行為の意味がわからないペテロは、とにかく足を洗うことは断ろうとした。しかしそれに対してイエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(8節)とおっしゃった。

今までの約3年間、ペテロは、弟子たちの中でも最もイエス様に近い地位を獲得しようと躍起であった。しかし、ここでイエス様から、もし洗わなければ何の関係もない、などと言われてしまった。それでは、今までの努力が水の泡と化してしまう。即座に、「イエス様に洗われることが関係を深めることなのか」と思い、さらに誰よりもイエス様と関係を深めるために、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」(9節)と言った。一見、滑稽に思える言葉だが、ペテロにとっては、イエス様との関係を深めることがすべての目的であるため、真剣な交渉だったのである。

 

水浴した者

それに対してイエス様は、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」(10節前半)とおっしゃった。水浴した者とは、この時点では存在しないが、御霊が下った以降、御霊によってイエス様を信じて救われた者を指す。イエス様は、弟子たちがペンテコステ以降、救われた者となり、使徒となることを十分ご存じであったので、このように「洗う必要はありません」とおっしゃったのである。

実際は、その水浴はペンテコステ以降に起ることなのである。しかし、イスカリオテ・ユダはその前に自ら命を絶ってしまうので、10節後半から11節に、「『あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、『みながきよいのではない』と言われたのである」とあるのである。

 

誤った教え

一般的解釈においては、救われてもまだまだ罪を犯すので、罪を犯してしまったならば、その度ごとに悔い改めをして赦しを得なければならず、その悔い改めが、足を洗うことなのだ、とされる。このような解釈は、「全身がきよいのです」とおっしゃったイエス様の御言葉を、「今はきよいけれども、きよくなくなる可能性もある」というように、相対的に解釈することであり、イエス様の御言葉の絶対性を否定する誤った教えなのである。

また、このような誤った教えによれば、後の14節にある、「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」という御言葉の意味が説明できなくなってしまう。悔い改めとは、神様とその者との一対一の出来事である。他の者は関係がない。つまり、洗い合うことなどあり得ないのである。

また、イエス様は、いつも私たちの罪を洗ってくださっている、などと解釈することも、大変幼稚な考えであることは言うまでもない。

 

正しい解釈

注目しなければならない御言葉は、「水浴した者は、全身きよい」ということである。全身がきよいとは、救われていることを表わす。足も全身に含まれるわけであるから、足も「きよい」のである。したがって、足を洗うということが、その者の救いに関わることでないことがわかる。

イエス様は、弟子たちの足を洗い終わり(12節前半)、次のようにおっしゃった。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(12節後半~14節)。

さらに次の15節で、これは模範であるとおっしゃっているように、この弟子の足を洗う、ということは、弟子たちの罪を洗うとか、ましてや悔い改めなどという意味ではないことが明らかである。これは、イエス様を信じ救われた者同士の交わりに関することである。

ユダヤ人社会では、一緒に食事をする、ということが、交わりを持つ証拠であった。イエス様が食事の席で足を洗うことをされたことも、この行為が交わりということと密接な関係にあることを表わしているのである。

救われた者も、肉は救われる前と同じである。霊的な交わりを中心とするべき救われた者同士の交わりにおいて、時としてその肉の思いは妨げを生じさせる。そのような場合は、互いにそれを洗い流してしまえば良いのである。つまりただ肉の思いから生じたことを無視して、なかったことにすれば済むのである。霊的交わりにおいては、肉の思いは邪魔もの以外の何ものでもない。しかしただ無視して洗い流すことをせず、それをまともに口にしたり、互いに裁き合ったりすれば、そこからその交わりは崩壊する。

今回の冒頭に、「イエスは、その愛を残るところなく示された」とある意味がこれである。イエス様は、肉体を持って模範を示す時がほとんどなくなったこの時、肉体を持った信じる者たちがなすべき、最も大切なことをその身をもって示されたのである。

このように、弟子たちの足を洗うということを通して模範を示されたイエス様は、続く16節で、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません」とおっしゃった。

同じ内容の御言葉として、『マタイ』10章24節から25節前半に、「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です」という御言葉があげられる。この御言葉と今回の御言葉を照らし合わせるならば、やはりイエス様は、弟子たちも、イエス様がなさった通りにすれば十分である、ということを教えておられることがわかる。

続く17節には、「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」とおっしゃっている。「知っている」とは、「体験している」ということである。弟子たちは、イエス様から足を洗われるということを体験した。ただ教えられたから行なう、ということではなく、イエス様が行なわれたことを模範として行なうのである。

 

神様のご愛

ここから、大変重要な真理を知ることができる。イエス様は、私たちの肉の思いを相手にされていない、ということである。ただ洗い流されているのである。先に、イエス様が私たちの罪を洗い流しておられる、という解釈は誤りであることを述べた。イエス様が洗い流されるものは、私たちの肉の思いであり、私たちが霊的真理に反することをしてしまう、いわゆる「罪」を洗い流されているのではない。このような「罪」は、すでにイエス様の十字架の贖いで解決済みであり、それは「全身きよい」という御言葉で表現されている通りである。

しかし、肉をもって生きている限り、肉の思いは絶えることがない。それは、「罪」が絶えることがない、ということではない。したがって、そのような肉の思いは無視すれば良いだけである。もはや救われた者は、いつも無条件で神様に受け入れられている。イエス様が「祝福されるのです」とおっしゃっているように、常に神様から無条件の祝福が注がれているのである。そこに肉の思いは何ら関係がないのである。

それを、今このような思いでは、神様に拒否される、聖霊様を悲しませる、などと、誤った解釈によって、いちいち絶えず湧き上がってくる肉の思いに目を向けてばかりいるならば、結局、霊的実など何も結ぶことはできなくなり、神様が注がれようとしておられる祝福を、無意識のうちに拒否してしまうことになる。それは、いわゆる神様から離れているという「罪」と、肉の思いを混同して、区別することができていないことが原因である。

イエス様は、救われて、神様の祝福を存分に受け取ることができるはずの者が、肉の思いに翻弄されて、自分を裁き、人を裁き、救われておきながら、相変わらず闇の心で生きることがないよう、まさに、そのご愛をもって、弟子たちの足を洗われたのである。これこそ、神様のご愛そのものである。