ヨハネの福音書     26 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

過去世、現世、未来世の三世(さんぜ)の旅路。

ヨハネの福音書     26    8章48節~9章7節

 

腹を立てるユダヤ人たち

前回の箇所で、イエス様がユダヤ人たちに対して、あなたがたは悪魔から出ているとか、わたしを殺そうとしているとか、神から出た者ではない、などという言葉を浴びせ続けたので、そのユダヤ人たちは48節で、「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか」と言った。そしてすぐさまイエス様は、続く49節で、「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています」とおっしゃった。

繰り返し述べているように、この場面でイエス様は、ご自身に心を開き、耳を傾けるユダヤ人たちと会話しているのである。しかし、前回でも詳しく見たように、イエス様は一切妥協せず、真理からの御言葉を語り続けられた。そのため、ついにこのユダヤ人たちも腹を立て、イエス様を悪霊呼ばわりし始めたのである。「あなたがたは、わたしを卑しめています」とおっしゃっているが、実際は、イエス様の御言葉が原因で、彼らは腹を立てたのである。

なお、この「悪霊につかれている」というユダヤ人の言葉は、単に、正常な考え方ができなくなっている者という意味であって、悪魔の側に立っている、という意味まではない。以前にも述べたが、悪魔サタンと悪霊は全く関係がない。悪霊は、死んでもこの世にしがみついている人間の念や魂のことを指す。それは、サタン悪魔のように神様と真逆な立場にいるということではなく、肉体の死を受け入れないために、結果的に真理に逆らっている念や魂なのである。

このように見れば、悪霊についての認識に限っては、当時のユダヤ人は正しかったと言える。現在は、複雑な社会体制や現象の中で、悪霊の働きが埋没しがちで、人々に悪霊の存在が明らかにされにくくなっている。しかし当時の社会は、現代に比べて複雑ではなく、悪霊の存在が誰にでもわかったためと考えられる。

 

栄光を与える

続いて50節でイエス様は、「しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます」とおっしゃった。新共同訳では、この節は、「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」となっている。新改訳がなぜここだけ「栄誉」などという世俗的な言葉にしたかわからないが、後の54節以降では、「栄光」という言葉が使われていることからも、この節でも「栄光」としなければならないはずである。

「わたしの栄光を求めない」ということは、十字架にかかられ、死なれることを表わしている。そしてその後は、神様がイエス様に栄光をお与えになり、復活されるのである。それによって、イエス様を十字架に追いやった者たちこそ、神様から離れている者たちだ、ということを明らかにされた。それが、ここで言われる「さばき」である。

そして51節でイエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」とおっしゃった。この「守る」と訳されたギリシャ語原語は「テーロー」であり、意味は「見張る」「保持する」である。イエス様の御言葉を御霊によって受け入れ、その御言葉の真意を悟り、その悟りによって歩む者は、肉体が死んでも決して滅ぶことはなく、永遠のいのちが与えられ、数多くのパラダイスを経て、魂が上昇する過程に入れられるのである。

 

信仰による成就

このようなイエス様の御言葉を聞き、ユダヤ人たちはますます腹を立て、結局、アブラハムも預言者たちも死んだのに、自分の言葉を受け入れる者は死なないとはどういうことか、と詰め寄って来た(52節~53節)。

これに対して、再びイエス様は54節から55節で、ユダヤ人たちは真実に父なる神様を知らないが、ご自分は父を知っており、その御言葉に従っているとおっしゃり、続いて56節に、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」とおっしゃった。この「わたしの日を見ることを思って」という箇所については、新改訳聖書の下の注に直訳として、「わたしの日を見るために」とあり、この訳の方がわかりやすい。

そもそも、このアブラハムが喜んだ、という出来事は、『創世記』12章1~3節にある、いわゆる「アブラハム契約」、そして、『創世記』15章5~6節に、神様がアブラハムに彼の子孫が天の星のようになると語られ、アブラハムがそれを信じ、その信仰が義と認められた、とある内容に基づいている。

実際は、アブラハムは、救い主が来られる日を思い描いて喜んだりはしてはいない。旧約聖書のどこにも、そのような記述はない。アブラハムが、彼に約束の子が与えられ、そしてその子孫が数えきれないほどの数になる、ということを信じたためにその預言が成就し、さらにその彼の子孫から救い主であるイエス様が来られることになったのである。イエス様は、そのことをおっしゃり、ご自身がこの世に来られることが、「アブラハム契約」の成就であることを明らかにされているのである。

このように、アブラハムの信仰によってイエス様が地上に来られたように、イエス様の救いも、その御言葉を信仰によって受け入れることにより成就するのである。このことをパウロは、『ローマ』4章20節から24節で、「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、『彼の義とみなされた』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです」と述べている。

 

殺そうとする

しかしユダヤ人たちは、アブラハムについては十分よく知っている、という誇りを持っている。ところが、今まで聞いたこともないような、アブラハムについての解き明かしをイエス様が語られたため、57節にあるように、彼らはイエス様に向かって「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか」と言った。もしアブラハムを実際に見たのならば、私たちはあなたの言うことを聞こうという、イエス様を馬鹿にした言葉である。

イエス様の御言葉の語り方の特徴のひとつとして、相手の投げかけた言葉を利用して真理を語る、ということも今まで述べてきたが、イエス様はここでもその方法を用いられ、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(58節)とおっしゃった。

もうこの御言葉を聞くならば、非常識どころか、自分を神としているとしか言いようのない言葉だと誰でも判断する。そこで、とうとうこのユダヤ人たちは、イエス様を殺そうとまでした(59節)。イエス様は、すでに見た箇所である8章37節や40節で、このユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしているとおっしゃっていた。最後の十字架の時、確かに彼らも宗教的指導者たちといっしょになって、イエス様を十字架に追いやった。しかし、その十字架の以前にも、このように、イエス様を殺そうとしたのである。

 

生まれつきの盲人

イエス様とユダヤ人たちとの長い問答の箇所は8章で終わり、9章に入って、イエス様と弟子たちが道を歩いている場面となる。すると、道の途中で、生まれつきの盲人がいて、イエス様はその盲人を見られた(1節)。

この盲人の方から、何かイエス様に求めてきたわけではなく、そもそも盲人であるため、目の前に来た人が、イエス様であるということはわからない。ところが、イエス様の方から、この盲人を見つめられたのである。その様子を見た弟子たちは、何かを言わねばならない、ということで、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と言った。生まれつき盲人であるため、弟子たちはこの者に原因があるとは思えず、それならば、両親なのだろうか、ということを考えたのである。

イエス様はこの弟子たちの問いに対して、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(3節)と答えられた。人間はすべて、生まれ変わりを繰り返してこの世に生まれて来る。したがって、この人が盲目に生まれついたのは、この人の前世、つまり過去世からの業の結果である。

そして、過去世からの業を変えるには、それと同じ位長い時間、その業を消していく因果を積んで行かねばならない。大乗仏教ではその立場に立ち、人は気の遠くなるほどの生まれ変わりを経ながら、少しずつ業を消し去って行き、これも気の遠くなるほどの未来世に仏になることができる、と教える。

しかし、イエス様は神の御子である。イエス様は、その神様のみこころにそって、生まれつきの盲人を癒すという奇跡を行なわれた。そのみこころとは、イエス様が神の御子であることの証を、誰の目にも明らかな形で表わすことである。

そして、その誰の目にも明らかな奇跡は、次の段階の出来事を引き起こすことになる。盲人の目を開ける者は、メシヤであるという認識がユダヤ人の間にあったのである。そのため、この奇跡のうわさが広まることは、宗教的指導者たちにとって、断じて許せないことだった。この宗教的指導者たちの混乱についての記述が、次回以降になるが、この後、長い箇所に渡って記されることになる。

 

世の光

続いて4節でイエス様は、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます」とおっしゃっている。昼とは夜と対になる言葉である。この場合、夜は「だれも働くことのできない」時であるとおっしゃっていることから、この昼が何を指しているかが明らかになる。

すなわち、夜は終末を意味するのである。この世が終わってしまうならば、もはや神様のために働くことはできず、実を結ぶことはできない。すべては終わり、神様のさばきが厳格に行なわれるからである。したがって昼とは、イエス様を信じて救われることが、この世で維持されている期間である。終末が来るまで、信じていない人は何度でもこの世に生まれ変わり、イエス様を信じて救われる可能性を受け続けるのである。

続く5節でイエス様は、「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」とおっしゃっているが、この「わたしが世にいる間」とは、この救いの可能性がこの世に存在し続ける間という意味である。すでに見た箇所である8章12節後半でもイエス様は、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」とおっしゃられた。やみと光が相対するように、夜と昼は相対する。イエス様の救いの可能性があるために、現在の世は昼と言えるのである。

人間の目から見れば、現在の世は闇と言っても賛同する人は多いであろう。しかし、霊的な真理から見れば、イエス様の救いの可能性がある限り、世は闇とはならない。イエス様の救いこそ、この世の希望の光なのである。

 

シロアムの池で洗う

続く6節から7節には、「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った」とある。

霊的には、この盲人ということは、霊的盲目を表わしている。神様が見えない、わからない、ということである。そして泥は、神様から離れた本当の意味の「罪」を表わしている。この罪は、過去世からの業によって人間の中で深まり続け、もはや人は、生まれながらにして神様を知らない存在として、この世に生まれてくるようになってしまった。それは、イエス様を信じて救われない限り、決して断ち切られることはなく、終末まで続いて行くのである。イエス様が、泥を盲人の目に塗られたということは、このことを表わしている。

そしてイエス様は、その泥をシロアムの池で洗うように言われた。シロアムとは、遣わされた者という意味であるとヨハネは記している。前にも述べたが、『ヨハネ』では、イエス様を、神から遣わされた方として繰り返し表現している。イエス様を信じることにより、霊的罪は取り除かれ、霊の目が開かれるようになるのである。

 

象徴ということ

日本の神道などには、禊ぎ払いという考え方があり、それはまさに水で汚れを洗い流すという儀式である。そしてそれは、霊的真理からすれば、間違いなく、汚れたこの世から目を離し、神様の方に向くということの象徴である。同じように、シロアムの池で洗う、ということは、神様から遣わされたイエス様のもとに行く、ということの象徴なのである。

この象徴ということを理解せず、ただ目に見える行為ばかりを強調するならば、イエス様を信じるということも、罪を洗い流す、ということで理解してしまう。そのような誤った理解によると、一度、罪を洗い流したとしても、その後、罪が絶対につかない、ということはないわけであるから、イエス様を信じた後、キリスト教会で言われる「罪」と認識されることがあれば、もはや、その「罪」を解決する道はない、ということになってしまう。

このように、誤った理解は、次々と誤った教えを生み出してしまう。そして、もうその道に迷い込んでしまったら、もはや何が正しい信仰か、何が本当の十字架の意味なのか、全くわからなくなってしまい、ただ一般の人たちと同じように、結局、良い人間が天国に行くのだ、という余りにも幼稚な教えに留まってしまうのである。

イエス様を信じて救われることは、この世とは異なった次元、つまり神様の霊の世界に入れられることである。決して、この世の汚れを洗い流すということではない。救われれば、肉体はこの世の次元に留まっているが、霊はもはやこの世の次元にないわけであるから、再び、神様を知らないという「罪」の次元に戻ることはないのである。