この世のすべては、相対的な存在である。相対的な存在は、あくまでもすべてに相対的でなければならない。
自分自身と他のものは、言うまでもなく、もうそれ自体で相対している。しかしさらに、自分自身も自分自身に相対しなければならない。それでは、どのようにして相対するのであろうか。それは、自分自身が常に変化して、変化する前の自分自身と、変化した自分自身が相対すればよいのである。そこに、すべてが変化している理由がある。
そしてその変化について、変化する前のことを過去と呼び、変化したものを現在と呼び、さらに変化するであろうことを未来と呼び、こうして時間という概念が生じるのである。
もちろん、ここで自分自身と言っても、人間に限ったことではなく、すべての存在が該当する。
したがって、時間の流れというものがあるわけではないのである。時間が流れているから物が動いているのではない。時間とは、相対的世界の必然である物の変化を記録する方法に過ぎない。
よく時間を止める、などということが言われるが、もし時間を止めようとするならば、それこそ宇宙のすべての微細なものから途方もなく大きなものにいたるまでのすべての動きを、一瞬にして止めなければならない。そんなことができるわけがないことは誰でもわかる。ましてや、タイムマシンのようなものなど、言うまでもないことである。