『使徒の働き』   43 | 本当のことを求めて

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『使徒の働き』   43     27章1節~26節

 

ローマへ出発

今回の箇所から、いよいよローマへの航海の記述となるが、最初の1節には、「さて、私たちが船でイタリヤへ行くことが決まったとき、パウロと、ほかの数人の囚人は、ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡された」とある。ここに「私たち」という言葉が見られるように、著者のルカも同行していることが明らかである。そのため、これ以降の記述も、まるで航海日誌のように詳しく記されることになる。

パウロは「ほかの数人の囚人」と共にイタリヤつまりローマに送られることになったが、この数人の囚人がどのような者たちであったのかは全く不明である。そして、ユリアスという「親衛隊の百人隊長」が、ローマまでの責任者となってパウロたちを連れて行くことになったとある。親衛隊とは、ローマ皇帝の身辺を守る武装組織を指す。ユリアスも百人隊長としてその組織に属していたのである。

次の2節の前半には、「私たちは、アジヤの沿岸の各地に寄港して行くアドラミテオの船に乗り込んで出帆した」とある。アドラミテオとは、現在のトルコ半島の西北部にある港町の名称である。そこから来た船という意味であろう。しかしこの船は直接、ローマまで行く船ではなく、「アジヤの沿岸の各地に寄港して行く」とあるように、港から港へと沿岸を伝って進んで行く小さな船であった。そのため、いったんこの船に乗って進み、途中でローマまで行く船に乗り換える予定であったと考えられる。

そして2節の後半には「テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した」とある。アリスタルコは、『使徒の働き』19章29節に「そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場へなだれ込んだ」という箇所から見られるようになっている名前である。エペソで、アルテミス神殿の模型を作る職人が中心となって起こした騒ぎの中で、パウロの最も身近な同行者と見なされているところから、早くからパウロの伝道旅行に従っていた人物と思われる。そして、パウロがマケドニヤを経てエルサレムに向かう時にも、そこに同行した者たちの名前の中にもアリスタルコの名前が見られる。さらに『コロサイ』4章10節に「私といっしょに囚人となっているアリスタルコ」とあり、また『ピレモン』1章24節に、パウロと共に挨拶を送る者たちとして、やはり彼の名前があげられている。このように、アリスタルコは共に囚人となってまで、パウロに従っていた忠実な同労者であったことは明らかである。

 

シドンからミラへ

続く3節には、「翌日、シドンに入港した。ユリアスはパウロを親切に取り扱い、友人たちのところへ行って、もてなしを受けることを許した」とある。シドンはカイザリヤから約110キロ北にあるフェニキヤの港町である。まさにこの小さな船は、このように沿岸の港に寄港しながら進むのである。百人隊長のユリアスはパウロを親切に扱ったとあるが、その理由は明記されていない。ローマ皇帝に上訴されているということで特別視したものなのか、あるいは個人的に好意を持っていたのか、あるいはその両方だったのかも知れない。

シドンは、エルサレムとアンテオケの中間に位置する交通の要所であり、イエス様もこの町に行かれている。もちろん、パウロも何度も訪れているはずであり、特に第二次伝道旅行の際にはこの場所を通っている。間違いなく、多くの信徒たちや教会があったと考えられる。

この時のパウロも、このシドンの町において「友人たち」つまり同じ信仰を持つ教会の人々の所に行って、しばし交わりを持つことが許された。これは普通の囚人では考えられないことであり、ここからも、ローマまでの行程におけるパウロは、決して鎖に縛られているような姿ではなかったことは確かである。こうしたすべてのことは、ひたすら彼を守ろうとされる神様のみわざそのものだったのである。

さらに船は航路を西に取り、ローマに向かった。風は向かい風であったので、キプロス島と現在のトルコ半島の間の航路を進み(4節)、船はルキヤ地方のミラの港に入った(5節)。そして次の6節には、「そこに、イタリヤへ行くアレキサンドリヤの船があったので、百人隊長は私たちをそれに乗り込ませた」とある。

アレキサンドリヤはエジプト北部の貿易港であり、当時、多くの穀物がエジプトからローマへと運ばれていた。そしてこのミラの港はその寄港地であった。こうして、ようやく百人隊長たちはローマ行きの船に乗り込むことができたのである。当然、この船は大変大きな船であり、後の箇所には、この船には二百七十六人乗っていると記されている。

 

漂流へ

ミラを出港した船は、そのまま西に向かって、トルコ半島の南の端であるクニド沖に至った。そのまま西に向かえばギリシヤ沖に到達するが、風のためそれ以上進むことができず、南に向かってクレテ島の東端であるサルモネ岬の沖に達した。北西の風が吹いていたので、そのクレテ島の南側の島陰を進み、「良い港」と呼ばれるところに着いた(7節~8節)。

続く9節には、「かなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して」とある。「断食の季節」とは9月から10月の秋の季節のことであり、冬になれば、気候的に、この付近の船の航行はいっさいできなくなっていた。そのため、すでに危険な時期に差し掛かっていたということである。

そのため、パウロは10節で「皆さん、この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます」と言ったとある。これはもちろん、御霊の示しもあったのであろうが、何よりも伝道旅行で何度も航海を経験していたパウロの直感からのものであったと考えられる。しかし、11節にあるように、百人隊長は、パウロの言葉よりも、航海士や船長のほうを信用して、そのまま航海を続けることにした。

さらに12節には、「また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見は、ここを出帆して、できれば何とかして、南西と北西とに面しているクレテの港ピニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった」とある。どのような理由かは不明であるが、この「良い港」と呼ばれる場所は、そのまま冬を過ごすのに適していないと判断され、そこから65キロほど西に進んだピニクスという港まで行って、そこで冬を越そうということになった。ちょうど風も穏やかになったので(13節)、そのままクレテ島の沿岸を西に進んだ。

しかし、ユーラクロンという東北からの暴風が吹いて来て(14節)、船はその風に流された(15節)。16節から17節には、「しかしクラウダという小さな島の陰に入ったので、ようやくのことで小舟を処置することができた。小舟を船に引き上げ、備え綱で船体を巻いた。また、スルテスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて、船具をはずして流れるに任せた」とある。

クレテ島の南約35キロのところにクラウダという島があり、船はその島陰に入ったので、小舟を処理したとある。現在の船の避難用の小舟はもともと甲板に備え付けてあるが、当時の船は縄で引っ張っていた。そのため海が荒れるならば引き上げなければならなかったのである。またスルテスの浅瀬とは、そこから南にあるエジプト沖の浅瀬のことであり、東北の風を受け続けると、そこまで行ってしまって乗り上げる可能性があった。そのため、船具が具体的に何を指すか明らかではないが、そのようなことにならないよう、海の流れに任せるしかなくなり、さらに18節から19節には、船荷まで捨てて、さらに乗組員全員の手によって船具が捨てられたとある。

 

パウロの言葉

20節には、「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」とある。太陽も星も見えない、ということは、今この船がどこにいるのかが、航海士にもわからない、観測しようがない、ということである。さらに激しい暴風が絶えることがなければ、まさに助かる望みも生じようがない。

しかし、このような状態の中で、パウロは立ち上がり、乗船しているすべての人々に語った言葉が、21節から26節までの箇所で記されている。まず、パウロは、クレテ島の「良い港」で自分が忠告したことを聞き入れていれば、このようなことにはならなかったこと、しかし、自分が仕えている神の御使いが現われて、「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」(24節)と伝えたこと、したがって、必ず私たちは、どこかの島に打ち上げられて助かるであろう、ということを語った。

このようにパウロは語ったが、まず考えられることは、「良い港」において確かにパウロは正しい推測を述べて出航しないよう勧めたが、上にも述べたように、常識的に言っても、一人の囚人の言葉が航海士や船長の言葉より優先されるようなことはあり得ない。むしろそのようなことがあってはならない、ということが誰でも抱く感情であろう。航海士たちの判断を受け入れて、出発することにした百人隊長の判断が間違いと言うことはできない。

したがって、このように遭難してしまうことは、必然だったのである。ではなぜ、神様はこのように導かれたのであろうか。それは、このパウロの言葉を引き出すためだったのである。船長や航海士をはじめ乗船しているすべての人々は、すでにこの時点では、パウロの言葉を受け入れて出航しなければよかったと後悔している。つまり、パウロは正しいことを言っていたのだ、ということを嫌と言うほど味わっているのである。そのため、これ以降のパウロの言葉は、すべて誰でも受け入れる、という状態になっていたのである。

そのような状態の中、パウロは、神様の御使いが必ずすべて助かる、そしてパウロもローマ皇帝カイザルの前に立つ、と語ったという証をした。常識的な場面ならば、それは単に彼の思い込み、錯覚だと笑って聞き流されるだけであろう。しかし、もはやその宗教的な言葉でさえ、人々は希望の光として受け入れたに違いない。まさに、御使いの言葉の中にあるように、神は同船している人々をみな、パウロに与えたのである。

 

困難の意味

天地万物のすべては、神様の表現として存在している。これを聖書では、神が天地を造られたと記している。そして、神様の表現として誰でもが認めるためには、必ず人間的に絶望さえ感じるほどの困難や苦難が必要である。もしそのようなものがなければ、誰も神様に目を向けようとせず、自分たちの常識の世界で安住するはずである。それでは、神様は表現されない。

このように、神様はすべてをご自身の表現として存在させているわけであるから、誰であっても、すべてあらゆる存在は、神様の御手の中にある。そこから何一つ、除外されるものなどない。もし除外されるものがあるとするならば、その時、神様ご自身の一部が削り取られ、神様がその前の神様よりも減少した実在となるはずである。言うまでもなく、そのような滑稽なことがあるはずがない。神様は絶対者であるので、増えたり減ったりはしない。

したがって、誰でもが神様に立ち帰るならば、その絶対者に目を向けるならば、神様はその者を直接、神様の表現者として用いられる。今回の本文において言うならば、「良い港」から出航する前の時点においては、パウロ一行以外のすべての人々は、間接的な神様の表現者であり、パウロをはじめ、神様を信じる者たちだけが、直接的な神様の表現者であった。

しかし、望みが断ち切られるほどの困難の中、ほとんどの人々は、パウロが宗教的なことや非常識的なことを語っても、すべて受け入れる者たちと変えられた。パウロの言葉を受け入れるならば、その時点でその者は、神様の直接の表現者となるのである。ここに、困難の意味があるのである。

神様を信じる私たちにおいても、私たちがどのように熱心に信仰生活をしたとしても、必ず苦難や困難はある。ある時は、まさに遭難してしまったかのような状態に陥る。しかしそれは、神様が私たちを見離したことでは決してなく、私たちが神様から目を離したためでもなく、ただ神様のみわざが表わされ、私たちが神様の直接の表現者となるためである。

『ヨハネ』9章の冒頭において、イエス様の弟子たちが生まれつきの盲人を指して、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(2節)と言った時、イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(3節)とおっしゃられ、この盲人の目を開かれた。悪いことがあれば、必ずそこに原因があるはずだ、と考えるのは、この世の常識である。しかし、神様の霊的真理においては、それはない。すべてはただ、神様のみわざの表現なのである。

しかし人間の現実においては、困難などがなければ、神様に立ち返ることはない。この困難なども、過去の人間の失敗や罪などの結果ではない。聖書では、神話的にそのように表現しなければ、誰も理解できないために、『創世記』の最初から、人間の罪を説くが、究極的な次元から見れば、それはいわゆる「方便」であって、事実そのものではない。聖書に記されていることは、一言一句誤りのない神の御言葉であるとする、既存のキリスト教会の正統とされる教理は、かえって聖書を正しく理解できないようにしている。それは目に見える聖書を偶像礼拝することであって、神様から離れた誤った教えである。聖書の究極的な真理が説き明かされ、それが理解されてこそ、聖書の存在意義があるのである。