『使徒の働き』   42 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

過去世、現世、未来世の三世(さんぜ)の旅路。

『使徒の働き』   42     25章24節~26章32節

 

フェストの説明

前回は、新任の総督フェストに会うためにカイザリヤに来たアグリッパ王とその妹ベルニケが、パウロの話を聞くことになり、千人隊長たちや市の首脳者たちと共に講堂でパウロと対面したところまで見た。

そして今回の箇所で、最初にフェストが、パウロのこの一件について簡単に説明するところがある。まず、パウロはユダヤ人たちが生かしてはおけないと訴えている者であるが、自分は彼に死罪に当たることは見いだせないことを述べ、結局、パウロ自身がローマ皇帝に上訴したので、彼をローマに送ることを決めたと、24節から25節に述べている。

続いて26節から27節に「ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです」と語っている。

 

この尋問の意味

そもそも、これは裁判ではない。したがって、パウロがカイザルに上訴したことによって開かれたものではなく、特に行なわれる必要のない尋問である。しかし、前回見た箇所の25章20節で、パウロのことについてフェストがアグリッパ王に「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない」と言っており、この26節から27節のフェストの言葉からも、アグリッパ王がパウロに尋問することによって、ローマ皇帝に書き送ることが得られるかも知れない、と期待していることがわかる。

このようなことから、この尋問は、表面的にはアグリッパ王がパウロに尋問する形となっているが、実は、ここで聞き出されることによって、フェストがパウロをローマに送るにあたっての訴えの箇条を得ようとしているということが明らかである。前回の箇所である23節に、アグリッパ王とベルニケは、大いに威儀を整えて講堂に入って来たことが記されていたが、実際は、そのようなアグリッパ王の威儀など、何ら意味のないことであることがわかる。

彼の父親のヘロデ王が死ぬ場面は、同じ『使徒の働き』12章21節から23節にある。その時、ヘロデ王はカイザリヤにあって、ツロとシドンの人々と和解して、その演説をしていた。そこに次のようにある。「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」。この世の栄光など、虫にかまれて滅んでしまうようなものであることがここで明らかとなっているが、その息子のアグリッパ王も、見た目には威厳があるように見えても、今回の本文の中では、総督フェストに思うように操られているだけの者である。それだけに、その威儀を誇っている姿が滑稽に思われるのであり、著者のルカも、そのことを意識して記述していると考えられる。

 

詳しく語り始めるパウロ

26章になって1節に、「すると、アグリッパがパウロに、『あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい』と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた」とあり、2節から23節の長い箇所で、自分が以前はどのような人間であり、どのようにイエス様に出会い救われ、変えられたかについて詳しく語っている。

そして2節から3節には「アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします」とある。

パウロは今まで、何度も人々の前で語る機会が与えられてきたが、このように詳しく自分の今までの経緯について語ることは、これが二回目である。その他は、自分は訴えられるようなことはしていない、ということだけを述べているに過ぎないのである。

パウロが最初に自分のことを詳しく語った時は、『使徒の働き』22章で、パウロに押し迫るユダヤ人たちから千人隊長が彼を保護した時である。その時、パウロは千人隊長に、そこにいるユダヤ人たちに話をさせてほしいと願い出て許され、詳しく自分のことをユダヤ人たちに語っている。

そして今回、同じような内容をアグリッパ王に語るわけであるが、その理由として、上に引用したように、最初にパウロがアグリッパ王に「特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです」と語っており、さらに先の箇所になるが、今回の本文の26章27節に、「アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います」という言葉が注目される。

つまり、パウロはユダヤ人であって、律法のことをよくわかっている人々に対しては、自分を殺そうとしている者であろうと、アグリッパ王であろうと、自分のことを詳しく語っているということである。

前回も見たが、パウロは二年もの長い間、前の総督のペリクスに福音を語り続けている。ペリクスはユダヤ人ではないが、妻がヘロデ王の娘のドルシラであるため、当然、ユダヤ教について詳しく知っている。このように、あくまでもパウロは、今までの伝道旅行の中でそうであったように、相手がユダヤ教に精通しているという場合には、どのような場面でも、自分が体験したイエス様の福音について語るのである。その反対に、その尋問の中心人物が、ローマの千人隊長のように、律法についての知識がない場合は、必要最低限のことを語るのみであり、必要とあらば、知恵を使ってその集まりを終わらせることもする。

これほど、パウロは律法を知らない者に対しては、正確に福音を表現する言葉を持ち合わせていなかった、ということであり、これは今までも述べてきたが、ギリシヤのアテネのアレオパゴスでのメッセージが、途中で聴衆が聞くのをやめるというような結果になった、ということにおいても如実に表されているのである。

 

福音を語る

このように、今回の箇所のパウロの弁明の内容も、ほぼ、『使徒の働き』22章で語られた内容と大差ない。もっとも、自分が体験したイエス様の救いについて語っているわけであるから、その証に二つあるわけがない。

しかし、22章の内容は、かなり単純に今までの出来事を語っているのに対して、今回の箇所では、アナニヤのことが記されていない。それは大きなことではないが、代わりに、「神が私たちの父祖たちに約束されたものを待ち望んでいること」(6節)、そしてそれは「神が死者をよみがえらせるということ」(8節)であることが語られている。さらに、それは預言者たちが語ってきたことであり(22節)、「すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中から復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということ」(23節)だと語っている。

すなわち、22章の言葉に比べて、かなり教義的なことを詳しく述べていることがわかる。22章では、ユダヤ人たちが事実をよく把握していないままで、とにかく騒ぎを起こしていたために、何よりもパウロは自分に関する事実を知らせる必要があった。しかし、今回は、すでにパウロは何者であるか、ということはじゅうぶん伝わっているわけである。パウロが最も伝えたいことは、言うまでもなく自分自身のことではなく福音である。

 

フェストとアグリッパ王の反応

そして24節には「パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている』と言った」とある。前任の総督であるペリクスと違って、ユダヤ教に対する知識が全くないフェストにとって、パウロの言葉は全く意味のわからない狂人の言葉に聞こえたのである。フェストとしては、ローマ皇帝に書き送る書状に記されるべき具体的内容が欲しいわけであるが、パウロの言葉が全く理解できなければ意味がない。彼はついに忍耐が尽きてしまったのである。

それに比べれば、アグリッパ王はかなりパウロの言葉が理解できたはずである。パウロもフェストに対しては、自分は気が狂っていないとだけ語り(25節)、すぐに次の26節前半で、「王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです」と語っている。

しかしそのようなパウロの期待が込められた言葉に対して、アグリッパ王は28節で、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。この言葉を見ると、アグリッパ王は、パウロの言葉が単に自分を弁護している弁明ではなく、純粋に自らの確信と信仰に立った言葉であることが十分理解できていたことがわかる。ただ、彼はそれを受け入れなかっただけである。

 

私のようになってくれること

これに対してパウロは、29節で、「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」と語っている。「私のようになってくれること」とは、ここまで見てきたように、そしてイエス様が『マルコ』13章などで語られていたように、どんな方法を通しても、信じた者が福音を述べ伝えることである。

救われた者は、すでにその者に限って言えば、それ以上することはない。真実に救われた者は、自分の意志で救いを否定することはまずありえないわけであるから、救われた時点で、多くのパラダイスを経て、神の御国に入ることは約束されていることと同じである。したがって、救われた者が救われた後にすることは、福音を述べ伝えることである。

福音を述べ伝えるということは、パウロのように表立って力強く福音の言葉を語ることに限らない。それは無限と言っていいほどの方法がある。そしてさらに大きく見るならば、天地万物は神様の表現として造られたわけであり、福音とは、もはや生まれたままの状態では神様を表現できなくなってしまっている人々が、神様を表現する人生に転換させるものと定義づけることができる。単に信じる者を増やすとか、教会を多く立ち上げるなどというものではなく、すべて、神様の表現としての存在に変えられるのが唯一の福音の目的である。

この視点からすれば、パウロの「私のようになってくれること」とは、「神様の表現となってくれること」と言い換えることができるのである。パウロ自身が、機会をじゅうぶん生かすように、と彼の書簡の中で(『ガラテヤ』5:13、6:10、『エペソ』5:16、『コロサイ』4:5)繰り返し記していることも、信じる者の存在のすべてが、神様の表現となるように、すべての機会を生かすということなのである。

 

カイザリヤの拘留が終了する

こうして、パウロの弁明は区切られ、すべての人々が立ち上った(30節)。彼らはその後、互いに話し合ったが、やはり結論としては、「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない」(31節)ということであった。

そして32節には「またアグリッパはフェストに、『この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されていたであろうに』と言った」とある。確かに、パウロに罪が見出されなければ、結局、フェストはパウロを釈放するしかない。前任の総督のペリクスは、妻がユダヤ人であることや、自分もパウロの話を聞きたいということもあって、最後までパウロを身近に監禁したままであったが、フェストはそのような思いも全くないわけである。しかし、パウロはすでに皇帝カイザルに上訴しているわけであるから、釈放することはない。

そして言うまでもなく、釈放されたならば、パウロの命はない。釈放とは、誰が聞いても悪いことのように思われないが、事実はパウロの命が断たれることに外ならず、神様は当時の社会的状況もじゅうぶん用いて、パウロを通して福音が全世界に広まるよう、巧みにすべてを動かされていたのである。

こうして、長かったカイザリヤの拘留の時期も終わり、これからの『使徒の働き』の残りの箇所は、いよいよパウロがローマに至るまでの行程が記されることとなる。