南北朝時代における南朝方の名将と言えばまず楠木正成の名が挙がることだろう。

彼は嫡子の正行と並び「楠公」と称され戦前の皇国史観においては(和訳通り「偶像」という意味で)アイドル的存在であり、戦後は新たな一面が解明されつつもその日本人好みと言うべき生き様は皆から愛されている。かく言う鶴ヶ魂自身もその生き様は好きである。

そんな楠公大好き日本人であるが、「小楠公」こと楠木正行死後の楠木家についてあまり知っている人はいないという印象を受ける。

そして、正行の死後に楠木家を継いだのが正成の三男である楠木正儀であった。

 

始めに断言する。

正儀は父に匹敵、いや、もしかしたら父を越える名将である。

だが、彼は生涯におけるある決断が理由で皇国史観に染まった歴史家から無視された。

今回はそんな南朝随一の名称、正儀の生涯を見ていきたいと思う。

 

幼名は虎夜叉丸。生まれたのは父・正成が湊川で戦死した1333年であったと伝えられる。幼少期のエピソードは伝わっておらず、彼の事績が登場したのは二人の兄が四条畷で戦死し家督を継いだのが始めである。急遽楠木家の家督を継ぐことになった正儀はその年内に幕府方の名将、高師直を相手に初陣を飾る。しかもこの時期に南朝の本拠、吉野を落とされ南朝存亡の危機を迎えるが家督を継いで間もない正儀も奮闘し、危機を何とか脱している。

 

その後も正儀は南朝の中核として苦しい戦いを強いられる中、各地を転戦する。南朝にとっては幸いな事に、幕府のツートップである足利尊氏・直義兄弟が反目しあった事もあり南朝は滅亡の淵からは脱する。勢いづいた南朝上層部は正儀に京都奪還を命令する。これに対し正儀は「奪還する『だけ』ならば容易ですが、それを維持するのは容易ではありません。」と諫言するも上層部に押し切られる。ちなみに結果は彼の予想通り。一時的に京都を奪還できたもののすぐに叩き出される結果となった。ちなみにこの時期に北朝方の名将、佐々木道誉との粋なエピソードがあるので、詳しくはこちらを参照ください。

正儀は戦いにおいて兵站や補給、後詰・調略と言った下作業を重視し槍を戦に効果的に用いている。後述するように北朝との和平を強く進めようとするなどその戦略も現実的である。

そう、現実的な戦術と戦略はまさに父・正成のスタイルであった。

正儀は正成の軍略の正統なる後継者と言っても過言ではない。

 

そして、彼はわかっていた。南朝はもはやじり貧状態であることを。

南朝が生き残る道は少しでも優位な状態を保っている間に、早急に北朝と和睦し合一する。それしか無いと言う事を。

それ故に、彼は北朝との和睦を強く進言し自ら交渉役に立った。だが、彼にとって不幸なのは当の南朝上層部が下らないプライドにとらわれ、自身が既に詰みかけている現実をわかってなかった事である。何とか話をまとめようと交渉を重ねる正儀であったが、南朝上層部は「向こうが降伏するという形でないと認めない」と言う姿勢に固執し、せっかくの協議を何度もぶち壊す(実際、南朝の頑迷な姿勢にマジ切れしかけたこともあったらしい)。それでも辛抱強く北朝との交渉を試みる正儀だったが、その結果段々と南朝から孤立することになった。

 

それは後村上天皇の死後に加速することになる。後継者である長慶天皇は後村上天皇以上の強硬派であった。最早このままでは和平なぞ望むべくもない。そして、ここで正儀は一つの決断をする。即ち…北朝への投降である。

 

和平交渉時に誼があった細川頼之の庇護の下、正儀は先鋒として南朝の臨時の本拠、天野を落とす。南朝は正儀が抜けた後の軍事力と将を埋められる訳もなく成す術もなく敗走する。

…と言うか正儀が抜けた時点で南朝の軍事力はほぼ壊滅し、完全に南朝の勝ち目は無くなったというべきかもしれないが。

ただ、ほどなくして庇護者である頼之が失脚すると正儀も北朝での居場所を無くす。

そして1382年には正儀は南朝に帰参する。その後は参議に任ぜられ後亀山天皇の擁立にも尽力したとされるが、以降は大きな戦功は無く晩年の活動はよくわかっていない。

 

以上、正儀の生涯をざっとであるが紹介した。

彼が皇国史観において無視され続けた理由、それは一時的に北朝に投降した事である。

忠臣である父や兄の名を辱める行い、と戦前においては見られたのだろう。朝廷への忠義に厚い楠木家に敵に降る不忠者がいた事を触れてはいけない、忠臣・楠木家の格が落ちる!とでも思われていたのであろうか。実際、薩長政権下において父や二人の兄、さらには自身の二人の息子には官位が与えられたのに、正儀は完全に無視されている。

 

では、彼が北朝に投降した理由は何であろうか。

当初僕は南朝のために和平を進めてきたのに南朝のボンクラ上層部に悉く潰され、「やってられるか!」という気持ちになったからだ、と思っていた。だが、いろいろな史家の考えに触れるうちに少し考えが変わってきた。彼は北朝に投降する事で南北の和平を進め、それと同時に南朝を破滅的な滅亡から守ろうとしたのではないか。

 

正儀が南朝から抜けることで南朝は軍事的な抵抗力を無くす。それに伴い南朝内の強硬的な気運も減退し、南朝から戦を仕掛けることは出来無くなった。そして正儀自身は幕府の有力者である細川頼之の庇護下に入る事で彼を通じて南朝への強硬論を抑える。その上で折を見て南北の和睦を進めようとしたのではないか、と僕は推察する。後に彼が南朝に帰参したのも北朝で出来る事が無くなったのに加え、南朝に和睦の気運を生まれさせると言う当初の目的を達した、と考えたからかもしれない。

 

皇国史観の弊害で貶められた正儀だが実際は正成の軍略の正統な後継者であり、命を全うして(いささか力づくだが)南北朝の和睦を軌道に乗せた点では父をも越える名将であった、と言っていいのではないだろうか。