言われた通りに、俺は息を吐くように気持ちを落ち着かせ、神経を一点に集中していくと、ボンヤリと映像が浮かんで来るのだった。 一体・此処は何処なんだ?辺り一面は、緑色で覆われていて、直ぐ近くには農家らしき家と、納屋か倉庫かと思われる古びた小屋があり、更に、その後ろには大きな孟宗竹の林となっている。その竹林の中には、スラリと伸びたその先に竹の皮を纏った物もあれば、掘り出しても良さそうな物、あるいは親竹近くまで伸んでいる物もある。季節を推し量れば、梅雨時の最中と見るべきだろう。と、一瞬、俺は人間であれば息が止まっていたと思った。その竹林の中に、腰を落としたまま竹に手を添えている男を目にしたからだった。男は注意深く辺りを伺っているようで、盛んに首を動かしている。俺は更に神経を集中して行くと、その男の顏の輪郭がハッキリとして来た、エッ、此奴は弥吉だ!もう何年前になるのか、三人めの娘だと言っていたお絹のかどあかしの時以来になる。随分と時が過ぎた筈だが、目の前の弥吉には、そば屋のノレンを払って出て行った勢いも、男前に思われた面影も無く、ホホの肉が落ち、目じりや額にも深いシワが刻まれている。若い時の男振りが際立っていただけに、ショボクレタ姿が哀れみさえも感じさせてしまう。弥吉は用心深く辺りを見回していたと思うと、腰をかがめながら田んぼの横にある小さな流れに素早く身を沈めた。恐らく、高低差のある田んぼを利用しながら、向こうに見える見事な松並木の街道に出て、足繁く行き交う人々の群れの中に紛れ込みたいのだろう。弥吉はとうとう街道横の葦の生い茂る小川の中に身を隠したが、時折り、畜生!畜生!と言う独り言も聞こえて来る。暫くすると、三人の男が街並みのある方向から走って来たが、あっちを見たり、こっちを見たり、あるいは振り返ったりと動作がかなり忙しいのが気に掛かる。「あの野郎・どこへ行きやがった」一見、兄貴風の男が「いいか!何としても見つけ出すんだ!」と、語気を荒げながら残りの二人に念を押している。 やはり、とは思ったが、前世の俺である弥吉はヤクザ風の男達に追われているようだ、弥吉、お前は一体、何をしたと言うんだ。 直ぐに、反対側の方からも二人の男が息を弾ませながら近付いて来た。「奴ア、何処にも見当たりやせんぜ」「畜生め、一体何処にいやがるんだ、あの野郎!・・オイ・まさか?権平を抜けたんじゃねえだろうな?」「いや、そりゃあねえと思いやす、元締めが、用心棒の先生に権平まで出張る様、頼んでやしたから。」「あの腕の立つ方の浪人か?」「へえ・左様で。」「そうか、それなら心配はねえだろうが、もし取り逃がしでもしてみろ、痛い目くらいじゃすまねえぞ。元締めはカンカンだからな。」「兄イ・野郎は闇に紛れて逃げるつもりじゃねえんですか?」「それもある、いいかお前ら街道筋だけでなく、農家の納屋とか細けえとこまで目を配るんだ、奴は腹も空かしている筈だからな。」 五人の男どもが左右に別れて行ったのを確認した弥吉は、思い切った様に葦の中から抜け出ると、急いで大きな松に身を寄せた。胸から下はズブ濡れで身体全体が小刻みに震えている。冷え切っている上に、随分と食い物も口にしていないのだろう。弥吉は疲れた様に松に寄り掛かると天を仰ぎ、フウ―と大きな溜息をついた。田んぼの向こうにある農家の軒先では二人の男が数人の子供に向かって何かを聞いている。「畜生!いよいよ俺も年貢の納め時か。」忌々しい口調で呟くと、弥吉は左手で膨らんでいる懐をギュッと握りしめるのだった。 街道には相変わらず旅人や物売りなどが行き交っていて、殆ど人通りが絶える事は無い。弥吉は松の陰からジイッと流れを見つめていたが、その内に、二人連れの旅人が近付いて来るのに目を止めた。一人はずいぶんと大柄だったが、連れの方は中肉中背で弥吉とは大差のない格好をしていた。二人連れがいよいよ近付いて松を過ぎようとした時、弥吉は声を掛けた。「もし、旅の人、急で済まねえんだが、あんたの身の物そっくり俺のと取り換えちゃくれめえか、いや、迷惑がかかるってんじゃねえんだ、心配には及ばねえ、金も・ほれこの通り。」弥吉は手にした一両小判を開いて見せた。小男は小判が目に入ると、足を止めて応じようとしたものの、大男の方が慌てて連れの腕を鷲づかみにするや否や、「俺達は急ぎ旅の途中なもんで!」と、叫ぶ様に言い放つと、飛ぶ様にして走り去ってしまった。「何でえ!畜生め、こちとら一両もの大金を出そうってんだ、頼まねえよ・ベラ棒め!」憎らしそうな舌打ちを何度か繰り返すと、弥吉は思い出したように身を屈め、改めて辺りを見回すのだった。その内にフト気付くと、五本ほど先の松の根元に旅の僧らしき姿が見える。何を思ったものか、弥吉は低い姿勢のまま松から松へと身を運ぶと、旅の僧に近付いた。松の太い根っこには枯れた松葉が溜まっていて、まるで柔らかい座布団を敷いたかの様になっている。「オイ、坊んさんよ。」旅塵にまみれた旅の僧は滴る額の汗を拭いもせずに、前に座り込んだ弥吉をジッと見詰めると「何でしょうか?」と、声を返した。「実はよ・・実は、これを預かっちゃ呉れめえか?」弥吉は懐から重そうな袋を取り出すと、旅の僧の足元に置いた。旅の僧は一旦、袋へと目を落としたが、直ぐに弥吉の目に顔を向けると「お前さんは?」と尋ねた。「預かって呉れとは言ったが、返して呉れとも言わねえよ・・・いいんだ、もういいんだ・・坊んさん、あんたにやるよ。但し、ヤクザな奴には絶対やらねえでくれ。」弥吉は小さな溜め息を付いた後、「何が何でもやりたくねえ奴がいるのさ」と付け加えた。旅の僧は再び、ジッと弥吉を見詰めると「兄さん」と声を掛けた。弥吉は注がれた視線から逃れるように目を逸らすと、「ヘン、俺に説教ってか」説教したって”釈迦に説法〟とは、この事だあな、と言わんばかりの返事をした。「そのつもりは無い、一言だけだ」「何でえ」「兄さんの身に何かあったら”南無妙法蓮華経〟と、唱えなさい。」「ナンミョウホ-レンゲキョウ?ナンミョウホ-レンゲキョウ?たあ何の事だ。ナンマンダブじゃねえのかい。」「そうじゃない、南無妙法蓮華経だ、これこそが最も正しい題目だ。」「聞いた事もねえな、まあ憶えといてやるよ。」ケッ、澄んだ目してやがるぼうずだぜ。「あばよ」弥吉は旅の僧から離れると、腰を落としたまま松から松へと移って行った。「へッ、これで気分が楽になったぜ。元締めの、目ん玉・ひん剥いた顔が目に浮かぶ様だ。いい気味ってもんだぜ。」陽は西に傾き、松の長い影は道を横切って田んぼの中にまで伸びている。腹が減ったなあ、と呟きながら腹を押さえていると、町並みの方から牛車の近付いて来るのが見えた。「オオ、あれだ!」近付くにつれ、牛に鞭を入れながら声を掛けている老爺の姿がハッキリとして来たものの、荷はどうやら肥え樽らしい。姿が大きくなるにつれ鼻を刺す臭いがきつくなって来た。「贅沢言っちゃあバチが当たるぜ」弥吉は急いで懐から薄汚れた手ぬぐいを取り出すと、頭から被ってアゴの下で強く結んだ。上手い具合に藪の中から飛び出すと、荷台の後ろ側につき如何にも車を押す格好をした。思った通りの肥え樽が車の幅いっぱいに三つも並んでいる。「何てえ臭えんだ、クソッ!三つも並べやがって、大名屋敷か大店からでも持って来やがったか!」車輪が小石を踏みしめる度毎に、容赦なくはねっかえりが飛んで来た。一町ばかりも過ぎるといよいよ陽は落ちて、田んぼのあちこちから薄い煙の上がるのが見える。「こりゃあ・ひよっとしたら助かるかもしれねえ、権平を越せば何とかなる、お陽さんよ、頼むから早く沈んでくれよ。」 その時だった。二人の男が小さな畦道を走りながら喚いている。「止まれ-!オ―イ止まれ!爺じい、止まるんだ!」「畜生、何で見つかったんだ!」弥吉は一層身を屈めると懐の匕首を掴んだ。見つかりゃあ、そんときゃあ・そん時だあ。息を切らしながら一方の男が、「爺さん、樽の中身は何だ!」「へえ、肥えですだ」「何だ、肥えか。道理で臭え筈だ」馬鹿な奴等だぜ、肥えの中に隠れているとでも思ったか。「よし、ウッ・臭え、早く行け!」老爺はペコペコしながらも鞭をくれると、ゼ-ゼ-と牛に声を掛けた。弥吉は再び動き出した牛車の後ろから押す振りをしながら通り過ぎようとした時だった、もう一人の男が怪訝そうな顔付きで「オイ・弥吉兄いじゃねえのか?」「畜生!」弥吉は権平とやらに向けて駆け出した。「弥吉だ!逃げたぞ!俺が追うから、お前は兄貴達を呼んで来てくれ!」「畜生!此処まで来たんだ、捕まってたまるか!」必死になって走ったものの、追手が若すぎた。男は弥吉の襟を引っつかむと、思いっきり後ろへと引き倒し「野郎、捕まえたぞ!」と大きく叫んだ。弥吉は後ろ手にねじ上げられながら、もと来た道を引き返していると、薄明りの中に六・七人の塊が見えて来た。先ほどよりも人数が増えているのは、何が何でも捕まえなくてはならなかったのだ。「良くやったな」と声を掛けた兄貴格の男は一番の若衆に、「権平の先生に、こっちに来てくれろと頼んだら、その足で元締めに伝えて来い」と指図した。やがて、七人ほどの集団は街道横の雑木林の中へと入って行った。「弥吉兄い、よくも面倒掛けてくれたな」「どうしようってんだ」「分かってるだろう、イカサマで稼いだ金を返してくれりゃあいいのさ。元締めはカンカンでね、飼い犬に手を嚙まれたと大層な立腹さね。」「飼い犬だと、ふざけるな!俺あな、今までに相当な上がりを納めて来たんだ、女を売り飛ばす度に最低でも二両の金子は渡して来た、八人の女だけでも二十両もの大金だぞ。」兄貴格の男は「へッ」と、見下げた笑いを浮かべると「弥吉兄い、笑わしちゃいけねえよ。元締めに取っちゃあ、そんなもんは金の内にへえらない事位おめえも知ってたんじゃねえのかい。さあ・返して貰おうか、百両そっくりな。」座らされた弥吉に、一人の手下が近付くと、サッと懐に手を差し込んだ。ズッシリとした懐中を手にする筈だったが、あてが外れたかの様に慌てて懐をまさぐった。「兄い!ありませんぜ!」「何い!そんな筈はねえ・しっかりと探して見ろ!」怒鳴られた手下は弥吉の身体を倒す様にして探っていたが、直ぐに、小さな財布を取り出し、「これしか無えようで・・」と小さく呟いた。顔付きを変えた男は業を煮やしたかのように足蹴りすると「弥吉・てめえ!何処にやった!」と、脅しを込めて叫んだ。「フン、知らねえよ」「畜生!」「兄い、あれが無えと元締めが・・」互いが顔を見合わして浮足立つと、弥吉への注意が散漫になったのだろう、今だ、と思った弥吉は素早く立ち上がると駆け出した。深くなりつつある闇の中を二十歩ほども足を運んだろうか?闇の中なら逃げ切れると、思ったのも束の間、権平で来るのを待っていたと言う用心棒と出くわしてしまった。顔を見合わせた瞬間、用心棒は「待て」と言うより早く、刀を抜くと、そのまま大上段から振り下ろしていた。弥吉が「しまった」と躊躇した時には、左の肩に軽い重みと、焼け火箸に触れた様な痛みを感じたが、弥吉の身体は膝が折れ、そのままゆっくりと地に突っ伏した。ドクドクと身体から血が抜けて行くのが分かる。弥吉が自分の命はやがて終わると自覚した時、今迄に、嘘を重ねてだまして来た八人の小娘達の顔が、次から次と浮かんでは消えた。だまされた事が分かって、その場に泣き崩れた娘もいたし、俺を睨みつけながら・嘘つき!嘘つき!と叫び続けた娘もいた。だまされたと知った娘達の必死の形相や叫び声は、弥吉にとっても気の滅入るものだった。アア・・俺は年端も行かない小娘達の流す絶望と怒りの涙の上で生きて来たんだ、何と情けない卑劣な人生だった事かと、死を目前にして初めて・本当に分かった気がした。 直ぐに追い付いた兄貴分は「殺っちゃあまずいぜ!」と言い放ったが、用心棒は刀を納めると何も無かったかのように立ち去った。「オイ!オイ・弥吉!金は何処なんだよ、金だよ!」弥吉は少しづつ遠のいていく意識の中で、自分を激しく揺さぶりながら大声で喚くのを感じはしたが、もうどうでも良かった。 「こんなクズみたいな俺でも心配して忠告までしてくれた坊んさんよ、嬉しかったぜ・・あんたの考えた通りになっちまったようだぜ・・・あの坊主、何とか言ったな・・ナンマンダブじゃねえや、何だったっけなあ・・ナンミョウホ-レン・か?・・ナンミョウホ-レンゲキョウ?これだ、間違いねえ、・・しかしなあ、坊んさんよ、今更・言ってみたって始まらねえよ・・・なあ、そうだろう・・なあ・・澄んだ目・・してやがった・・・なあ―・・・ 急にボヤけると、もう二度と何も浮かんでは来なかった。「何て事だ・・三人だけじゃ無かったのか・・俺は八人もの女性を肴にして生きて来たのか・・八人も・・娘をさらわれた親の苦しみ、憤り、不安や寂しさ、俺にも娘がいた。ある日突然に娘がいなくなったら、と思いを馳せた時、俺は身もだえせずには居られなかった。あああ・・俺は見も知らぬ家族の愛情や夢を幾つも幾つも引き裂いて来たんだな。ああ・そうか、そう言う事か・・両親の愛を受けなかった俺がいたのは当たり前の事なのか?・・そうなんだ、・・・これが因果なのか?自己責任と言うやつだな・・。