俺は、身動きもままならぬ窮屈さから一気に解放された、その前に何か尋ねたい事があった様な気がしていたのだが、余りにも急激な展開だったせいなのか、思い出せずにいた。何だったんだ?心の中で反芻しながら、特別な入口を見詰めた。明るい!目に眩い明るさとはこの事か?それだけでは無かった、小鳥にさえずりや、それらに混じって美しい歌声も聞こえて来るようだったが、更に奥の方へと目を移すと、驚きは倍加していた。遠くへと続く道は色とりどりの宝石が敷き詰められ、道と草原を仕切ったロ-プは黄金に輝いていた。何てスゴイ所なんだ、俺は、何が何でも輝く道に入り込もうと、必死にもがいてみたが一歩でさえも近付く事は出来なかった。力が入れば入るほど遠ざかって行く、まるで、周り回廊を進むかの様に。「アア・駄目だ!こっちじゃない!」と、声を上げそうになった時には、俺は分厚い扉を思わせる壁の前に立っていた。「これから一体、俺はどうなるんだ?」一瞬・先の見えない不安がかすめたものの、俺の身体は何事も無かったかのように、壁の向こうへと押し出されていた。「アッ」と、叫んで振り返るなり手を伸ばして見たが、硬そうな扉を感じる事は無かった。死を迎えた人間が必ず大王の前に立つのと同じで、この場所に来たら最後、二度とは逆戻り出来ないに違いない。諦めがついた時、辺り一面が分厚い蒙気に覆われて一寸先でさえ見えない事が分かった。大王の世界ではかろうじての視界があったものだが、此処では全く何一つとして見える物は無い。「いいんだ、急ぐわけじゃなし」と、自分を慰めて気持ちが落ち着くと、軽い疲れを感じてその場に座り込んでしまった。無理もない、大王の前ではいい加減な気持ちは許されず、神経を研ぎ澄ましていたんだものな。それにしても、入って見たかった、あの明るい道へと。大王の言っていた因果だな、結局・俺は、あの道に入れる資格を持ち合わせてはいなかった、南無妙法蓮華経を口にした事も無かったし、日蓮さんが、どの様な教えを説いたのかさえ知らなかったんだから。 俺が心地いい脱力感に浸っていると、訳の分からぬ物がすぐ横を通り抜けて行くのに気が付いた。不思議に思いながら神経を少しだけ研ぎ澄ませてみると、また同じ事が起こった。何だ・これは?と、いぶかる俺の横をまたもや何かがすり抜けて行く。ハハア・これは魂だな、しかも、俺と同じ様に特別な善も成さず、かと言って、眉をひそめさせる悪行も成さず、只・平々凡々と人生を送った人間に違いない。俺に似通った魂が次々と通り抜けて行くのは、大王が平常の業務に戻ったと言う事なのか?何故・この俺にだけ?の疑問と、ヒマなこともあって、この世界に入り込んだ時からの流れを思い返していると、不思議な事に気が付いた。記憶力が蘇っているではないか。本の二・三ページ位ならスラスラと暗誦出来る程の記憶力だ。何てことだ!妻の死後と言うもの、昨晩・口に入れた食い物さえも思い出せないほどの情けなさだったのに。スゴイ!これはスゴイ、単に世界が違うからなのか?それとも、大王が俺の為にそうさせたのか? そう思うと、そう思えなくもなかった、確かに・大王は「後で思い返してみろ」と、言った筈だ。その為に記憶力を蘇らせてくれたのかも知れない。俺の前にいた男の苦痛に満ちた顔や、喘ぎながら鉄球を引きずって地獄の入口へと歩みを運んだ痛々しい足の動きさえも、ありありと浮かんで来る。確か、大王とのやり取りは「二百年振りだな」の一言から始まった訳だが、考えて見ると、大王が他の魂に対して言葉を発したり、あるいは意見を聞いたりなどの仕草は全く無かった。様々な話を交わしたのも俺一人だったし、俺としても、大王に対しての恐怖心は感じなかったし、むしろ懐かしさの思いの方が強かった。その他にも、不思議な出来事が次々と浮かんで来る。何故、長い行列のあの場所に入り込んだのか?俺の後ろには行列が続いていたのだから、あの最後尾に並ぶのが当然の筈である。しかも、あの白い肥満の男の次に俺は入った。大王は、あの男の生き様の結果を見せたかったからだろうか? 確か、正法誹謗とか言ったな。万人の成仏の可能性を説いた法華経と成仏を可能にする南無妙法蓮華経と言う題目、それと、それを実践した者と、さげすみの悪口を浴びせ続けた者との違い・・・一体何が言いたかったんだろう?大王は最初に俺の前世の姿を見せてくれた。それから、不思議な光の理由を尋ねると、日蓮さんの話になって・・待てよ・・アッ、日蓮さんが大王の前に現れた時、大きな光の中で三匹の手下がいなくなった、と言ったな。もしかして・・もしかしたら・・・その中の一匹が俺だったと言う事なのか?・・・そうであるなら辻褄が合う。かって手下だったからこそ声を掛けてくれたんだし、俺が懐かしく思えたのも頷ける。しかし何故、あの時に大王は俺から視線を外したのだろう?しかも俺には溜め息をついたようにも思えたが・・何故なんだ?・・・・・解った!解ったぞ!そうか・そうなのか、光の中で手下だったものが進化して、大王は境涯が上がったからとも表現していたが・・そうなんだ、手下どもが魑魅魍魎の類から変化するのを目の当たりにして、自分には何時、この変化が訪れるものか心待ちにしているんだ。それとも、手下には起き得たとしても大王たる自分には無理なのかと、不安に思っているのだろうか? 何れにしても、大王は人間に恋い焦がれているんだ。喜怒哀楽を感じて、それを表現できる人間、そして可能性に満ち溢れた人間。だからこそ、人間の笑顔に少しでも近づきつつあると思っている自分の笑顔を見せてくれたんだ。これが真相なのだろう。俺も大王の手下であったのであれば、何とか夢を叶えてやりたいものだ、と思った瞬間、不謹慎かどうかは分からないものの、とんでもない思い付きが頭の中を満たした。考えただけで、自然と笑いが込み上げて来る。ウフフ・ウフフッ 俺は絶対に世界有数の大金持ちになれるぞ。際限も無く笑いが込み上げる、それは、大王の底知れぬ記憶力を使っての金儲けを思い付いたからであったが、この世界に来てからも娑婆っ気の抜けない自分への可笑しさと、金持ちとしての度合いが桁外れに思えたからでもあった。ウフフ・ウフフッ もう止めようとしても何の効果もなかった、ノ-ベルなんて目じゃないな、ウフッ、俺の名前の下に賞の文字が付くのか、こりゃあ・たまらんな。大王の前には古今東西のありとあらゆる人々がやって来る。当然、歴史を創った人達も免れない、歴史転換の立役者の記憶を読み取るなど、大王だけに与えられた特権なのだ。卑弥呼は何処に邪馬台国を築いたのか?トル-マン大統領が原爆投下の指示を出すまでの葛藤も手に取る様に分かってしまう、信長が荒れ狂う炎の中で光秀に対する態度を後悔したのか?それとも、”人生は五十年〟と達観して舞ったのか?竜馬が暗殺された時、”洗濯は未だ途中だ!〟と思ったのか?まだ見ぬ大陸に思いを馳せたのか?それとも、傍らの慎太郎を気遣いつつ終えたのか?これら等は序の口で、人類史上の謎とされる事柄が全て明白になる。こうなると、世界の出版社は放ってはおくまい、争って俺に会いに来る筈だ。俺は世界有数の大金持ちだな、賞を創設するのなら、どの分野にしたものか?俺がニヤついた顔付きで「さて、どうする?」と思案を始めた時だった。 ガツン!!顔が地面に埋まってしまうのでは?と一瞬思えたほどの力で頭を殴られたのであった。「何だ!馬鹿馬鹿しい!」俺は、自分の軽率さや甘さ・愚かさを呪わずにはいられなかった。この世界の知識も記憶も、次の娑婆世界へとは持っては行けないのだった。「アア・ア」と、ぬか喜びの大きな溜息を洩らした時、合点の出来る理由が、突如として湧いて来た。そうか!解ったぞ!解った! 二度目の大王の溜め息の理由が!あの時は、人間として南無妙法蓮華経を口にする事が如何に難しいかを話していたんだ。 大王は日蓮さんの教えが最高だと分かっている。分かっているが故に、果たして、それが自分には出来るのか?手下共には出来たとしても、この自分には無理なのではないか?と。 自分が何時、人間へと進化出来るのか、それさえも覚束ないのに・・・大王は自信が無いんだ!遠い未来に待ち望んだ人間として生を受けた時、”南無妙法蓮華経〟を唱えられる自分なのか?大王こそが一番分かっている筈だ、この世界の如何なる情報であろうとも、人間の住む娑婆世界には持って行けない事を。だからこそ心から心配しているのだ。そうか、それで、鬼から人間へと進化した俺が、あの光を放つことが出来るのであれば、大王にもその可能性があると言うことになる。だからこそ、鬼族出身であるこの俺にだけ手間暇をかけ、しかも、無駄だと分かっていつつも光を放つ人間へと変化し得る方法を伝えたのだ。本来なら、日にやって来る何万・何十万もの魂を、行くべき道へと裁かなくてならない筈なのに。 俺は、改めて大王の期待の大きさに驚くと同時に、限りない可能性を秘めた人間への強い・強い憧れを感じずにはいられなかった。そうか、大王は人間になりたいのか。大王の本心が確信出来た俺の心の中には、新たな感情が吹き上がっていた。閻魔大王ほど恐ろしい者はいないと思われている大王が、実は、何あろう弱くて他愛もない我々人間に憧れていたなんて。俺は出来るものなら愛しく思える大王の前に進み出て「心配しなくても大丈夫だよ。きっと人間に成れるからね」と、励ましてやりたい。 目の前には、あの巨大で剛毛に覆われた大王の姿は無く、将来に不安を抱えた青白い顔をした等身大の少年がいるだけだった。  俺が、やがて縁あって人間に生まれたとしたら、必ず・日蓮さんの教えを実践して、あの不思議な光を放てるタマシイになってやる! そんな俺のタマシイを見た大王はどんなに喜ぶことだろう。もっと・もっと人間に近い笑顔が出来るようになるかも知れない。例え、そうならなくても大王にとって、遠い未来に一条の希望を見出す事になるに違いない。 アア・出来る事なら、俺が娑婆世界に無垢な赤子として誕生した時、小さな小さな大脳の片隅、いや・片隅の一点でいいから、南無妙法蓮華経の妙の一字でもいい、金を受け取った旅の僧の澄んだ目でもいい、微かな一点に記憶として残っていてくれたら、 俺は間違いなく南無妙法蓮華経を唱える人間として生涯を送るに違いない。よし!決めたぞ!今の俺の心の中には迷いなど微塵も無かった。蒙気の中を勢いよく立ち上がると、来世への第一歩を踏み出した。やがて、蒙気を突き抜けると、輝く星々を抱き抱えた大宇宙が広がっている筈だ。俺のタマシイは広大な空間を漂いながら、前世に積んだ因にふさわしい果となる縁と出会えるのを楽しみにしつつ。
                              終わり