自殺そのものは良くも悪くもない | 斉藤つうりのブログ 『ブッダプログラム』

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自殺。

 

私は僧侶として寺で葬儀を行う中で、自殺の方とまた遺族と関わってきました。

 

そのなかでよくこのような質問を受けます。

 

「自殺をした人は、輪廻転生のなかでペナルティを受けるのでしょうか?」

 

私はこれらの意見に対してこう答えています。

 

「人はみんな自殺をしているんですよ。その点においてはほとんど全員同じです」

 

どういうことでしょうか?

 

私たちは自分で自分を日々、傷つけ続けています。

 

自分の感情を文字通り、押し殺し、平静をよそおいます。

 

誰かを許せないと思う時、殺したいほど怒る時、それは自分自身を殺したい衝動に他なりません。

 

それらの要因が重なったとき、私たちは自分自身を殺すような行動に出ます。

 

ある観点からすれば、病気や怪我や事故なども、「いまの自分自身を消し去りたい・殺したい」という意図があらわれている、ともいえます。

 

(もちろんすべてがそうであるとは言いません。けれど絶妙なタイミングで起こる病気や怪我や事故などには、人生をリセットする効果があるということもいえるでしょう)。

 

なので、講座やスクールなどで「あの人が自殺したけれど、つうりさんはどう思いますか?」という質問を私が受けた時には、

 

「たまたまそれが目に見える形で起こったにすぎません。自分を殺そうとする試みは今この瞬間にもみんなやっていますよ」

 

と答えます。

 

理屈に飛躍があるように感じられる方もいるかもしれません。

 

けれど私が自殺の葬儀に関わってきた経験からの答えなのです。

 

以前にこんなことがありました(※)。

 

母子で暮らしている家があり、お母さんと娘さんの二人暮らしでした。

 

お母さんはややご高齢でしたが、元気がよく、働いている娘さんを支えていました。

 

そのお母さんが突然脳梗塞で自宅で倒れて、そのまま亡くなってしまいました。

 

その娘さんは自分が連絡を取らなかったことにとてつもない後悔を抱えてしまいました。

 

枕行や葬儀にも本当に大変な精神状態で、まだ20代前半だった私は何かできることがないかと娘さんと様々な話をしました。

 

そして49日になるまで、ご自宅に毎日のようにお経に行き、娘さんは徐々に自分自身を許せるようになってきた様子でした。

 

49日の法要がおわった後、娘さんから電話がかかってきました。

 

「ようやくこれで母を送ることができました。本当にありがとうございました。そしていろいろとお話を聞いていただき、支えていただいたおかげさまで私も本当に楽になりました」

 

私はまだ若かったので、その言葉をそのまま受け取り、よかったな、誠意をつくせば人は痛みを乗り越えられるのだと信じていました。

 

その翌日の朝に連絡がありました。

 

その娘さんが自殺をしたのです。

 

お母さんの仏壇の前で。

 

私と電話で話した直後に。

 

この場合、誰が悪かったのでしょう?誰かが罪をおかしたのでしょうか?

 

私は何度もこの出来事を振り返りました。自分の言動に何か誤りがあったのか。何が悪かったのか。どうすればあの娘さんは自殺せずにすんだのか。私にできることはなかったのか。

 

深く悩み、葬儀を行う意味や、僧侶という役割についてすべてを投げ出したくなりました。

 

自分の行っていることが何もかも間違っている気がして、山にいきました。

 

私は山岳部だったので、何か悩むと山を駆け上って、体が悲鳴をあげても、痛めつけるということを繰り返していたのです。

 

体は「もうやめてくれ」と叫び声を上げます。

 

けれどその声を怒りにまかせてねじ伏せます。

 

荷物を背負って、怒りにまかせて山を駆け巡ると、自分に罰を与えているような気がして、少しだけ楽になったからです。

 

そしてある時気がつきました。

 

ああ。こうやって自分を痛めつけることのものが、自殺なんだなと。

 

このまま山を続けていれば、かならずどこかで事故にあうだろう。体を壊すだろう。病気にもなるだろう。

 

私はいまこの瞬間、自分を殺そうとしている。

 

これが自殺なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

私がいまお伝えしたいのは、こういうことです。

 

「自殺する人としない人を線引きすることは難しい。自分を殺したいという意識があるかぎり、それは必ずあらわれるのだから。そのあらわれの違いがあるにすぎない」

 

自殺が悪いこと、罪である、と線引きをしてしまう世の中の声こそが、私にとっては暴力的です。

 

それは自分を傷つけるということに無自覚な人の意見にすぎないのだから。

 

ですから、自殺をした、という方の話を聞く時に、こうとらえることにしています。

 

「ほんのすこしだけ過激なやり方をしてしまったんだな」と。

 

ですから私はその人が「間違ったことをした」とは思いません。

 

もちろんこういう意見もあるでしょう。

 

「みんなつらいんだよ。だけどつらいものを背負って生きていくのが人間なんだよ。生きていくことに意味があって、自分で自分の命を絶ってはいけないんだ。だから私はつらくても死にたくても生き抜いているんだ」

 

すこし嫌な言い方ですが、もし自殺をしようとする人が目の前にいるときに、この台詞は効果はありません。

 

この「苦しんでも生きていなければダメ」原理のよくないところは、相手と自分を切り離して、自分が優位にたっているという視点から相手を下に見てしまうところにあります。

 

 

 

私のアカシックのセッションでは、こういう方がきます。

 

自殺をしたいのだけど、それは私の運命なのだろうか、自殺したあとはどうなるのだろうかと質問をされるのです。

 

そのとき私はこう答えます。

 

「死んでも死ななくても何も変わりません。私たちは肉体だけの存在ではないので、死んだ後も自分を殺したいという思いは何一つ変わらないのです」

 

と。

 

私は僧侶とアカシックリーダーという視点を通して、この世とあの世の両の足をまたいでいる感覚なので、私にとってはこれが常識なのです。

 

つまり

 

「いま自分を殺そうとしているなら、肉体があろうがなかろうが、苦しみは同じこと」

 

ということです。

 

そうすると自殺願望のある人はこう聞いてきます。

 

「死んでも逃げられないんですか?」と。

 

私は、そのとおりですと答えます。

 

そしてこのように伝えられた人はもう自殺することができません。

 

 

 

 

もう一度ここで私が言いたいことを繰り返しましょう。

 

仮に肉体を殺したとしても、自分を殺したいという気持ちは死後も続きます。

 

だから肉体に対する自殺は無意味です。

 

 

 

だとしたらどうするのか?

 

自分を苦しめているものの正体は

 

「小さな正しさにしがみついていること」なのです。

 

 

プライド。

 

社会的な役割。

 

相手との人間関係。

 

肉体への執着。

 

そんな小さな正しさが自分自身だと思い込む時、人間はそれを手放す時に「これを手放すことは自分が死ぬことと同じだ」と誤解してしまうのです。

 

だから私はセッションで、自殺をしたいとする人にはこうききます。

 

「自分の何を殺したいのでしょうか?」と。

 

そしてまた自分のなかに殺したいものがある、という状態は普通の状態です。

 

むしろ健全とも言える。

 

いまの自分に行き詰まりを感じていて、上記したような小さな正しさがせせこましくって、なんとか自分の殻を破って、エッジを超えていきたい状態なのです。

 

だから

 

「そうか。殺したいのは自分自身の本体ではなく、自分のなかの何かなのだ」

 

と、もし相手が気がつくことができたなら、その人はその状態から一歩動くことになります。

 

そしてまたそれは何も「異常」なことではありません。

 

むしろ「正常」なのです。

 

自分がしがみついている正しさを超えていくことは、とてもとても大変です。

 

その大変さは私も身に染みてわかっています。

 

けれどここで言いたいことは

 

自殺そのものは良くも悪くもない。

 

ある意味では、病気も事故も同じだから。

 

そして「自殺をしたい」という衝動を、生物としての異常反応ではなく、

 

変化のための正常反応のなかでとらえることができなければ、

 

私たちは自殺をした人を一方的に裁き、自分と違う場所へおき、

 

見たくないものとして切り離すということをやめることができない。

 

 

そしてまた

 

「自殺をしたい」という衝動を、社会全体の動きとしてとらえることができなければ、私たちはその本質を捉えることはできないのかもしれません。

 

自殺をした、というニュースをみて、ああ、残念だと思うだけではおそらくその意味が見えないでしょう。

 

 

 

私はいつも自殺をしたという人の名を見るたびにこう思います。

 

この人は何を殺そうとしたのだろう。

 

そしてそれは私のなかにも同じ衝動があるのだ。

 

この人の自分が自分の肉体を殺してまで表現した正しさとの戦いは、私のなかの超えられない何かを引き受けてくれたのかもしれない。

 

そんな風に私はいつも考えます。

 

自殺はよくないと糾弾したり、自殺を産む世の中が悪いと叫んだり。

 

あるいは自殺の要因を探って噂話をしたり。

 

そんな反応が普通なのかもしれませんが、私は数多くの自殺に関わってきた僧侶として、こういいたい。

 

 

私たちは全員、いまこの瞬間にも自分を殺し続けているのだと。

 

自殺をした人とあなたとの間に、明確な境界線など存在しないのだと。

 

その理解がなければ、自殺をした人の心に出会うことは決してできないのだと。

 

けれどその理解があなたにもたらされたなら。

 

お互い小さな小さな正しさを持っている存在なのだと認め合うことができ、

 

その違いを知ることによって、小さな正しさを乗り越えていくことをお互いサポートできる。

 

私たちが出会う意味は、その理解と、サポートのためなのだと。

 

そう気づくことができるのかもしれません。

 

もちろん相手が肉体を持っていても、持っていなくてもそれは変わらないでしょう。

 

 

 

 

少し長くなってしまったけど、私の感じることを書いてみました。

 

 

 

 

ちなみに私の妻はモデル時代に三浦春馬くんとは仕事で一緒だったことがあり、「とても厚いバリアーを張っている人だった」と話していました。

また私は竹内結子さんはとても好きな女優のひとりでした。

 

その点についてはとても痛ましく感じています。

 

ご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

 

 

※プライバシーの保護のために、一部、詳細を変えて書いてありますが、私の体験したことはそのとおりに書いてあります。

 

 

 

 

お彼岸の日に撮影した彼岸花。

カメラニコンZ6+60ミリマクロ

 

 

 

 

 

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