西洋美術で騎馬像を主題に選んだ時のまとめを引っ張ってきてみました。
とは言っても、主にクセノフォン先生素敵!って言ってるようなものなんですが、日本人の感覚としての騎馬と、西洋の、根本からの騎馬文化に少しだけ言及できたらと思い書いたもの…だったような(笑)
ちょっと長いので、暇な時にでもどうぞ
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古代ギリシア・ローマにおいて個人(偉人)の栄誉を讃える記念的な意味合いをもって製作された騎馬像について、キリスト教の広まりとキリスト教美術の確立という時代の変化に伴ってどのようにその製作が意識されたのか、また、ルネッサンスにおいて騎馬像から見る古典意識の復興はどのようなものであったのか、騎馬像の象徴する意味と優れた騎馬像にある人馬比例で重要となる馬への関心を中心に考察する。
また、今回取り上げる騎馬像は、等身大またはそれ以上の大きさとなる立像彫刻の騎馬像とする。
西洋美術における偉人を象徴する騎馬像の基盤は、『マルクス・アウレリウス騎馬像』にあると言える。騎馬像の彫刻または絵画によって偉大な指導者を顕彰するという習わしは、有名な古代ローマの記念彫像である「マルクス・アウレリウス帝騎馬像」(ローマ・カンピドリオ広場)とともに始まった、と言われるように、後世の騎馬像に多大な影響を与えた彫像である。161年から180年のマルクス・アウレリウス帝の在位頃に作られたと考えられるこの騎馬像は、その主体となる人物の栄光や名誉を讃える記念立像としての騎馬像の特徴を顕著に表したものであり、その特徴を示した皇帝の騎馬像として唯一現存するものである。前に伸ばされた右手は、服従する異民族に慈悲を約束するポーズであり、馬を御する姿はその統率力と征服を象徴するように堂々とした姿勢である。
また、馬に跨るマルクス・アウレリウス帝は、大きく足を広げており、これはクセノポンによる『馬術論』における優れた馬の乗り方である。さらに、左前脚を上げる騎馬は、その躍動的な動きを見せる写実性もさることながら、『馬術論』における優れた馬の特徴を見ることができる。高く上げた首や、乗り手によく従う姿勢とされるハミ受けを許す顎、伸びやかに肩を使って伸ばされた脚はいずれも良しとされた動きであり、さらに毛の伸びた球節については手入れや馬の衛生面にて推奨された形である。このように、馬に視点を当てた場合に、その馬について何が良いものであるかが非常によく表現されており、製作者の馬への関心が窺える。当時の人々にとって、馬(あるいは騎馬)は戦には欠かせない存在であり、戦いに勝利すること、つまり個人の功績を成す段階において重要なものでもあった。また、異民族の操る騎馬兵は畏怖の対象でもあったが、同時に優れた馬を所有することは憧れでもあったと考えられる。つまり、優れた馬に跨り騎馬隊の先頭に立つ姿は、それだけで老若男女すべての者の目を引きつける程に立派である、と称されたように、その人物に威厳を与えていたのが馬である。
しかしながら、この騎馬像の持っていた元々の意味は、“彫刻や絵画でなされた説教である”と説明されるキリスト教が中心となる中世の美術には受け入れられない。なぜならば、中世の美術で最も重要なことは神(あるいは聖書)を伝えることであり、個人の功績を讃えるのではなく、そうさせてくれた神に対する敬意を表することが大切であったからである。さらに、三次元の彫刻による人間像は、人間に近い存在であり、これは自らに似せて人間を創造した神と張り合う行為とされた。
このように、宗教を基盤として発展した中世において、個人の人間を象り記念する騎馬像は、その製作の必要性を失っていくのである。同時に、技術面でも人体表現・馬体表現の写実性は薄れていくのである。馬についての関心はあるものの、馬術や獣医学についての真新しい進展は見られず、馬術よりは戦法としての騎馬術、馬産も七世紀から八世紀にかけて鐙などの馬具とともに馬上の騎士と甲冑が発展し、その重さに耐えられるような馬、戦の勝利者となるための道具として生産された。
中世の騎馬像『バンベルクの騎士』は、1237年頃の作品である。1185年に焼失したバンベルク大聖堂が1200年頃から新たに造営された際に、シュタウフェン王家の象徴として作られたものであるという説と、頭上に天空のエルサレムを表す天蓋飾りがあることから、ハンガリー王国にキリスト教を伝え聖人となったハンガリー国王イシュトヴァン1世とする説とがあるが、どちらにしてもこの人物がどの国王であるのかはっきりしたことはわかっていない。しかしながら、『マルクス・アウレリウス帝騎馬像』がコンスタンティヌス帝の騎馬像であると勘違いされ中世に残されたことを考えると、後者の説が設置されている場所が大聖堂内であるということもふまえ、騎馬像としての関連性もあり有力であると考えられる。ここに見られる騎馬像は、フランス
のランス大聖堂からの影響が色濃く、やや寸胴ながら人体表現・衣服の表現は古代彫刻のような調和が見られるが、対して馬に写実的表現は見られない。前脚(前半身)に動きはなく、右後ろ脚を上げている仕草が、生きた馬に跨った人間を象った騎馬像であるということを伝えるのみである。このように、マルクス・アウレリウス
帝騎馬像に見られるような写実表現は乏しいが、鞍や鐙といった中世を通じて発展した馬具は取り入れられ、騎馬への興味を全く窺えないものではない。
中世では受け入れられなかった騎馬像の象徴する意味も古代復興の流れとともに再び注目される。1436年に製作されたパオロ・ウッチェッロによる『ジョン・ホークウッド騎馬像』や1455年から1456年に製作されたアンドレア・デル・カスターニョによる『ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像』はどちらもフレスコ画で描かれた騎馬像ではあるが、共に個人を形象し功績を讃える騎馬像としての意味を持ち、その様式はマルクス・アウレリウス帝騎馬像からの影響を受けたものである。その後、等身大以上の彫像を製作する技術と共に騎馬像として個人の栄誉を顕彰する意味を持って作られたのが、ドナッテロによる『ガッタメラータ騎馬像』である。力強い足取りで進む騎馬を確かな写実性を持って表現したこの騎馬像は、跨る傭兵隊長ガッタメラータを讃えている。しかし、古代や中世の騎馬像と異なる点は、これが傭兵隊長
という地域的な英雄を象ったものでるということである。皇帝や王ほど崇高なる存在ではないが、民衆の士気を喚起させるような理想の人物像を具現化して作られている。騎馬像がより民衆に近く、伝える手段としてルネッサンス期には作られるようになり、より個人の象徴という意味合いも強くなっていく。
技術の古代復興と同時に、馬に向けられる興味も古代のものが再び注目され、馬がいかに繊細なる動物であるか、その“高貴さ”に視線が注がれるようになる。古代末期の獣医学関連のギリシア語論考を編集した『馬医学』が十三世紀半ばにラテン語に翻訳され、さらに古典のみでなく、ヨルダヌス・ルンスによる『馬の治療について』が書かれるなど、馬について観察し、新たに研究がすすめられている。クセノポンによる『馬術論』は十三世紀にギリシア語原典の写本がイタリアで出回り、十六世紀にはラテン語訳も出版される。このように、馬体表現に関しても、馬に対する興味と資料が十分に存在していたことも、再び人馬比例の優れた騎馬像が登場する要因になったと考えられる。
以上のように、騎馬像の持つ意味はそれぞれの時代の意識によって必要性の問われる芸術作品である。それは、個人を象徴するという特性を持つが故に宗教観や製作の意図に大きく影響されるからである。古代ローマの皇帝を象ったものは、その威厳を讃え民衆を超越した存在として記念され、中世の王を象ったものは、キリスト教という宗教を伴ってこそ意味を持ち、また古代復興の流れのなかでは完全に古代と一致した記念彫像のありかたとは異なり、より民衆に近しい存在を英雄として象ったものとなった。
また、騎馬像の表現として欠かせない馬の存在もある。古代では限られた者の、跨り御する姿勢でその人物を賞賛する乗り物であった“高貴なる”馬への関心は、やがて中世ではその乗り物としての利便性(馬具の発展が装飾性と利便性を高めたと考えられる)を追求した時代に入り、この時代を通して馬の生産性が増し十分な頭数と種類が得られたからこそ、古代復興の時代に馬についての研究がより重ねられ、美しく動く馬体の表現を得られるようになったのである。
騎馬像の持つ意味と製作に関する技術だけではなく、絵画など他の芸術作品にも多く取り入れられてきた馬への興味も、三次元の立体像を成すという騎馬像には欠かせないものであり、馬に向けられる視線もルネッサンス期の騎馬像の再興につながる要因のひとつであったと言うことができるであろう。
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さらにガッタメラータについては以前に少しだけ詳しく調べたものがあるのですが、文字数制限をオーバーしてしまったので後日補足程度に。
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個人的な好みを言えば、実はルネサンス期→近代にかけての馬学・馬産(近代競馬の確立とか)よりも、古代の半理想的な馬への概念に興味があったりします。
だって夢みる乙女なんだもんっ☆
と言うと通りすがりに右頬を殴られそうですが、
品種特性の分類、あるいは騎乗技術的にもほぼ完成された古代において、有効な武器のひとつとして、さらに愛馬というかけがえのない存在としてある馬の大きさに、時間や歴史という付加価値があるにせよ、やっぱり面白いな、と。
今年はそこに注目しつつ、また調べていこうと思います。
とは言っても、主にクセノフォン先生素敵!って言ってるようなものなんですが、日本人の感覚としての騎馬と、西洋の、根本からの騎馬文化に少しだけ言及できたらと思い書いたもの…だったような(笑)
ちょっと長いので、暇な時にでもどうぞ

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古代ギリシア・ローマにおいて個人(偉人)の栄誉を讃える記念的な意味合いをもって製作された騎馬像について、キリスト教の広まりとキリスト教美術の確立という時代の変化に伴ってどのようにその製作が意識されたのか、また、ルネッサンスにおいて騎馬像から見る古典意識の復興はどのようなものであったのか、騎馬像の象徴する意味と優れた騎馬像にある人馬比例で重要となる馬への関心を中心に考察する。
また、今回取り上げる騎馬像は、等身大またはそれ以上の大きさとなる立像彫刻の騎馬像とする。
西洋美術における偉人を象徴する騎馬像の基盤は、『マルクス・アウレリウス騎馬像』にあると言える。騎馬像の彫刻または絵画によって偉大な指導者を顕彰するという習わしは、有名な古代ローマの記念彫像である「マルクス・アウレリウス帝騎馬像」(ローマ・カンピドリオ広場)とともに始まった、と言われるように、後世の騎馬像に多大な影響を与えた彫像である。161年から180年のマルクス・アウレリウス帝の在位頃に作られたと考えられるこの騎馬像は、その主体となる人物の栄光や名誉を讃える記念立像としての騎馬像の特徴を顕著に表したものであり、その特徴を示した皇帝の騎馬像として唯一現存するものである。前に伸ばされた右手は、服従する異民族に慈悲を約束するポーズであり、馬を御する姿はその統率力と征服を象徴するように堂々とした姿勢である。
また、馬に跨るマルクス・アウレリウス帝は、大きく足を広げており、これはクセノポンによる『馬術論』における優れた馬の乗り方である。さらに、左前脚を上げる騎馬は、その躍動的な動きを見せる写実性もさることながら、『馬術論』における優れた馬の特徴を見ることができる。高く上げた首や、乗り手によく従う姿勢とされるハミ受けを許す顎、伸びやかに肩を使って伸ばされた脚はいずれも良しとされた動きであり、さらに毛の伸びた球節については手入れや馬の衛生面にて推奨された形である。このように、馬に視点を当てた場合に、その馬について何が良いものであるかが非常によく表現されており、製作者の馬への関心が窺える。当時の人々にとって、馬(あるいは騎馬)は戦には欠かせない存在であり、戦いに勝利すること、つまり個人の功績を成す段階において重要なものでもあった。また、異民族の操る騎馬兵は畏怖の対象でもあったが、同時に優れた馬を所有することは憧れでもあったと考えられる。つまり、優れた馬に跨り騎馬隊の先頭に立つ姿は、それだけで老若男女すべての者の目を引きつける程に立派である、と称されたように、その人物に威厳を与えていたのが馬である。
しかしながら、この騎馬像の持っていた元々の意味は、“彫刻や絵画でなされた説教である”と説明されるキリスト教が中心となる中世の美術には受け入れられない。なぜならば、中世の美術で最も重要なことは神(あるいは聖書)を伝えることであり、個人の功績を讃えるのではなく、そうさせてくれた神に対する敬意を表することが大切であったからである。さらに、三次元の彫刻による人間像は、人間に近い存在であり、これは自らに似せて人間を創造した神と張り合う行為とされた。
このように、宗教を基盤として発展した中世において、個人の人間を象り記念する騎馬像は、その製作の必要性を失っていくのである。同時に、技術面でも人体表現・馬体表現の写実性は薄れていくのである。馬についての関心はあるものの、馬術や獣医学についての真新しい進展は見られず、馬術よりは戦法としての騎馬術、馬産も七世紀から八世紀にかけて鐙などの馬具とともに馬上の騎士と甲冑が発展し、その重さに耐えられるような馬、戦の勝利者となるための道具として生産された。
中世の騎馬像『バンベルクの騎士』は、1237年頃の作品である。1185年に焼失したバンベルク大聖堂が1200年頃から新たに造営された際に、シュタウフェン王家の象徴として作られたものであるという説と、頭上に天空のエルサレムを表す天蓋飾りがあることから、ハンガリー王国にキリスト教を伝え聖人となったハンガリー国王イシュトヴァン1世とする説とがあるが、どちらにしてもこの人物がどの国王であるのかはっきりしたことはわかっていない。しかしながら、『マルクス・アウレリウス帝騎馬像』がコンスタンティヌス帝の騎馬像であると勘違いされ中世に残されたことを考えると、後者の説が設置されている場所が大聖堂内であるということもふまえ、騎馬像としての関連性もあり有力であると考えられる。ここに見られる騎馬像は、フランス
のランス大聖堂からの影響が色濃く、やや寸胴ながら人体表現・衣服の表現は古代彫刻のような調和が見られるが、対して馬に写実的表現は見られない。前脚(前半身)に動きはなく、右後ろ脚を上げている仕草が、生きた馬に跨った人間を象った騎馬像であるということを伝えるのみである。このように、マルクス・アウレリウス
帝騎馬像に見られるような写実表現は乏しいが、鞍や鐙といった中世を通じて発展した馬具は取り入れられ、騎馬への興味を全く窺えないものではない。
中世では受け入れられなかった騎馬像の象徴する意味も古代復興の流れとともに再び注目される。1436年に製作されたパオロ・ウッチェッロによる『ジョン・ホークウッド騎馬像』や1455年から1456年に製作されたアンドレア・デル・カスターニョによる『ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像』はどちらもフレスコ画で描かれた騎馬像ではあるが、共に個人を形象し功績を讃える騎馬像としての意味を持ち、その様式はマルクス・アウレリウス帝騎馬像からの影響を受けたものである。その後、等身大以上の彫像を製作する技術と共に騎馬像として個人の栄誉を顕彰する意味を持って作られたのが、ドナッテロによる『ガッタメラータ騎馬像』である。力強い足取りで進む騎馬を確かな写実性を持って表現したこの騎馬像は、跨る傭兵隊長ガッタメラータを讃えている。しかし、古代や中世の騎馬像と異なる点は、これが傭兵隊長
という地域的な英雄を象ったものでるということである。皇帝や王ほど崇高なる存在ではないが、民衆の士気を喚起させるような理想の人物像を具現化して作られている。騎馬像がより民衆に近く、伝える手段としてルネッサンス期には作られるようになり、より個人の象徴という意味合いも強くなっていく。
技術の古代復興と同時に、馬に向けられる興味も古代のものが再び注目され、馬がいかに繊細なる動物であるか、その“高貴さ”に視線が注がれるようになる。古代末期の獣医学関連のギリシア語論考を編集した『馬医学』が十三世紀半ばにラテン語に翻訳され、さらに古典のみでなく、ヨルダヌス・ルンスによる『馬の治療について』が書かれるなど、馬について観察し、新たに研究がすすめられている。クセノポンによる『馬術論』は十三世紀にギリシア語原典の写本がイタリアで出回り、十六世紀にはラテン語訳も出版される。このように、馬体表現に関しても、馬に対する興味と資料が十分に存在していたことも、再び人馬比例の優れた騎馬像が登場する要因になったと考えられる。
以上のように、騎馬像の持つ意味はそれぞれの時代の意識によって必要性の問われる芸術作品である。それは、個人を象徴するという特性を持つが故に宗教観や製作の意図に大きく影響されるからである。古代ローマの皇帝を象ったものは、その威厳を讃え民衆を超越した存在として記念され、中世の王を象ったものは、キリスト教という宗教を伴ってこそ意味を持ち、また古代復興の流れのなかでは完全に古代と一致した記念彫像のありかたとは異なり、より民衆に近しい存在を英雄として象ったものとなった。
また、騎馬像の表現として欠かせない馬の存在もある。古代では限られた者の、跨り御する姿勢でその人物を賞賛する乗り物であった“高貴なる”馬への関心は、やがて中世ではその乗り物としての利便性(馬具の発展が装飾性と利便性を高めたと考えられる)を追求した時代に入り、この時代を通して馬の生産性が増し十分な頭数と種類が得られたからこそ、古代復興の時代に馬についての研究がより重ねられ、美しく動く馬体の表現を得られるようになったのである。
騎馬像の持つ意味と製作に関する技術だけではなく、絵画など他の芸術作品にも多く取り入れられてきた馬への興味も、三次元の立体像を成すという騎馬像には欠かせないものであり、馬に向けられる視線もルネッサンス期の騎馬像の再興につながる要因のひとつであったと言うことができるであろう。
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さらにガッタメラータについては以前に少しだけ詳しく調べたものがあるのですが、文字数制限をオーバーしてしまったので後日補足程度に。
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個人的な好みを言えば、実はルネサンス期→近代にかけての馬学・馬産(近代競馬の確立とか)よりも、古代の半理想的な馬への概念に興味があったりします。
だって夢みる乙女なんだもんっ☆
と言うと通りすがりに右頬を殴られそうですが、
品種特性の分類、あるいは騎乗技術的にもほぼ完成された古代において、有効な武器のひとつとして、さらに愛馬というかけがえのない存在としてある馬の大きさに、時間や歴史という付加価値があるにせよ、やっぱり面白いな、と。
今年はそこに注目しつつ、また調べていこうと思います。