◆元三大師研究
豆大師について
◆元三大師研究の第二話、前回の「角大師について」の続きになります。
角大師が元三大師の第一変身形態だとすれば、それを補完する第二変身形態が豆大師に当たります。
既に東叡山寛永寺No.2でも豆大師護符を紹介しましたが、本家、比叡山横川元三大師堂で頂いた豆大師護符を改めて貼ることにします。
横川(よかわ) | 境内案内 | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
(比叡山元三大師堂豆大師護符)
小さなお坊さんが33人並んでいる図柄で、ユダヤ教でも聖数と言う概念がありますが、仏教においても33は聖なる数字と考えられています。
京都にある有名な三十三間堂、これは蓮華王院本堂の内陣柱間が33あることから命名されており、西国三十三所、坂東三十三観音巡礼も同意となります。
これは観音三十三応現身と言われ、観音菩薩はあらゆる衆生を救うため、その身を33通りの姿に変じるという法華経の教えが由来となっています。
豆大師の33人は、慈円が鎌倉時代に書いた『愚管抄』に、「観音ノ化身ノ叡山ノ慈恵大僧正」と記載があるように、元三大師良源は観音菩薩の化身と考えられていたからです。
豆大師信仰については、比叡山横川元三大師堂に掲げられていた奉納絵馬をその典型と考えるのが正しいでしょう。
絵馬の下部にある文言を写し取ると以下の通りです。
「寛永の初期、河内の国の或るお百姓が、田植も無事済んだ、今年もどうか洪水、ひでり、大風の緒難を逃れて豊作を与え給えと、日頃から信奉する元三大師を、此の堂に詣でて時の経つのも忘れて祈願していた。
その日、昼頃からの小雨が次第に激しくなり、夕頃には山をゆるがすような暴風雨となった。
帰るに帰られぬこのお百姓は、〈水びたしになり、やがて濁流に呑まれる我が田を脳裡にえがいて・・〉
「お助け下さいお大師さま」とひたすらに祈り続けた。
晩近く風雨は止み、お百姓は我が村へ急ぎ走った。
予想通り村の田は皆流され人々は茫然と立ちすくんでいた。
「やっぱり駄目か・・」と力も抜けた足で自分の田に近づいてみると・・「あ、これは?・・」一面濁水のなかに我が田だけは無事無難、苗の姿もその儘である。
村人の話では“三十余人の子供上がりの若者が、その田の周辺に堤を築き水をかい出して必死懸命豪雨と濁流から守ったという”
元三大師は観音さまの化身、三十三身に做えて三十三人の若者となってこのお百姓をお救いになったお話です。
今も田植が終ると豆大師のお牘を田に立てて稲の虫よけ、病よけを祈ることが全国に亘って行われています」
いつの時代に奉納された絵馬かわかりませんが、文章が俗な感じで比叡山延暦寺に相応しくないような気もしますが、全国概ねこのような説話が流布しているようです。
豆大師の護符は、角大師とセットで授与している寺院が多く、調布の深大寺では、角大師を降魔札、豆大師を利生札として、玄関の内・外両面に貼るように説明されています。
深大寺ホームページ【厄除元三大師 深大寺】東京都調布市 (jindaiji.or.jp)
また現在調査中ですが、一部寺院では手間の問題かわかりませんが、角大師と豆大師を一緒のお札にして授与するようになったところもあります。
豆大師由来の自説や額から発するレーザー・ビームについては、またこの先ご紹介させて頂くことにします。