◆元三大師関連寺院 (1)東叡山 寛永寺 No.5 |       慈しみに恵まれて~豆々朗師のオモシロ寺社巡り~       

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 決して熱心な宗教の信者ではありません。
 ただ寺社で目につく面白い事物をコレクションしてきました。 

◆元三大師関連寺院

(1)東叡山 寛永寺 No.5

開山堂 両大師 公式ホームページ (kaneiji.jp)


2022年9月3日、元三慈恵大師御降誕の日(旧暦)に、再度上野寛永寺両大師を美月と訪ねました。


もちろん10時からの「結願大護摩祈祷」に参列して、角大師が描かれた「角大師特別祈祷札」を授与頂くためです。


祈祷を受けないとお札を渡して頂けない仕組みになっています。


本当の動機は角大師グッズ集めという不純なものですが、一応は間違いなく前立腺癌なので「当病平癒」を願意として体験させて頂くこととしました。


既に開山堂には30名ばかりの老若男女、顔見知りの檀家さんと信者さん達がガヤガヤと雑談しています。


大護摩祈祷が始まりました。
 

私と美月は般若心経も覚えていないため、モゴモゴと適当に口を動かしながら周囲の人達を観察していました。
 

結構若い女性が多いのに驚きました。
 

半袈裟を纏って立派な念珠を持ち、僧侶達と一緒に般若心経を熱心に唱えています。
 

オモシロ角大師に何を祈っているのかわかりませんが、背中を丸めて手を合わせる懸命な女性の姿は、見ている者にも何かしらの信仰心を与えてくれるものです。
 

反省しました。
 

私と美月は、「信心」を神社のお御籤程度に考えていたのですが、これほど「願意」を叶えるために真剣に祈る人々がいることを知ったからです。
 

御祈祷が終わって元三大師御真影(No.2参照)を近くで拝見しました。
 

お顔も判断するのが難しいほど煤けていましたので、おそらく慈眼大師天海大僧正が江戸時代初期に三重県の西来寺から拝借したものと考えられます。
 

「比叡山首楞厳院に祀られてきた元三大師の御影軸は、中でもとりわけ権威があり、おそらくもっとも古く由緒正しきもので、1571年(元亀2年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際にも、かろうじて山外に持ち出されて難をまぬがれ、流転の末に伊勢の津の西来寺(後の天台真盛宗中本山)に落ちついて、同寺の元三大師堂の本尊に納まり、多くの庶民信仰を集めることとなった。

 

天海はこれに目をつけ、それを江戸の寛永寺へ奉納せよと再三せまったのだが、西来寺はそれを断り続けた。

 

三代将軍家光の若君の出産時、その安産祈?のためにということを口実として天海は、今度は伊勢の藩主藤堂高次を介して西来寺に圧力をかけ、無理やり御影を借り出すことに成功する。

 

さすがに藩主の命とあらば西来寺も逆らえず、しぶしぶそれを差し出すこととなった。御影は江戸の寛永寺へと移され、将軍家の安産祈?がなされた結果、1641年(寛永18年)、若君は無事に生まれ(後の4代将軍家綱となる)、天海は仲介役の藩主藤堂高次に礼状を送っているが、今もそれが残されている」
(西郊民族談話会「元三大師とダルマ市・おみくじ」より引用)

 

その後、両寺院でいざこざが続いたようですが、曰く付きの元三慈恵御真影に、有難く美月と手を合わさせて頂きました。


以上で(1)東叡山寛永寺の巻は終わりですが、まだ欲しくて手に入らない角大師グッズが一つあります。
 

こののぼり旗です。

 

         (寛永寺のぼり旗)
 

以前、両大師の僧侶に、「この旗を家に持って帰りたいから譲って欲しい」とお願いしたのですが、「けしからん」と一喝されてしまいました。
 

いつか必ず・・寛永寺両大師の僧侶の皆様、戸締りは厳重にしておいて下さいね。