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ツナの部屋

わたしの「関心事」です。情報交換したいです。

↓2022年7月19日放送 GYAOで見逃し無料配信7月26日まで

振付師・三浦亨

「聖子と明菜はちょっと異質。振り付け通りにやらずに、自己流にアレンジしていた

 

マツコ・デラックス

「だから聖子と明菜は突出したのね。セルフプロデュースってヤツよね」

「自己(セルフ)プロデュース」とは、自分をプロデュースすること、自己演出のことである。最近では、SNSなどを用いて、自分自身の個性や強みををいかして、好ましい自分を演出する方法に関心が集まっている。ビジネスなどの分野では、自分自身を打ち出す(ブランディング)や自分を売り出す(自己アピール)という意味で語られることが多くなった。

 

音楽業界における自己プロデュースは、アーティストがみずから曲やアルバムをプロデュースすることを意味する。これは他のプロデューサーを迎える場合より、アーティスト自身の表現の自由度が高い反面、自分を客観的に分析することは難しく、知識・経験の欠如といった問題が生じやすい。実際の現場では、まわりにいるプロの意見やスキルをうまく利用しながら、自分が納得できる表現活動を行うには、高度なコミュニケーション・スキルや人心掌握術が要求される。

 

今や、さまざまなシチュエーションで言及される自己プロデュースの能力。教育学者の斎藤孝のよれば、プロデュース(produce)という英語の語源は、Pro(“前に”)と-duce(“引き出す”)、つまり「自分の中身を表に引き出していく力」であり、 それは単に今ある自分を売り出すという意味ではなく、「自分自身を組み替え、どんどんつくり変えていくこと」であると指摘している。

“自己プロデュース力とは、自分がつくった企画によって、 それまで思ってもいなかったような自分が引き出されてくる力”(p.3)

齋藤孝 「自己プロデュース力」大和書房 2003年 

シンディ・ローパーと中森明菜は、歌唱力を武器に、シングル曲の発売とともにファッションや振り付けなどで自己のイメージを

ガラッと変えるスタイルで人気を集めた。それは、まさに1980年代を代表する、映像(ビジュアル)と音楽を融合させた視聴覚型のエンターテイメント音楽だった。

 

シンディと明菜はどのようにして自分を引き出し、自分自身を作り変えていったのか。歌唱のみならず、衣装(ファッション)や振り付け(ダンス)などの演出を手掛けたふたりの自己プロデュース力を紹介する。

 

 

シンディ・ローパーの歌唱と演出

「Change Of Heart」 1885年
セカンド・アルバム「True Colors」から2番目にシングル化された曲で、1986年11月にリリースし、全米チャートで最高3位となった。のちに、「Eternal Flame」の大ヒットで人気シンガーとなったバングルスがバック・ボーカルをしている。

Change Of Heart 1885 公式ビデオ

 

このミュージックビデオ(MV)の撮影された場所は、ロンドンにあるトラファルガー広場。バンドリーダー・ジャケットとフレア・スカートといった服装の(あるいはマントのようなものを身につけた)シンディが、スカートの裾を持って激しく踊りながら歌唱している。

 

シンディはいったん踊り始めるとその場にとどまっていられないそうである。そのため、カバー・バンドのヴォーカルをして頃は、店の経営者から「なんで、じっと立って歌うことができないんだ?」とよく非難されていた。しかし、彼女の独特なダンス・パフォーマンスは、ファッションとともに、もはやシンディの個性の一部となっている。ファッション情報ウェブサイト「カイエデモード」では、次のように紹介されている。

彼女の魅力は、「止まらずに歌い続ける」「独特な動き」(21世紀のアメリカのシンガーだけでなく、日本のお笑い芸人にさえかなりの影響を与えている)にあるのです。だからこそ、彼女は、その個性的なパフォーマンスを光り輝かせるファッション、ヘアスタイル、メイクアップなど全てをセルフ・プロデュースする人なのです。

カイエデモード「シンディ・ローパー列伝5」

 

「涙のオールナイト・ドライブ」 1989年

「あなたが欲しくて、夜通し車を走らせた」という情熱的な歌詞。ドライヴ(drive)には車を運転するのほかに、衝動という意味がある。そのため、シンディは、体に突き上げる衝動を独特の振り付けと表情、目線で表現している。この楽曲におけるパフォーマンスは、グラミー賞の女性ロック・ボーカル・パフォーマンス部門にノミネートされた。

I drove all night 1889 公式ビデオ

 

ミュージック・ビデオでは、裸の身体の上に車が走っている映像をプロジェクターで映す(プロジェクション・マッピング)の手法が取り入れられている。フランスのテレビ番組に出演した際は、光を反射するマテリアルで体を包んでプロジェクターで映す演出を行なった。

 

じつは、1990年の第41回紅白歌合戦にシンディは出場し、この曲を披露している。そのときは、車ではなく、昔の駕籠(かご)に乗って着物姿でステージに登場。さびのところで、MVのような裾の短い赤のスリップドレスに変身するといった、ユーモラスなパフォーマンスを日本の視聴者に見せた。

 

中森明菜の歌唱と演出

十戒(1984) 1984年

1984年、明菜の9枚目のシングル。十戒とは、旧約聖書に書かれた十の戒律のこと。「優しさは軟弱(きよわ)の言い訳」「はっきりしてよ この辺で」と、優しいだけで優柔不断な男に決断をせまる力強い女性をイメージしたこの曲は、当時の若い女性たちからも多くの支持を集めた。

十戒(1984) 夜のヒットスタジオ 1984 9.10

 

このとき、まだ19歳になったばかりの明菜だったが、演出力は際立っていた。ウエストがキュッとしまった透け透けのチュールスカート、低めのヒールのショートブーツ、手袋は全身黒づくめの衣装、十字架のネックレスなどは、この楽曲のイメージに合わせて明菜が自分で選んだファッションだった。この衣装が歌番組「夜のヒットスタジオ」で披露されると、司会をしていた元ファッション・モデルの芳村真理は、明菜のヴィジュアル・センスを賞賛した。

 

楽曲の振り付けは振付師の三浦亨が担当したが、彼によると、振りのほとんどは明菜が自分でアレンジしたものだという。明菜は、三浦が指導した振り付けの中で自分が納得したものを取り入れていた。

 

また、明菜はステージを重ねる中で、この楽曲の振りを少しずつ修正している。例えば、サビの部分で、当初は途中で腕を下ろしていたものを指差しをする振りへと進化させた。気持ちを聴衆に届けようとする、明菜独特の「訴える」歌唱スタイルが、こうした振りの変化をもたらしたのかもしれない。この曲の作詞者である売野雅勇は、明菜について「ぼくの創り上げた詞の主人公を見事に演じ、脚本以上の映像をつくってしまう素晴らしきシンガー・アクトレスだ」と語っている。

 

TATTOO 1988年

21枚目のシングル。歌詞の中に「アンドロイド」や「レプリカント」という言葉があり、近未来的、かつ男を誘うような扇動的、刺激的なフレーズが多く含まれている。TATTOOとは、刺青のことで、歌詞にある「胸に、消せないバラ」のことを指していると思われる。テレビ出演で、明菜は三人のトランペッターをバックダンサーに従える構成でこの曲を歌唱した。

TATTOO 夜のヒットスタジオ 1988 5.18

 

TATTOOで、明菜はセクシーさを前面に出す演出を試みた。それは、全面にスパンコールをちりばめ、鎖骨と肩を露出した超ミニのタイトなワンピース、娼婦のような厚化粧、細い脚を際立たせ挑発的にダンスするといったものだった。明菜は、雑誌のインタビューで次のように述べている。

私は自分のこと、ましてや歌手中森に関しては、客観的に見てるから、この時代にこういう子がいないから自分でつくってきちゃったんですね。自分でプロデュースするんだから、どんなに嫌でもやらなきゃならない。「TATTOO」の時も絶対ミニスカートははきたくなかったのに、プロデューサーの中森さんに、「この服はミニスカートで行きましょう」と言われたら着ないわけにはいかない。

中森明菜「それでも私は生きていく」 p.20

COSMOPOLITAN July 2001

明菜の自己プロデュースは、かなりストイックなものであることがわかる。また、明菜は別のインタビューでは、このように述べている。

いい意味での裏切りでみんなをどっきりさせることが、私、ほんと、好きなんですよねえ。もしみんなから「もう十分よ」って言われたら、私は挑戦なんかしない。髪形も変えないし、苦手なミニスカートも履かないし、アルバムを作るたびに、「今度はどうやって、驚かせようか」って、うんうん唸ったりしません(笑)。

セイ/Say p.4 青春出版社 2003

こちらのコメントからは、観衆を楽しませようとする明菜のエンターテイナーぶりが窺える。

 

自己プロデュースから生じる軋轢(あつれき)

シンディと明菜は卓越した自己プロデュ―ス力を持っていたが、いっぽうで、周囲との軋轢も多かった。というのも、当時の音楽業界は制作プロデュ―サーをはじめ、そのほとんどが男性であり、こうした男性スタッフに対して、若い女性が毅然と自分の意見を主張しなければならなかったからである。

男性陣は私とつき合い始めたばかりの頃、ほんとに大変な思いをしたんじゃないかな。歌うのを聞いたあとでもまだ私のことをデリケートなお花みたいに思っていたとしたら、どうかしてるわよね。

だけど、私が彼らに思ったことをズバズバいうものだから、デイブ・ウルフ(註:当時、シンディのマネージャー兼恋人だった人物)は火消しに走り回り続けなきゃならなかった。

シンディ・ローパー&ジャンシー・ダン 著『トゥルー・カラーズ シンディ・ローパー自伝』(2013)  p.120

男性スタッフとの軋轢は、明菜にも多かった。明菜は自己プロデュースしていく上での難しさを次のように述べている。

私はあくまでプロデュ―サーの立場で、歌手・中森明菜のために言っているつもりなのに、単なるワガママだと思われてしまう。(中略)日々、闘いでした。いや、闘いどころの次元ではない。特に十代の頃なんて、大の大人を相手にしてるわけですから、なんでこんな子どもに、ましてや女に、こんなことを言われなくてはいけないのかって。まず男性の方が拒否反応を起こしてしまう。

婦人公論 p.69  March 22、1999

シンディも明菜も、自分が望むような演出を行なうためには、こうした格闘をやめるわけにはいかなかった。そこには、ふたりとも芸術家気質の完璧主義者であることが起因していたかもしれない。また、ライバルの女性シンガーたちは、もっと上手に周囲の男性スタッフと仕事ができていたのも事実である(シンディは、自分がやりたいことのためにその分野の成功者を見つけて一緒に仕事をするマドンナの実力を賞賛している)。しかしながら、シンディと明菜が、制作や演出において他人任せにできない、安易な妥協ができない大きな理由は、表現者としての覚悟にあった。シンディの次の言葉がそれを物語っている。

デイブは「君はひどく怒ってる。その怒りをなんとかしなきゃダメだよ」といった。私はいつも「そうね。だけど私の名前はレコードの表にかなり大きく乗るけど、プロデュ―サーの名前は裏にごく小さく出るだけ。いったんこの仕事が終わったら彼らはどこか他のところに行ってしまうけど、私はずっとそれを売らなきゃならない。もしこれが私の作品になるなら、もしこれが口を開けて歌える唯一のチャンスなら、素晴らしいものにしたいし、私の思い描いた通りのものにしたいのよ」と答えていた。

前掲書 p.120-121

シンディと明菜のキャリアは、1990年代に入ってから、勢いの衰えた状態が続いている。そのため、ふたりに対する世間の関心が少し薄れた時期があった。しかし、2010年代以降、次世代のアーティストたちがリスペクトを公言し、再評価されるようになった。また近年は、youtubeやサブスクで、かつての音楽作品やパフォーマンス映像を視聴することにより、シンディと明菜の全盛期を知らない若い世代の間でも人気が高まっている。その理由は、ふたりが格闘した自己プロデュースによって、こうした作品や映像はアーティストの個性が際立つ唯一無二のものとなっているからである。そして、ひとつひとつに全力を傾けたことがクオリティの高さにつながった。目まぐるしい時代の変化に即応しなかったが、芸術性の輝きは時がどれだけ過ぎても失われないのである。