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ツナの部屋

わたしの「関心事」です。情報交換したいです。

 

最近、明菜に関する記事が絶えない。

 

前回ブログ記事の↑の続き

 

教育学者の齋藤孝氏は、著書のなかで、自己プロデュース力を「自分の中身を表に引き出していく力」であると述べ、自己プロデュースの達人たちに見られる特徴のいくつかを紹介している(『自己プロデュース力』大和書房 2013年)。

 

齋藤氏の指摘する内容を参照に、シンディと明菜の自己プロデュース力を考察したい。

 

・自分を引き出し 作り変える

齋藤氏は、はじめに「誰にも真似できないユニークなポジションを作り上げる」こと、 そして「自分を象徴するビジュアル・イメージを作り上げる」ことの重要性を指摘する。

シンディ・ローパー(左)と中森明菜(右)

 

シンディは、1stシングル「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」のミュージックビデオ(MV)で、最初のイメージ・キャラクターを見事に作り上げた。カラフルに染めた髪、 古着屋で寄せ集めた服やアクセサリーを身につけて、独自のセンスでファッションを構築した。最初のイメージはハデハデの変わり者といった感じだ。 プロレスラーに教えてもらった礼儀作法やハリウッドスマイル で笑いを誘う、ユーモアたっぷりのちょっとおかしな娘を自己演出することもあった。シンディは、のちにこうした演出はすべて自分を売り出すための戦略だったと述べている。

 

そして、シンディは次のシングルで、前曲とはまったく異なる曲調の「タイム・アフター・タイム」をリリースした。バラード曲も歌いこなせる高い歌唱力の持ち主であることを世に知らしめ、自己イメージの転換にも成功のである。この曲は全米1位を獲得した。シンディは、1stシングルをバラード曲にすることで、固定した自分のイメージを作りたくなかったと説明している。

 

明菜の場合、「スローモーション」でデビューした頃は、可愛らしくて同期デビューのアイドルよりも歌が上手であったが、けっして“キャラが立つ”存在ではなかった。しかし、「少女A」では、歌唱の際の睨みをきかした不良イメージ(レコード会社ディレクター島田雄三氏の発案)によって他のアイドルとの差別化に成功した。また、歌い終わってから見せるあどけなさや影を感じさせるところにファンは色めき立った。

 

そして、3番目のシングル曲「セカンドラブ」では、シンディと同様、難しいバラード曲を見事に歌いこなし、音楽番組「ザ・ベストテン」の1位へと昇り詰めた。最初のヒット曲のときのイメージが固定化しないうちに、異なるイメージを打ち出すことで、齋藤氏が指摘する「自分自身を組み替えどんどんつくり変えていくこと」に成功したのである。

 

・自分のさまざまな能力を活かす

齋藤氏は、喜劇王チャップリンが映画製作において、演技以外にもさまざまな特技を駆使していたことを説明し、この自己プロデュース力の特徴を紹介している。

 

これまでのブログで述べたように、シンディは歌唱やダンスだけでなく、アート分野のさまざまな特技を舞台パフォーマンスやMVの製作・演出に生かしている。たとえば、「涙のオールナイト・ドライブ」のMVを見ると、男性を誘惑するような、扇動的な身振りには、トップレス・バーでダンサーをしていた経験がいかされているように見える。明菜もシンディと同様で、10年間バレリーナとしてのステージ経験がなければ、十戒の「のけぞりポーズ」やTATTOOで魅せる軽やかなステップは難しかったにちがいない。

 

ちなみに、齋藤氏はチャップリンの映画制作が分業化された作業ではなく、監督や脚本までほとんどすべてを自分でやっていたことに触れ、「他人に任せず、自分の届く範囲で仕事をする」スタイルだったと指摘している。これは一人親方の芸術家タイプに多く、シンディと明菜のやり方にも似たところがあったかもしれない。独りよがりな自己表現に陥る危険があることを斎藤氏は述べており、芸術性よりも大衆のウケが重視されるポピュラー音楽においては、自己プロデュースする側において、なおのことさら、状況を見極めたバランス感覚が大切となる。

 

・他者との協働で大きな反応をおこす力

いかなる自己プロデュースにおいても、大きなプロジェクトを成功させるにはスタッフとの協働やチームの力が重要となる。シンディも明菜も、この協働とチームの力に支えられていた。シンディは、著書(前掲書)のなかで次のように述べている。

私はあちこちで少しずつ彼らに指示を出し、うまくいっていることを確かめるためにいつも一緒に歌っていた。その時点では的確に言い表すことができなかったけど、何より大事だったのはみんなとの結びつきだった。(P.121)

明菜は、若い頃、スタッフと家族的な温かさの中で仕事がしたいと考えていたようだ。

絶対に実現しない夢だったらあるよ。あのね、大っきいビルを建てること。そこにはいろんな人が住んでるの。1階にスタイリストのお姉さん、2階が明菜ちゃんで、その上にウチの兄姉がバーッといて、8階くらいにマネージャー。その上が事務所の人でね。みんな1フロアずつなの。「ハイ、みんな顔を出して」っていうと上から下まで1列にズラーッと顔出すの(笑)。JUNON 9月号 1989 p.45

シンディと明菜の躍進は、当時のチームが勝ち得たものであり、こうした協働によって、ふたりのさまざまな才能が引き出されたのである。

 

・マイナスをプラスに変える。

斎藤氏は、美輪明宏の自己プロデュース力について語るなかで、が生い立ちで経験した苦しみに触れ、「負の体験が持っている輝きをいっそう輝かせる影のようなものになっている」と指摘している。これは、陰を帯びたところがあるシンディと明菜にもあてはまる。前のブログで述べたように、シンディと明菜は幼少期や少女時代にさまざまな困難と直面しており、華やかな世界においては、生い立ちの苦難に起因した影が持っている輝きをいっそう輝かせ、ふたりのスター性をつくりあげた。

 

・他者のために

齋藤氏は「自分のためだけというのはかえってパワーが生まれにくい」と指摘し、自己プロデュースの達人たちがみせる活動が自分だけでなく、利他の精神に根ざしたものであったことを説明している。これは自己プロデュース力の範疇で語られるべきものではない。なぜなら、利他の精神は人間性の豊かさや人徳を示すものであり、自己プロデュース力というよりは、むしろ人間力という言葉のほうが適切であるからだ。よって、別セクションとする。

 

シンディと明菜における利他の精神

ふたりが実際に述べている言葉を使って、利他の精神を端的に説明することができる。シンディの場合は、自著(前掲書)のなかで、「(社会で抑圧された人々のために)、アンセム(応援歌)を作る(p.22)」「私は実際自分の作品を一種の社会運動と捉えていた(p.173)」と語っている。

 

たとえば、シンディのこうした姿勢は、彼女のMV制作に色濃く表れている。

“私にとって、あらゆる女の子を描くことがすごく重要だった ― ヒスパニックの女の子も、アフリカ系アメリカ人の女の子も。エドに「他民族の人たちを出さなくちゃ」って言ったのよ。当時、ビデオに出てくるのはみんなまったくの白人だけか、まったくの黒人だけだった(前掲書p.139)

私は表現の自由と、人と違うことの自由を売っていたのであって、―セックスじゃなかった。ほんとよ、あとを追いかけてくる男なんてひとりもいなかったもん。代わりにいたのは悲しい人たちばかり。だって私が歌って癒やそうとしていたのはそういう人たちだったんだから(前掲書p.160)

シンディは、芸術が本分とする「象徴」や「隠喩」の表現を巧みに用いながら、社会の中で虐げられた女性やLGBT、グーニーズ(間抜けな奴ら)など、弱者に向けた励ましや不平等社会への抗議を歌い続けた。このように、シンディの場合、音楽による社会活動の色合いが濃い。

 

これに対して。明菜の場合は少し違う。追分日出子氏が取材して書いた「自分を生きる人たち」(晶文社 2005)には、「みんなの哀しみや絶望を、私が代わって歌うことで癒してあげられるのではないか(p.99)」という明菜の言葉が紹介されている。また、明菜は、ある雑誌のインタビューで次のように述べている。

どんなに勉強をしようが何をしようが、やっぱり、人を優しくする力というのは、つらい経験からくると思うんですよ。でも、それも人によってランクがあるから他人がどんな気持ちでいるのかはわからない。だから、経験というのは、泣けばいい、苦しい思いをすればいいという意味じゃなくて、その都度、自分以上に悲しい思いをしている人が他にもいると思えるかどうか。そう思えて初めて、人に優しくできるし、人生を経験していけるんだと思う(CREA 1996年5月号 P.34)

「経験というのは、(中略)自分以上に悲しい思いをしている人が他にもいると思えるかどうか」という箇所で語られているのは、共感(Empathy)の大切さである。明菜がもつ利他の精神は、個人の抱える苦しみをどのように癒すかに向けられている。

あなたの歌が聴きたいと言ってくれる人がいて、歌手は仕事をすることができる。しかも、人は歌を聴きたいときもあれば、聴きたくない時もある。だから、「さあっ私の歌を聴いてっ!」というだけじゃなくて、『聴きたくない時もあるよね。でも、聴きたくなったら聴いてね』という部分も気持ちのどこかに持っていることが大切だと思うんです(前掲書 P.34)

カウンセリング・マインドという言葉がある。アドバイスや叱咤激励は元気な人が相手なら効果をもつこともあるが、心が元気でない状態ではそれを受け止められず、かえって逆効果となる。その場合、共感や受容の姿勢が大事となる。歌手でありながらも、明菜は励ましのメッセージを届ける立場ではなく、カウンセラーのように相手の心に寄り添う立場なのだ。

 

実際に明菜の歌唱映像を観ると、不思議な現象が起こる。「難破船」「乱火」「水に挿した花」などを歌いながら 涙を流す映像を観ながら、明菜と一緒に涙する。視聴者は、必ずしも歌詞の内容や明菜の置かれている境遇に共感して泣いているのではなかったりする。つまり、人間関係での躓き、家族や職場での問題といった、まったく別の問題で悩んでいる人々が、彼女の涙に慰められ、自分だけが苦しい立場でないと勇気づけられることがあるのだ。悲しい歌を歌う時の彼女は、歌の主人公に憑依して悲しみや苦しみを美へと転化させる巫女や音楽の女神(ミューズ)のようだという評も何となくわかる。視聴者は自分から能動的に、自分の抱える悲しみ・苦しみを彼女が表現するものと結びつけて眺め、カタルシスと昇華を追体験するのである。

 

シンディがもつ利他の精神には社会に目を向けて連帯を呼びかけるところがあり、明菜がもつ利他の精神には個人の内面に目を向けて相手にそっと寄り添うところがある。それぞれスタンスの違いはあるものの、ふたりの芸術活動は自分自身を表現しているようでいて、自分を超えたもの(spirituality:高い精神性)を招き入れている。これこそが芸術の力であり、ふたりが偉大なアーティスト達のなかに居ることを信じて疑わないのである。