映画『グリーンブック』をたまたま数日前、Amazonプライムで見ました。
今日のクリスマスにぴったりの作品なので記事にとりあげてみます。
2019年アカデミー賞において、作品賞など3部門を受賞した作品なので、ご覧になった方もいらっしゃると思います。
▼ご存じない方は、作品については文章よりこちらの公式サイトの短い動画を見るのが分かりやすいのですが、余計な予備知識を先に入れない方がストーリーを楽しめるでしょう。
まず簡単に序盤のストーリーから・・・。
高級ナイトクラブの用心棒として働くイタリア系白人──ヴィゴ・モーテンセン演ずるトニー・リップは、クラブの改装が行われる期間、一時的な失業状態になっており
その間の家賃や家族を養う金を得るため、舞い込んだ稼ぎ話‟ドクターの運転手”の面接へと赴いたのでした。
てっきりドクター=医者の運転手を務めるつもりで指示された場所へ行くと、そこはカーネギーホール。
その上階に住居を持ち、まるでお城のような調度品に囲まれて暮らすドクター・シャーリー(演・マハーシャラ・アリ)は、終盤でトニーが「俺はあんたより黒人だ」と言ったように、暮らしぶりや食べ物、喋り方や立ち居振る舞いも黒人のそれとは全くかけ離れています。
ドクがアメリカ北部で、それまでのように上流の人々を相手に演奏活動をしている限り、交わらないはずの二人でした。
ドクはトリオで演奏を行う(ピアノとチェロとウッドベース・・・らしい)仲間と共に、南部へ演奏旅行へ出る決意します。期間は8週間。
再びニューヨークに戻るのはクリスマスの予定です。
南部において黒人が一般の公共施設の利用することや夜間の外出が制限された1962年当時、ドクの旅は困難を伴うものとなることが予想されました。
名目はマネージャーであるものの、用心棒の仕事もこなせるトニーの腕っぷしが買われ、雇われることとなります。
ドクと他の2人の仲間とは別々の車に分乗──黒人であるドクが仲間と同じ宿に泊まれない場合のため──しトニーには‟グリーンブック”(黒人が利用可能な宿が記載された冊子)が手渡されて旅がスタートします。
私がこれを見たのは2度目です。
最初に見たのは昨年だったはずですが、2度目の方が感動が深く、1度目は多くの人がネット上でレビューしているように、60年代アメリカを背景にした黒人差別と友情の話のような受け取りかたをしていたかもしれません。
2度目になる今回、ああこれはアイデンティティの確立に悩む人の話だと考えるに至ったので、そのあたりを書いてみたいと思います(以下ネタバレ含みます)。
映画鑑賞後に調べたところ、発表当時ある有名な監督が本作品のアカデミー作品賞受賞に憤りを隠さなかったなど、作品に対する評価は賛否両論ふたつに分かれたようです。
作品を実際にあった話、とすることに反論を唱える人もいるようなので、以下は‟物語”として感想を綴っていくことにします。
私(に限らず日本でのレビューは好意的な意見が圧倒的ですね)は素直に楽しんで見ましたし、上の記事中で批判されているように、旅行の運転手兼用心棒として雇われた主人公の白人男性(トニー・バレロンガ)が黒人ピアニスト、ドクター・シャーリー(の心)を救う物語とは感じませんでした。
むしろ話の終盤、人種差別意識の強い南部にあえて演奏旅行に出ることをドクター・シャーリーが決意したかの理由──(紹介動画の中にも示されていますが)彼は人の心を変えられると信じているから──が演奏仲間から明かされたように、変わったのは一緒に旅をしたトニーの方でした。
無論ドクター・シャーリーもトニーの影響を受け、鎧のようにまとった堅苦しさが徐々に和らいでいく様子が描かれてはおりますが、より大きい変化はトニーの上に起きたようです。
トニー・(リップ)・バレロンガは自他ともに認める、喧嘩が強く口が上手い世渡り上手(喧嘩っ早くて職をいくつも変わっているようだけれど)。
行動や喋り方は粗野な一方、愛妻家で子供たちを大事にする家庭的な面もあります。
自らのアイデンティティに悩むなど、たぶん一切ありません。これまでも、これからも。
対するドクター・シャーリー(本名ドン・シャーリーで、2つの博士号を保有していたためドクターとも呼ばれた)はアフリカ系アメリカ人で早くから音楽に才能を発揮し、大統領にもパイプを持つ社会的成功者です。
しかし、ホワイトハウスにも呼ばれるピアノの才能をもてはやされ、富裕な白人たちから拍手・喝采を浴びても、舞台を下りた後のドクは孤独です。
金持ちの白人たちが自分の演奏を聴くのは‟教養人と思われたいため”で、それ以外は「ただのニガー」であると承知するドクは、独りで蔑視を耐え続けます。
南部の旅で受ける屈辱的な扱いは、覚悟を持って旅立ったドクにも時に耐え難いものでした。
(演奏会の出演者であるにもかかわらず、ホテル内のトイレを使えなかったり、食堂の使用を拒否されたりなど)
そして、黒人の中でも浮いた存在となるドクは同性愛者でもあり、家族もなく・・・はぐれ黒人であるという意識・・・孤独から逃れることが出来ません。
白人社会でも黒人社会の中でも自分のアイデンティティを持てない、ドクター・シャーリー。
普通、人は生まれて成長する過程で、国籍や人種や性別や階級などから、自分が何者であるかの──アイデンティティを確立して行きます。
黒人でもなく白人でもなく──男でもない私は何なんだ?
ドクの悲痛な叫びを受け、トニーには言葉もありませんでした。
なぜこの映画が、差別(だけ)の話と一般に受け取られるのか? 考えると不思議です。
ドクの壮絶な孤独の理由がもし、外部に求められるなら・・・責められるべきはドクを貶めた白人でしょうか。
それとも仲間外れにした黒人にも罪が?
アイデンティティの問題は、個人的な悩みのようでいて、実際は社会が大いに関係するのでとても厄介です。
映画の終わりのように、2時間で解決するものでもなく・・・人は人生の半分かけてアイデンティティを構築し、残りの半生でそれを手放していく大事業があるのではないか。
この頃そんなことをしきりに考えます。
作品の感想としては中途半端なところで終わりますが、本当に素晴らしい映画です。
ラストはクリスマスの場面で締めくくられるので、今日にふさわしい・・・(記事を書くのに手間取って、いささか遅くなりましたが)。
もし興味がでたら、ぜひご覧になってみてください。
(私はAmazonの回し者ではございませんが。Amazonプライムビデオでは追加料金なしで視聴できました)