DJ SODAさんの件について② | 本を読んでも賢くなりません。

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ごく普通の読書ブログのつもりではじめたら、ごった煮のようになってしまいました。

前回から色々展開がありました。

DJ SODAさんは、6歳の時に受けた性暴力と人生で何度もセクハラ被害にあってきたとFBに書き込み、10年間DJとして活動をして‟初めて”日本の観客から性被害に遭った話との整合性がとれなくなってしまいました。

 

 

 

 

 

ライブ中に胸などを触った犯人とされたうち、2人の男性は自ら警察に出頭・・・(青汁王子の番組出演後。なぜ?)。

残る3人目の女性も特定され、事件(というほどの事には私には思えないけれど)としてはもうこれで終わりでしょうが、すっきりしない話です。

 

 

イベントを取り仕切った運営会社が、なぜかSODAさんの訴えを受けて自分たちの責任そっちのけで犯人だという男性たちの顔を全国に公開してしまい、逃げ場を失った彼らが自分たちの勤める会社の社長に相談→その社長が青汁王子に相談(?すでにここから意味がワカリマセン)→青汁王子こと三崎優太氏のYouTube 番組で顔出し謝罪(?)→三崎氏に付き添われ交番に出頭(社長への相談以降、不要に思える。すぐ警察へ、でいい気がします)

 

 

あまりの謎展開に、一時は訴えられた3人も仕込みかと疑ってみたりしました。

イベント会社も謎の被害者ポジションでしたし、マスコミの報道姿勢も変だし(あの程度の、事件とも言えない件を、大真面目にNHKまで繰り返し報じてましたね)。

 

 

 

 


デイリー新潮がこれを記事にして、ある捜査関係者のものだという話が載っています。


 

>「SNSで拡散されたことで、世間の一大関心事となりましたし、告発状を受理した以上、適切な捜査を行うということでした。ただ本音としては、あまり積極的ではない印象を受けました。“表立っては決して言えないが、あのような恰好で自ら観客の方へ近づいて行った場合、触られる可能性は当然あるだろう。だからと言って触っても良いわけでは全くないし、彼女はそれを認識していなかったと言っていたが、なかなか難しい手綱さばきを求められそうだ”などと、ある幹部は話していました」


常識として、そうだろうな。という感想です。

イベント会社と報道も変なら、ネットの反応もおかしなものが数多くありました。

女性の服装やパフォーマンス、距離の取り方などの如何に関わらず、触った奴が犯人だと決めつけて激しく糾弾しました。

 

 

DJ SODAさんの件での動画は多くありますが、いつもの白川司さんの解説で。

 

 

 

 

先日も貼りました、細川バレンタイン氏の動画の続編です。

面白かったけれど長いので、大事な部分(12:54~14:45あたりまで)を頭出ししてあります。

 

 

 

 

細川バレンタイン氏が指摘されている部分を私も問題視していました。

前に書名だけご紹介した下の本。

 

 

 


『大衆の狂気』を著した英国のジャーナリスト、ダグラス・マレー氏は第2章「女性」の中で‟社会科学の活動家が主張する政治的虚偽に基づいて、社会を再編しようとしている点”が社会を混乱させている、と書いています。


 

あらゆるものの中で、上記の力がもっとも大きな力を振るっているのは性の問題であり、とりわけ男性と女性の関係に関する問題ですが、そのことに我々は気付くことを求められていないか、気付いたとしても黙っているよう求められていると言います。

(細川バレンタイン氏はそのことに黙っていない、珍しくそして勇気のある方です)

 

 

ほんの数十年前まで、男女関係は複雑なものだという合意があったものが、現在、娯楽産業が世界中に大量供給しているメッセージによって混乱し、とまどいを覚えている人もいるに違いない、と本の著者は書いています。

 

 

現代の社会的合意に見られる深い混乱を、意図せずに見事に表現しているのがニッキー・ミナージュが2014年に発表した『アナコンダ』という歌だそうです。

(私、ニッキー・ミナージュも歌も初耳でした)

 

 

▼かなり性的なものを匂わせるミュージックビデオです。タイトルの「アナコンダ」も、ただの蛇じゃなくて「おれのアナコンダは、おまえのじゃなきゃ見向きもしねえ」って意味らしいです。

 

 

 

最初から3分ほどはニッキー・ミナージュや他の女性たちがお尻を振るシーンが続きます。ただ、重要なのは最後の1分半ですから、視聴するならそこまで飛んでもいいでしょう。

 

 

照明を落とした部屋に椅子が一つあり、若い男性が腰かけています。

ニッキー・ミナージュは男性の足元へと四つん這いで這って行き、男性の体に手をかけて立ち上がって体を寄せ、身をくねらせたりお尻を振ったりします。

 

 

大人しく見ているだけだった男性も、だんだん惹き込まれていき、最後にそっとミナージュの臀部に手を触れる・・・その瞬間、すべてが終わります。

「ちょっと」という歌詞とともに、ミナージュはその手を振り払うと部屋を出てゆき、男性は手を触れた行為を恥じるかのように手で顔を覆う──。



 

ニッキー・ミナージュがここで演じている態度は、この社会に見られる多くのことを象徴している。そこには、解決不可能な課題や無理な要求がある。

女性は先に、好みの男性を相手にラップダンスを行ない、体をからめ、尻を振り、その男性をとりこにすることができる。

だが、その男性が女性の体に手をかけてこようものなら、そのゲームをすっかり終わらせてしまうこともできる。

つまり、一瞬にしてストリッパーから女子修道院長に早変わりする。
「あなたの目の前で振っているこの尻を見て」が、「目の前の尻に触ろうなんてよくも思えたものね」に変わる。自分が間違っていたと思い知らされるのは、男性のほうなのである。



 

だが、この一連の流れのなかで何が求められているのかを考えてみてほしい。現代の道徳規範には、このような応じることのできない無理な要求が書き込まれている。

女性が好きなだけセクシーにふるまうことを認めなければならない一方で、女性を性の対象として見ることは認めない。セクシーなのはいいが、性の対象として見てはいけないのである。

これは無理な要求である。理不尽なだけではなく、男性を混乱させる。

だが、誰もその点を追求しない。それを追求すれば、解決することも改善することもできない無数の複雑な問題を明らかにすることになるからだ。

 


今回の件でのネットの書き込みも、‟政治的虚偽に基づいて、社会を再編しようと”するかのような──女性は好きな服装とパフォーマンスをするべきだが、男性はそのことで邪な気持ちを持ってはならない──という意見が多く見られました。単なる男女間ではなく、DJのパフォーマンスと観客ということもあったでしょうが。

 

 

それらの意見に対抗しようとする側も、どこか的を外していて、細川バレンタイン氏ほど切り込めた意見はあまり見なかったように思います。

(SODAさんの体を触った人たちは犯人として見捨てて、SODAさんや運営の批判だけをしていた意見は多くありました。女性に触ったら、問答無用で悪である、の価値観が既に深く浸透していますね)

 

 

観客たちを煽る服装、パフォーマンスはさておき、胸を触られた途端にSODAさんが被害者になった、なれたのには、こうした価値観の浸透が不可欠でした。ほんの10年前の日本なら、ここまでの騒ぎにはならなかった気がします。

 

 

 

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