「奇跡の道程」
筆者:得能喜美子
出版社:彩流社
平成22年9月10日初版発行
この本は、敗戦後15歳の少女が20歳の姉と一緒に朝鮮半島の羅津から釜山を経由して日本に帰国するまでの物語です。両親とは避難する際、はぐれてしまい別のルートでの帰国となったようです。よくぞ無事に帰って来てくれたと言わざるを得ません。帰国するまでにたくさんの困難もあったようですが、不思議な助けも多々あったようです。私は神(宇宙)の御加護があったのではないかと思いました。以下に主な内容を記します。
○ソ連軍の侵攻があり、難民となって避難している最中、城津近くで数人の男が近寄って来て石を投げ、時計を寄こせなどと喚かれていると、何人かの銃を持った若者が近づいて来てくれ、男は逃げていった。若者は「僕たちは公安隊です。あなた達は悪くない。これから先、同志が見守って行きますから安心して下さい」と日本語でしゃべり、しばらく誘導してくれたとのこと。(53P)北朝鮮にも敗戦当時、日本人のため、優しくしてくれた朝鮮人もいたと知り嬉しくなりました。
○成興の街で小学校の体育館のようなところに収容されていたとき、姉がソ連軍の将校の連れて行かれてしまい、襲われかけたのですがその姉は河原でソ連軍の将校がズボンを脱いだところで突き飛ばし逃げて帰って来たのですが、将校が撃った弾丸が耳をかすめて飛んできたが事なきを得たようです。その時、弾丸に当たっていると姉は怪我をして、一緒に帰国出来なかったかもしれません。そのことがあり、翌朝、難民団の方が平壌行きの列車に乗せてくれたようです。(69P)
○18歳の兄は平壌で肺炎のため亡くなりました。翌日、医師が「病名が肺炎ではなく発疹チフスと言えば、伝染病として荼毘に付せます」と言ってくれ、焼いて骨を日本に持ち帰ることができたようです。発疹チフス以外の病名であれば、遺体は穴に投げ込まれ埋められるだけだったようです。(87P)
○ある日、難民団に対し、監視員から「ついて来い」と言われ数分歩いたところに銭湯があり、「裸になれ」と命令され服を脱ぎ、服を全て持って行かれ不安に思っていたが、お風呂に入り出たところ、虱だらけの服を熱風で消毒してくれており、清々しい思いをしたとのこと。(101P)
私は一瞬、ユダヤ人が毒ガスでナチスに殺害されたシーンを思い出しました。あの時も「今からシャワーを浴びる」と言いながら、ユダヤ人に服を脱がせたのです。また、お風呂は10ヶ月振りだったようで、それまでの苦労が本当に忍ばれました。
○妻と三人の娘と一緒に品のある70歳ぐらいの紳士がいました。言葉は少ないものの同室の人たちに惜しげもなく所持品を提供し、皆の食費を補ってくれたようです。筆者も頼りにしてしまったようです。その紳士が釜山から日本に帰国するときには無一文になっていたようで、難民団員は感謝しながらも謝罪の想いを持ったようです。(103P)自分のことより他人のことを考える優しい日本人がいたと知り嬉しくなりました。
○難民団員は平壌から有蓋貨車に乗せられていたが、多くの人が乗っていたため酸素が不足し筆者の意識が遠のいたところ、傍の方が「女の子が死んでしまう」と叫んだため、貨車の中の人は筆者を御輿のように掲げて窓の近くに顔を寄せてくれたりしました。(106P)そのため、意識がしっかりとしたようです。多くの優しい人が助けてくれたようです。
○京城から釜山に向かう有蓋貨車は家畜の匂いと人温れでムンムンとした空気で澱んでいて苦しく、また、お腹も空いていたため停車した駅で住宅地の中の立派な家にフラフラと駆け込んだところ、品格ある老人が出てきて、筆者を静かな目でじっと見つめ、紙幣を一枚渡してくれたとのこと。その紙幣で姉と一緒に何か食べたようです。筆者は今でも神々しく見えた老人の姿を鮮明に覚えているようです。(122P)
○母は満洲を経由して葫蘆島から船で帰国しました。その時、読んだ歌に素晴らしいと思ったものがありましたのでご紹介します。「乞食と笑はば笑へわが姿 国へ帰るまでは死なれざれけり」(131P)なんとしても帰国するという強い意志が感じられます。エネルギーを感じるとても素晴らしい歌です。
○父が帰国する際、図們の収容所に入れられソ連の軍人から「満洲電々の羅津支店長だろう」と銃剣を突き付けられ聞かれた際、咄嗟に「違います」と答えたもののその後、連れてこられた朝鮮人は自分の部下であり、万事休すと思ったが、その朝鮮人は「こんなやつ支店長と違う」と否定してくれたようです。(135P)その理由は、父は穏やかで他人に対して命令をするような性格ではなかったため、朝鮮人から好意的に思われていたためと思われます。人は大事なところで真価が問われると思いました。
○父と仕事上の付き合いをしていた優秀な憲兵隊員がいました。家にも出入りしており、筆者は兄のように慕っていたようです。ソ連の空爆の後、避難していた収容所でバッタリ出会ったとき、通常では手に入らないパンと菓子の包みを筆者に渡してくれたようです。その後も何回か差し入れをしてくれたようです。また、逸れた両親にも会い、兄が亡くなったことを涙ながらに伝えてくれ、その後、中国に行くと言って姿を消したようです。筆者はこの憲兵隊員の凛々しい姿が目に焼き付いているようです。(150P)
この本は、息子さんから「(引き揚げの)経験を書いておくべきだよ」と言われ、80歳を過ぎて地元の松戸市にある千葉県立西部図書館で朝鮮の地図などを調べ書き始めたようです。(155P)私はこの本が出版され、敗戦後、困難な環境から無事に日本に帰国出来たという体験を平和な環境で生活している現在の日本人に対し、知らしめることが出来たこととても大きな意義があると思っています。この本は苦しくても決してあきらめないという精神の大切さを教えてくれます。最後になりますが、素晴らしい本を出版してくれた筆者と出版社に深く感謝いたします。ありがとうございました。
話は変わりますが、東京でもコロナ感染者数がかなり減って来ており、もう少しで非常事態宣言も解除される見込みとなりました。これはひとえにみなさんが協力してステイホームという活動をしたためだと思っています。そのことにとても感謝しています。ありがとうございました。
私は非常事態宣言が明ければ、積極的に外出するべく待ち望んでいます。みなさん、良い週末をお過ごしください。