読了後、目の前の景色が変わってしまったという体験をしたことがある。いずれも若い頃、すなわち思春期と青春時代においてである。この時期に人は、自分とは何か、人生とは何か、社会とは何かを問い、それゆえに苦しみ悩む。この時期の感受性はそれだけ研ぎ澄まされている。大人になるにつれてその鋭さは丸みを帯び、老人になった現在はすっかり錆びついてしまった。今から振り返ると、若いということはそれだけでも素晴らしい。

 そのような経験をもたらしてくれたのは、私の場合、中学3年の時に読んだ『車輪の下』(ヘルマン・ヘッセ)と予備校時代に読んだ『罪と罰』(ドストエフスキー)である。

 70年間に多くの書物を読み、感動した本は多々あるが、目の前に景色が変わって見えたという衝撃的な経験はこの2冊だけである。

 中2から中3にかけての時期、私にとって学校は苦痛以外の何物でもなかった。それから逃れるために先生や親に反抗したが、現代に生きていたら間違いなく不登校になっていただろう。当時は貧しい時代ゆえ、ひきこもることが出来る部屋など家にはなかった。

 中学生の大半は思春期を難なく通過するが、乗り越えられない少数派がいる。私は明らかに後者だった。その時の苦しみを救ってくれたのが『車輪の下』であり、その詳細については『ヘルマン・ヘッセ・私の好きな作家4』で述べたので繰り返さない。

 もう1冊の『罪と罰』の思い出も、『我が懐かしき本2・浪人編』で語った。この本に出合えたことで私は浪人時代の苦しさを克服出来た。

 

『罪と罰』によってドストエフスキーに引かれた私は、大学に入学すると彼の著作を片端から読み始めた。ずいぶん彼から影響を受けた。

 当時の学生は、大学紛争があったり、活字文化が隆盛を極めたりしていたので、今の学生より本を読んだ。多くの学生の本棚に文学や思想の本の書物が並んでいた。同時によく議論をした。その場は喫茶店や安酒場や下宿であり、文学、哲学、人生、政治、思想など硬い話から、風俗やサブカルチャーなどの話題にまで及んだ。

(昭和の喫茶店は薄暗い店が多かった)

 世界文学においては、ロシア文学とフランス文学は特に人気があった。ロシア文学に関して人気があったのは、トルストイとドストエフスキーであり、二人は東西の両横綱だった。

 中でもドストエフスキーについてはよく文学好きの友達と語ったものだ。川越出身のS君とは競争するようにして読み、必ず読後感を渋谷の喫茶店や新宿の安酒場や学芸大学駅前の私の下宿で熱く論じた。今思い出すだけでも楽しくなる。

(渋谷の喫茶店と言えば「らんぶる」)

(学芸大学駅東口。昭和の終わりころの写真か。70年代前半の様子はまだ見られる)

 

 したっがてロシア文学の思い出と言えば、まずドストエフスキーを取り上げなければならない。

フョードル・ドストエフスキー(1821~1881)

 

 彼を語る場合、彼の作品とりわけ彼の小説を通して行いたい。小説以外に、政治的思想的エッセイをかなり書いているが、小説家の主要舞台は小説である。小説家は芸術家であるゆえ、政治的思想的意見を述べる場合、非論理的感情的になりがちな上に、起伏が激しく、極端な思考に陥る場合が多々ある。彼にもよく見られた。

 だから私は、小説家の政治的思想的エッセイは小説より下に置く。小説の感想を通して私なりのドストエフスキー像を述べてみたい。

 

  私が手にした作品は以下の通りである。

 当初、河出書房の世界文学全集、岩波文庫や新潮文庫、筑摩書房のドストエフスキー全集などで読んだが、河出書房新社の全集をそろえたので、重複した作品の文庫本などは古本屋に売ってしまった。

 読了した作品は、長編では『貧しき人々』『地下生活者の手記』『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』、短編では『初恋』や『白夜』である。

 中途で読むのを辞めた作品は『スチェパンチヴォ村とその住人』『永遠の夫』であり、拾い読みしたのは『作家の日記』(これは図書館から借りた)である。

 

 正直に言うが、これらの内容は、『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』を除いて忘れてしまった。『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』は最も心に残ったので読了後何度か拾い読みした。後者は映画も見た。だから覚えているのだろう。とにかく彼の作品を読むのは大変だった。『貧しき人々』や『地下生活者の手記』を読み終わった時、ようやく終わったとため息をついたくらいである。

 

 彼の作品は、その思想的深さ、延々と続く会話や独白、長い文章ゆえ、読みこなすのにかなりの忍耐が要求される。知力や精神力だけでなく体力も要求された。そこに翻訳文特有のおかしな日本語が加わるので余計大変である。大げさな言葉を使えば、巨大な渦に飲み込まれ、翻弄され続けるような知的経験を味わえた。したがって読了後、かなり疲れ、食べ物の比喩を使うと、大量の肉を毎日食べたような気がした。当分彼の作品は読みたくないと思った。ただし、時間が経つと、また彼の別な作品をひも解きたくなった。それだけ魅力があった。

 このような経験は、読書意欲が高く、頭脳が活発に動き、時間的余裕に恵まれた大学時代だからこそ出来たのだろう。彼の作品群に曲がりなりにも目を通せたことは大学時代の記念碑とも言える。ということは社会人になってから完全に遠ざかってしまったことを意味する。

  今のところ再読しようとする気持ちは起こらない。

 

 私が読んだ限り、彼の力が発揮されたのは、長編だった。とりわけ後期五大作品と呼ばれる5つの長編(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)は強い印象を私に残した。

 以上から、私なりに気が付いた点を列挙してみよう。

 

 第1点は主人公の多くが青年だということである。それもインテリ、もしくはインテリに近い青年である。それゆえロシアの批評家から「大人になりきれなかった作家」とからかわれ、「青年の文学」と呼ばれた。

 古今東西を問わず青年は悩み、迷い、自分探しの旅を行う。生きるとは何かという壮大な主題を作品の骨格にするなら、青年は主人公にもってこいの存在である。だから彼は青年を採用し、成功した。その結果幅が広く深みのある作品に仕上がった。

 

 次に都会の文学だということである。

 『カラマーゾフの兄弟』や『スチェパンチヴォ村とその住人』を除けば、ほとんど作品が都会、当時の首都ペテルブルクを舞台にしている。

(19世紀末のペテルブルク)

 彼にはトルストイやツルゲーネフに見られる優れた自然描写がほとんどない。得意ではなかったかもしれない。風物の描写なら田舎より都会の方が得意だったのかもしれない。『罪と罰』によく見られる都会の場末の描写は生き生きとしていた。

 都会は人が多いのだから、雑踏に恵まれる。アパート暮らしは他人に干渉されにくく、孤独になれる。ということは、読書に興じ、思考を深め、知性を磨ける。このような環境ならインテリの悩める青年は誕生しやすい。また、様々な階層の様々な人物に出会え、当然知的な衝突が生じ、論争が起こりやすい。

 ドストエフスキーの小説は「思想の実験」ともいえるので、物語の舞台には都会の方が適していたのだろう。彼自身も人生の大半をペテルブルクで過ごし、この街を愛していた。田舎に別荘を持ち、田舎で暮らすことが多く、それゆえ田舎を舞台にした作品を数多く発表したトルストイとは正反対である。

 

 第3は会話文の文学だということである。

 ドストエフスキーの作品には会話が多い。延々と数ページ続くこともある。そればかりか独白も多い。地の文より会話文の方が多いだろう。会話や独白を通して登場人物の性格や思想を表す。その人物はどういう人間かを追究するために会話を用いている感じがした。長過ぎて辟易したこともある。

(『カラマーゾフの兄弟』の会話の一部)

 第4は、心理描写が巧みな点である。登場人物が何を考えているかを表現するために、その心の動きを徹底的に描く。時には会話で心理を描くこともあった。これまた長いのでうんざりしたことがあった。

 私が読んだ中で最も記憶に残っているのは、『罪と罰』に出て来る予審判事ポルフィーリーと主人公ラスコーリニコフの心理戦である。判事は彼が老婆殺しの犯人であることを確信したのでなんとか落とそうと追及し、反対にラスコーリニコフは逃げようと反論する。この場は圧巻である。そういう点で推理小説と言えないことはない。

(ポルフィーリーとラスコーリニコフ)

 心理戦と言えば、裁判シーンも迫力があった。『カラマーゾフの兄弟』にそれは見られた。この見事な裁判シーンの描写は後世の小説家(推理小説家も含める)が描く際の見本になったのではないだろうか。カミュの『異邦人』や大岡昇平の『事件』にも影響を与えたのではないだろうか。

 第5は強烈なキャラクターの造型の巧みさである。主要な登場人物はとにかく個性が強い。それを生かすため彼は人物描写、行動描写、心理描写を駆使し、会話や独白も用いた。

 私にとりわけ印象を残した人物は、『罪と罰』では、悩める青年ラスコーリニコフ、キリストの母マリアを彷彿させるソーニャ、理詰めの判事ポルフィーリー、強欲人間スヴィドリガイロフである。

                      

(ラスコーリニコフ) 

(ソーニャ)

 『カラマーゾフの兄弟』では激高型の長男ドミートリイ、無神論者の冷徹な理論家の次男イヴァン、神の存在を信じる心優しい三男アレクセイ、残忍なスメルジャコフ、長男の恋人で情熱的なグルーシェンカが挙げられる。

(長男ドミートリイ)

(次男イヴァン)

(三男アレクセイ)

(スメルジャコフ)

 『悪霊』では、悪魔の化身のような主人公スタヴローギンが忘れられない。

(スタヴローギン)

 『白痴』の主人公ムイシュキン公爵は純粋無垢で、キリストを彷彿させるキャラクターである。

(ムイシュキン公爵)

 第6は子どもの描き方のうまさである。無垢な子どもたちがわき役として時々出て来たが、生き生きとしていて印象に残った。特に『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』に登場した子どもたちを覚えている。

 

(ロシアの子どもたち)

 最後はこれが最も重要なのだが、作品の持つ思想的な深さである。

 私が5大長編を読んだ限り感じたことは、キリスト教の精神、厳密に言えばロシア正教の精神が作品を背骨のように貫いていることである。間違いなくドストエフスキーはロシア正教を自分の思想の根本にすえ、ロシア正教による救済を信じていた。

(ロシア正教会)

 そしてキリスト教の愛の精神を具現化した人物として『罪と罰』のソーニャや『カラマーゾフの兄弟』のアレクセイや『白痴』のムイシュキンを造型した。彼らが示す無償の愛は私の心に十分しみた。ただ、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の章は難しかった。

(大審問官)

 当時の時代的精神との対決が読み取れたことも挙げられる。19世紀後半のロシアに、思想では無神論や超人思想や唯物論が入って来、政治では共和制や社会主義の考え方が生まれた。ドストエフスキー自身若い頃、空想的社会主義の秘密結社に関わったので、死刑宣告を言い渡され、執行寸前で回避されるという極限状況を経験し、シベリア流刑の目に遭った。

(シベリア収容所)

 彼はその経験を小説で生かした。思想にとりつかれた登場人物を配置し、事件を発生させた。『カラマーゾフの兄弟』におけるイヴァンとアレクセイの「神の存在」を巡る論争は圧巻である。

 『悪霊』では狂信的なカルト政治集団の特性を掘り下げ、その暗部である閉鎖性、残忍さ、欺瞞を描いた。

 ドストエフスキーはロシア正教による救済を信じる立場であるので、当然時代思潮を批判した。キリスト教の精神と新興勢力の思想を対決させた結果、作品は深みを増した。

 ロシアの大地やスラブ民族への強い愛も著しい。言わばスラブ主義である。同じキリスト教徒でもトルストイにはコスモポリタン的な普遍性が感じられたが、ドストエフスキーに狭いナショナリストの面が見受けられた。

 

 これらの点を総動員してドストエフスキーは「人間とは何か」を作品群で追究したのである。結果的に壮大なドラマに仕上がり、その姿勢はこちらが苦しくなるくらい読者に伝わった。だからこそ彼の作品は世界文学の金字塔になり、「現代の予言書」と呼ばれ、彼の人間観や哲学は後世の作家、哲学者に大きな影響を与えた。

 

  連合赤軍事件の犯人の一人が獄中で『カラマーゾフの兄弟』を読み、感動したという記事を昔読んだ。

 彼ばかりではない。古今東西の革命家にも似たような事例が見られた。カルト集団の極限状況を経験した者はドストエフスキーの作品に自分を見い出すのかもしれない。

  2000年代に入ってから、東京外国語大学学長の亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が売れた。彼の訳が若者を引き付けたのだろうか。ドストエフスキーが若い人に読まれるニュースはうれしい。

 また、2013年にはフジテレビで、舞台を現代日本に移した『カラマーゾフの兄弟』が放送された。若者に人気があったようである。いいアイディアである。これを契機に原本をひも解く若者が増えれば最高である。

 

 

 最後に『作家の日記』にふれよう。彼の政治や文化に対する直接的な意見はここで窺うことが出来る。私はこれは持ってない。図書館から借りて拾い読みした。

 前述したように、彼の意見は感情的非論理的になりがちである。また、年齢によって立ち位置が変化した。若い頃空想的社会主義に引かれたが、シベリア流刑を経験すると、社会主義や共和制に反旗をひるがえした。露土戦争では汎スラブ主義を唱えロシア政府の政策を支持する一方、晩年はスラブ主義を批判し、逆にアーリア民族主義をたたえたりもした。そしてユダヤ主義には痛烈な批判を加えた。その辺りがナチのゲッペルスに悪用された。
 また、社会主義を否定したためソ連時代は評価されなかった。ところが、ソ連が崩壊すると、彼の再評価が高まった。ロシア正教会の復活が彼の再生を後押ししたからだろう。

 昨年の11月、ドストエフスキー生誕200年記念祭が大々的に各地で開かれ、改装されたドストエフスキー博物館をプーチンが視察し、「天才的な思想家だ」とたたえた。

(ドストエフスキー博物館を訪れたプーチン

 それから数か月後、ウクライナ侵略が行われたということは、明らかにプーチンはドストエフスキーのスラブ主義とナショナリズムを戦意高揚に利用した。

 政治に翻弄されたり、悪用されたりする点がドストエフスキー思想の限界を表していると言えようか。

 

                     ――― 終 り ―――

 

 次回はロシア文学第2弾、トルストイの作品について語ります。