思い出の和製ポップス・1971ー77 | じろやんの前向き老後生活

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 自分に影響を与えた文芸・音楽・映画・絵画を紹介したり、お遍路や旅の思い出を語ったり、身辺雑記を綴ったりします。

 日本のポップスのことをJ-POPと言うらしい。この用語が一般的に定着したのは90年代だろう。

 日本のポップスが盛んになったのは60年代の後半である。私の記憶する限り、66年か67年頃、「和製ポップス」という用語が誕生した。

 これらの曲は洋楽の影響を受け、ビートが効き、メロディラインがあか抜けていた。これまでの歌謡曲や演歌とは全く異なっていた。

 プロの作曲家としてその先頭を進んだのが中村八大や浜口庫之助であり、筒美京平や村井邦彦が続いた。当時グループ・サウンズやカレッジ・ポップスが流行り出し、上記の作曲家の曲が用いられた。

  彼らの作った曲では、『涙をこえて』(中村八大)、マイク真木『バラが咲いた』とジョニー・ティロッソン盤『涙くんさよなら』(共に浜口庫之助)、ズー・ニー・ブー『白いサンゴ礁』とモップス『朝まで待てない』(共に村井邦彦)が特に印象に残った。

(イントロのオルガンの音色がなんとも言えない)

 特に浜口庫之助と村井邦彦の作品は私の感性に合った。

           

(村井邦彦)

 一方で加山雄三や荒木一郎などシンガー・ソング・ライターも登場した。自作自演はフォークの歌手に多く、フォーク・クルセーダーズ、高石知也、西岡たかし(五つの赤い風船)、岡林信康が続いて現れた。彼らも「和製ポップス」の範ちゅうにくくられていたと思う。

 70年代の半頃だっただろうか、荒井由実の出現と共に「ニュー・ミュージック」という言葉が使われるようになり、次第に「和製ポップス」に代わって使われるようになった。

 したがって、日本におけるポップスの呼称は、「和製ポップス」→「ニューミュージック」→「J-POP」という風に変わって行った。

 

 私は60年代から70年代にかけて青春時代を過ごしたので、「和製ポップス」という呼び方が一番ぴったりする。

 ただし、71-77までのこの時期、音楽について言えば、バロックやクラシック音楽に傾倒したので、和製ポップスはあまり聴かなくなった。レコードにいたっては、加山雄三のアルバムを1枚買っただけだった。

 それでも、いい曲だなあと感動した曲はもちろんある。その1つが加山雄三の『美しいビーナス』である。

 初めて聴いたのは70年の夏私が浪人していた時で、受験勉強に集中していた私にとって一服の清涼剤となった。しかし勉強の妨げになるのでラジオで意識的に聴こうとはしなかった。

 翌年大学生になり、夏が来ると、この曲を聴きたくなった。それは数年続いた。加山雄三に凝っていた中2から高1の自分に戻ったような気がした。それゆえ、この曲が収録されている彼のベスト・アルバムを買うことにした。74年の頃だったと思う。

 『加山雄三ベスト40』という2枚組のアルバムで65年から70年までの曲が網羅されている。

 改めて聴くと、彼の才能の豊かさに驚かされた。台詞入りバラードでは『恋は赤いバラ』『まだ見ぬ恋人』『ある日渚で』がいい。エレキ・サウンドでは『夜空の星』『走れドンキー』、フォーク調では『旅人よ』『二人だけの海』『心の海』、アレンジの素晴らしさでは『幻のアマリリア』『美しいヴィーナス』が特に気に入った。

 

 

 残念なことは、ここに収められているのはボーカル曲ばかりなので、インストルメンタル・エレキ・サウンドの傑作『ブラック・サンド・ビーチ』が入ってなかった。

 

 私は高校時代に日本のフォークソングに心酔したが、70年代に入ると、聞かなくなった。創造性や社会意識に目覚めた関西フォークが下火になり、吉田拓郎を中心としたニューフォークが主流を占めるようになったからである。

 72年拓郎の『結婚しようよ』を皮切りに、南こうせつとかぐや姫の『神田川』、さだまさしのグレープが『精霊流し』をヒットさせ、続いてアルバム『氷の世界』で井上陽水が一大センセーションを巻き起こした。

 だが、私は彼らの曲を意識的には聴かなかった。

 この時期、私の心に響いたフォークの曲はかつてのフォークル仲間加藤和彦と北山修による『あの素晴らしい愛をもう一度』(71年)と泉谷しげるの『春夏秋冬』(72年)である。

 『あの素晴らしい愛を』に関して言えば、加藤の作曲及び編曲能力の高さに脱帽である。12弦ギターをスリーフィンガー・ピッキングで弾くイントロを聴いたとたん、瞬く間に幸せな気分に包まれた。加藤の編曲は美しいメロディラインと北山の希望にあふれた歌詞を見事に合体させ、三位一体の名曲に仕上げた。

 この曲で私は、スリーフィンガー・ピッキング奏法のすごさに目覚めた。受験勉強で遠ざかっていたギターをもう一度弾いてみようという気になり、必死でこの奏法を練習した。

 泉谷の『春夏秋冬』をラジオで聴いた時の感動も忘れられない。まず、歌詞の素晴らしさに驚かされた。

    

   季節のない街に生まれ  風のない丘に育ち 夢のない家を出て 愛のない人にあう

 

 全部載せられないが、視聴者の想像力を高めるような内容である。短編を味わったような気分にさせられる。

 もちろん、メロディもいい。生ギターのスリーフィンガー演奏を全面に出し、ブルース・ハープを取り入れたたアレンジも素晴らしい。

 そしたら、なんとこのプロデュースを行っているのは加藤ではないか。彼はその頃、吉田拓郎の『結婚しようよ』のアレンジも担当していた。同時にサデステッィク・ミカバンドを立ち上げ、和製ロックを確立しようとしていた。その作風に私はついて行けなかったが、フォークにとどまらず、挑戦し続ける加藤の姿勢はポップスに輝かしい足跡を残したことは間違いない。

  フォークと言えば、71年か72年頃、帰省すると、高校生の妹が買った五つの赤い風船のLP『五つの赤い風船 フォーク・アルバム(第1集)』をよく聴いた。

 五つの赤い風船は関西フォークの第一人者として60年代末から70年初頭に活躍した。ちょうど全共闘運動の隆盛と重なっており、このLPは71年に発売された。妹は私の影響を受けていた。代表作の『遠い世界に』や『恋は風に乗って』を高校時代にラジオで聴いた時、さわやかないい曲だと思ったものだ。

 『血まみれの鳩』『もしもボクの背中に羽が生えていたら」も佳曲である。まず、リード・ボーカルの藤原秀子の声がいい。西岡のハーモニーも抜群である。彼はなかなかの才人で、メロディのきれいな曲を作るばかりか、オートハープや民族楽器の笛(ケーナか)を操った。このような珍しい楽器を駆使出来るのは彼くらいだった。

 『遠い世界』や『血まみれの鳩』はプロテストソングであり、ベトナム戦争や学園紛争など60年代終期の世相を反映している。 60年代で思い出したが、全国の大学紛争の発火点になった日大闘争のリーダー秋田明大氏がこの頃(71年から73年の間。正確には覚えてない)新宿駅西口に立って自作詩集を販売していたのを見かけた。彼は闘争が終了後、悩まられ、自分探しの旅を続けていたのだろう。この頃、連合赤軍事件や過激派の内ゲバが発生するなど、大学紛争は全く変質してしまった。

 

 バンド系の音楽について言えば、60年代後期に出現したグループ・サウンズはアイドル路線で進んだために60年代が終了すると同時に消え失せて、代わって自作自演で、しかも日本語で歌う実力派バンドが登場した。その代表がはっぴいえんどであり、73年にはキャロルやチューリップがヒット曲を飛ばし、人気を博した。

 しかし、私は彼らにも引かれなかった。激しいビートに日本語は合わないような気がした。英語で歌わないとロックのような気がしなかった。ただ、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』とチューリップの『心の旅』は優れた楽曲だと思った

 『港の』について言えば、何よりリフのリズムが素晴らしい。前衛に台詞を位置づけた斬新さ。一人の少女に2つの港をからませたストリーは尖がっていた。

 『心の旅』に関しては、メロディの素晴らしさとハーモニーに衝撃を受けた。サビからいきなり始まる発想もインパクトがあった。バックにホルンを使うというアイディアも効いていた。

 

 74年、私は富山県出身のKM君と三田のキャンパスで再会した。私たちは偶然にも一般教養科目の「統計学」を受講し、しかも合格点が取れず、再試験という瀬戸際に立たされていた。落ちれば留年である。私たちは1年の時に留年していたので、再度の留年はしたくなかった。それで一緒に勉強し、なんとか再試験を突破することが出来た。怪我の功名というのだろうか、これが機縁になってKM君と親密になった。音楽愛好の趣味が輪を掛けた。彼はステレオとたくさんのレコード(和洋のポップスがほとんど)を持っていたので、私は二子玉川にある彼の下宿へ遊びに行くようになった。

 そこで覚えているのは、彼からユーミン(荒井由実。結婚後は松任谷由実)を教わったことである。彼はユーミンのデビューアルバム『ひこうき雲』とセカンドの『MISSLIM』を持っていた。

 「彼女はすごい才能がある」と言って聞かせてくれた。私はその中で『紙ヒコーキ』と『ベルベット・イースター』に引かれた。 

 

 

 しばらくして、ユーミンは『あの日に帰りたい』でブレイクし、『ルージュの伝言』『卒業写真』と次から次へと名曲を連発した。KM君の予言は見事的中した。

 その年の初夏、私たちは多摩川に手漕ぎボート乗りに行った。青い空と白い雲の下で舟遊びに興じ、川を突っ切る小田急線の電車を仰いでいた時、『紙ヒコーキ』の最初と最後の部分が頭に浮かんだ。私が空に向かって口ずさむと、KM君が笑いながら唱和した。

         ♪ あてはないけど 紙ヒコーキに ~

            ~ 空のかなたへ 空のかなたへ ♪

 

  私たちには彼女がいない。同乗者が彼女なら最高なんだけどなあと言って再度笑い出した。

 ユーミンの楽曲に関してもう一つ思い出がある。  

 

 同じ時期、私は最初の1年時に知り合った級友SS君の家に泊まりに行った。SS君の家は東上線の鶴瀬駅にあった。彼は、「お前の好きそうな曲を見つけたよ」と行ってある曲を聴かせてくれた。ハイ・ファイ・セットの『海を見ていた午後』という曲だった。いやあ、実にいい曲だ。体を電流が走った。メロディの美しさ、歌詞の素晴らしさ、リード・ボーカル山本潤子の声のよさ。そしてアレンジのすごさ。誰が作ったのだろう。レコードのライナーを読むと、荒井由実。アルバム『MISSLIM』に収録と書かれてある。ファイファイセットはカヴァーしていたのだった。KM君の家で『MISSLIM』を聴かされたのだから、原曲は一度聴いているはずである。しかし全く覚えていなかった。

 特に、歌詞が絵画的なことに驚かされた。

    

     ♪ ソーダ水の中を 貨物船がとおる ~

         小さなアワも 恋のように 消えていった ♪

 

 

 港を見下ろすレストランから見た情景がまざまざと浮かんで来た。彼女は詩人でもあると思った。これに驚いたのは私ばかりではない。武田鉄矢がテレビで何度も語っていた。

 優れた詩人のメロディメーカー。作詞作曲の二刀流の達人が現れた。これまでシンガー・ソング・ライターは何人も出ていたが、作曲は素晴らしくても歌詞は今一つというレベルだった。それも若い女の子。時系列的に言えば、五輪真弓に続いて登場した。

 確か朝日新聞の夕刊だったと思う。クラシック作曲家の団伊玖磨が彼女を絶賛した。クラシック畑の大御所がポップスの作曲家を支持するのは異例である。

 彼女の出現で音楽業界は変わった。まさにニュー・ミュージックが誕生したのだ。その後、中島みゆきや渡辺真知子など才能のある女性シンガー・ソング・ライターが登場したが、ユーミンはその先駆けになった。

 再度KM君の家に行った時、オリジナルを聴いた。私は即座にハイ・ファイ・セットの方が断然よいと思った。この歌の魅力を見事に引き出している。同じことは『卒業写真』についても言えた。

 ただ、あらためて荒井由実の2枚のアルバムを聴いてみると、すぐれた曲が網羅されていた。『ひこうき雲』『雨の街を』『きっと言える』『やさしさに包まれて』『12月の雨』・・・。女の子の感傷、戸惑い、希望を見事に表現していた。

 

 ただ、前述したように私は71年から77年の間バロック音楽やクラシック音楽に傾倒していたので、洋楽同様、和製ポップスに熱中することはなかった。

 ところが、それから時が移り、社会人になって働きだすと、再び洋楽やニュー・ミュージックを聴くようになった。意識を集中して聴かなければいけないクラシックの楽曲より、バロック音楽やポップスの方が気軽に聴けた。疲れがとれない曲は敬遠したのだろう。この変身ぶりが人間という生き物の不思議な所だ。

 

 世に出てから40年以上経つが、振り返ると、世代によって好む傾向は変わった。しかしこのことは言える、いい曲すなわち心を震わせ、脳に刻まれるような曲はジャンルを超える、と。どの分野の曲でも、自分の感性が刺激された曲は、自分にとって名曲になる。

 さすがこの年になると、今流行りの曲を進んで聴こうとは思わないが、今でも、ストーンズの作品に合わせてエア・ギターを弾き、バロックの名曲を聞きながら朝食を味わい、洋楽や日本のポップスの懐メロを聴きながら風呂に入り、モーツッアルトを聴きながら午睡に浸っている。

 音楽に親しむことが出来なくなったら、あの世が近くなるだろうか。

 

                    ――― 終 り ―――

 

 ※次回は、この時期に見たライブ・コンサートの思い出を語ります。