青春グラフィティ4・1972・大学1年2回目(続き) | じろやんの前向き老後生活

じろやんの前向き老後生活

 自分に影響を与えた文芸・音楽・映画・絵画を紹介したり、お遍路や旅の思い出を語ったり、身辺雑記を綴ったりします。

 10月に入ると、本を読むようになった。

 この頃から12月までの間、私の部屋(泉荘2階5号室)を訪れて来る友人が増えた。

(現在、私が住んでいたアパートの跡にはしゃれたお菓子屋さんが建っている)

 まず去年の級友(語学)のS君である。彼は駅近くに住んでいたのでちょくちょく顔を見せた。私の方からもたまに彼の部屋を訪れた。文学や人生を語り合ったが、ささいなことで喧嘩もした。

  新高円寺界隈に住んでいる同郷のG君やK君もたまに顔を出した。時には狭い四畳半の部屋にごろ寝した。彼らとはよく政治や人生を語り合った。白熱して、感情のすれ違いが生じた時もあった。

 S君にしろ、G君やK君にしろ、純粋な若者たちなのだ。自分を見つめ、人生とは何かを問い、世の中をよくしたいと考えていた。

(イメージ写真:四畳半の部屋。実際はこれよりも古く、窓は一つしかなかった)

 今年の級友では、KH君が顔をよく見せるようになった。彼は岐阜県関市出身で一浪組である。お父さんが高校教諭だった。私に親近感を抱き、近づいてきた。私が昨年年上の級友のKA君に兄事したように、KH君は私を兄貴のように扱ってくれた。

 そのうちKH君はAT君を連れて来るようになった。AT君は名古屋の出身であった。一浪して入って来た。二人共早稲田を落ちて慶応に来た。その点で私と同じである。

 二人は中部地方出身ということもあって仲良しだった。いつも連れ立っていた。

 AT君の家が豊かであった。父親が名古屋の某テレビ局の専務をしていた。KH君に較べると寡黙だった。

 KH君の読書範囲は哲学関係に絞られたが、AT君は広く、文学もよく読んでいた。

 私と同じく留年したKY君や昨年知り合ったYY君も泊まりに来た。二人は学生運動に関係している者である。たぶん、後述する学費値上げ反対闘争のからみで来たのだろう。

 訪問者が増えた理由には地の利が挙げられよう。学芸大学駅は、渋谷から東横線で日吉に通学する者にとってちょっと立ち寄るのに便利だった。それにアパートが駅から近かった。

(当時の若者の髪型。長髪が一般的になっており、私もその一人だった)

 アパートの住人のSOさんもよく顔を出した。この頃、彼は理髪店に新しく入って来た女性従業員に恋したのだが、うまくいかなかった。その悩みを私によく打ち明けた。私を加え3人で話し合った時もある。 

 私の部屋に来たことはなかったが、慶応を退学になったKA君とは10月中に再会した。彼は西武新宿線沼袋駅界隈のアパートに引っ越し、上京して来た弟さんと同居していた。私は泊りがけで遊びに行き、近所に住んでいる彼の同郷の友人たちに紹介された。みんなで近所の居酒屋で飲み、放談した。翌日、彼が朝食兼昼食にアジの干物をフライパンで焼いてくれた。私は生まれて始めてアジの干物を食べたのだが、その美味しさは今でも忘れられない。

  (イメージ写真:ガスレンジなどない時代なのでガス台に置かれたフライパンで焼いた)

 

 次にアルバイトにふれよう。小遣いが完全に底をついたので、10月下旬からバイトを始めた。場所は学芸大学駅の2階にある「まるふじ」(今はない)というステーキと焼き肉の店だった。当時学芸大学駅の2階の一部がテナント街になっていたのである。

(ホーム下の2階の部分にテナント街があった。改札口の真上ではなく、30mくらい左にあった)

 時間は夕方の5時から10時までの5時間。夕食付。時給はそんなに高くはなく200円くらいか。内容は皿洗いと食器等の準備である。忙しい時はメニューの生野菜の用意も行った。

(イメージ写真:実際はステーキ用の鉄板も洗った)

 「まるふじ」は自由が丘にある肉店が経営していた。そこの店主の妹さんが「まるふじ」の経営を任されていた。女将さんといえよう。当時40代の半ばの独身女性で、接客を担当していた。コックは1人。20代の終わりくらいの男性で、横浜の方から通っていた。彼は高卒でこの道に入ったが、大学生の私に親切で、コックの世界の話を語ってくれた。

  女将さんは美人でなかったが、愛人のような人がいた。京都大学を出た元大企業の役員を務めた方で年は60代くらいだろうか。偉ぶらない紳士の方だった。奥さんをずいぶん前に失くされたらしい。どこかに嘱託として勤め、その帰りに週に1、2度立ち寄った。そうすると女将さんはかいがいしく彼の夕飯を準備した。女将さんの方が惚れているような感じだった。不思議な大人の関係だと私は思った。

 ただ、この店はとにかく暇だった。満席になったことは、勤めている間一度もなかった。普通ならつぶれてもおかしくないのだが、肉屋の直営店だからなんとか維持できたのだろう。

 それでも常連客が数名いた。私の記憶にある方は白髪の男性で、豚肉のしゃぶしゃぶとお銚子1本といつも注文した。

 この店で一番人気があったのは、デミグラス・ソースのハンバーグ。次はサーロイン・ステーキ。焼き肉は家族連れしか注文しなかった。

          

     (イメージ写真:実物もステーキの上にパセリバター載っていた)

 

 この頃の思い出として、ジャズ喫茶の「5(ファイブ)・スポット」訪問がある。アパートの住人のSOさんと行ったのかもしれない。自由が丘にあるその店で生まれて始めてジャズの生演奏を聴き、その素晴らしさに感動した。

 そこは駅近くにあり、地下にあった。室内がけっこう広く、いたる所にミュージシャンを描いたイラスト風の絵がかかげられてあった。価格が安かったのも覚えている。

 しかし、この素晴らしい店は、1年後つぶれてしまった。

  (残念ながら、5スポットの内部や入口階段の画像は見当たらなかった)

 

 ここで、この年度の最大の思い出になる学費値上げ反対闘争についてふれよう。

 10月23日に当局から学費値上げが発表された。

 11月に入ると、学費値上げに対して、一般学生が日吉と三田のキャンパスで立ち上がった。現代から見れば、信じられないだろう。あの頃は、値上げが発表されると、学生が立ち上がる大学がけっこうあった。

 新左翼のセクトの連中も紛れ込んでいたが、主役は一般学生だった。冬に暴露された連合赤軍リンチ事件の影響でA派を始めとした新左翼は一般学生から支持されなくなった。そういう点からみれば、今回の反対闘争は健全であった。

 その動きは日を追うに盛り上がって来、キャンパスは70年安保反対運動の頃と同じように騒然と化すようになる。裕福な階級出身ではない私は当然学費値上げには反対であった。

 どの学部でもそのための組織が結成され、文学部では16日に「学費値上げ阻止文学部説明会」が開かれた。このように日にちが書けるのは私が日記をつけていたからである。日記をもとに当時の動きを時系列順に綴ってみる。

(日記をつけておいてよかった。今つくづくそう思う)

 11月16日(木) 学費値上げ阻止文学部説明会が実施される

 私は出席したが、予想以上に少なく、文学部学生の問題意識の低さに失望した。

 

 11月28日(火)

 我がクラス(F組)でクラス討論会が行われる。多数が無関心か、値上げ賛成。反対は数  えるほど。私、留年仲間のKY君、私を慕っているKH君、そして浦和出身のSM君の4名だけ。SM君をのぞけば、私と親しい者ばかり。

 今年のクラスは昨年と比し、留年者が少ない。裕福な家庭出身者や現役が多い。あまり文学や哲学に関心がなさそう。経済学部や法学部に落ちて文学部に来た者もけっこういた。文学部には珍しく体育系部活に入っている者もいる。塾内出身者も4名いた。おしゃれに人一倍関心がありそうな女子もいた。学生も首都圏出身が多数を占めている。

 だから値上げには無関心か賛成なのか。

 

 11月30日(木)  日吉文学部学生大会が開かれる。参加者約200名。全体の約2割。スト権確立する。

 

 12月1日(金)

 日吉学生大会が開かれる。613番教室が超満員。入りきれない人が続出。信じられない。これほどまでに学生の問題意識が高いのか。私は慶応を見直した。

 すでにストに突入している日吉医学部。つい先日ストに入った四谷医学部。同じくスト権が確立した日吉政商学会。それぞれがアピールを行った。

 続いて昨日自治会が再建された日吉文学部と経済学部のアピールが続いた。

 参加者が予想を超えて増えたので、急遽会場が日吉記念館に変更になった。学生たちは蟻の群れのごとくキャンパスを突っ切って記念館に向かった。驚くことに我がクラスの級友の姿もかなり見られた。

 討論が活発に行われ、夕闇ふける頃、スト権確立の是非を問う投票が行われ、圧倒的多数で採決された。次に、7日までに大衆団交に応じなければ翌日から無期限ストに突入するというストライキ執行部の提案が投票にかけられ、これも採択された。

 また、日吉文学部ストライキ実行委員会の執行部が、文学部の学生に次のことを呼びかけた。

 1) 7日までに各クラスで実行委員を選出すること

 2) 同様に各クラスで討論会を開くこと

(日吉学生大会)

 12月5日(火)

 我がクラスでドイツ語の時間に私が中心になってクラス討論会の開催を要求した。本来ならKY君が行うのだが、その日欠席していた。彼は執行部に入って忙しかった。村田先生から拒否され、授業後に行うことになった。私が司会を行った。クラスの意見はスト反対が多かった。保留がそれに続いた。結局我がクラスでは、値上げ反対の決議が出来なかった。後で知ったのだが、文学部1年のクラスは16あるのだが、決議が出来なかったのは我がクラスだけであった。

 こんな状況なのでクラス代表実行委員の選出が出来なかった。仕方がないので、私とスト賛成派のSM君とで相談し、二人して有志という形で実行委員になった。

 このこともあり、私はSM君と言葉を交わすようになった。彼は浦和出身の一浪で、後で教えてくれたのだが、お父さんが共産党員の労働者で、彼も民青に入っていた。私をオルグしようという気持ちがあったのかもしれないが、けっして自分の政治的立場を押し付けなかった。性格も穏やかだった。家が裕福ではないので、小遣いは家庭教師をして稼いでいた。私と彼との意見の一致は、ゲバ棒や火炎瓶などの過激な暴力で物事を解決する行動には反対という点である。

 

12月6日(水) 

 文学部学部長団交集会に出席。310番教室はすでに満員。学部長は遅れて出席。前半はかなり盛り上がったが、2時過ぎ行き詰まり、最後にはある新左翼セクトが乗っ取ろうとしたため、味気ない結果に終わってしまった。ただ、後日この集会の続きを行うことを学部長に確約させた。

 終了後、我がクラスから参加したSM君、女子学生のIYさんとYZさん、それと執行部入りしたKY君の5人で、クラスの現況や8日に実施予定のドイツ語テストに対する不安を忌憚なく話し合った。

 KY君が、「大学の対応がこのままでは、日吉全学部による8日の午前0時からのストライキは決行すると思う。そのためのバリケード封鎖が明日の午後に予定される。そうなれば8日のテストは出来なくなる」と話すと、彼女たちは安心したのか、スト賛成、テストボイコットを表明した。
 私は彼女たちとこのような形で話すのは始めてである。2人は現役で入学した首都圏出身者で、お嬢さんタイプであったが、実に真面目な学生だった。人を見かけで判断する危険性を改めて感じた。

 

 12月7日(木)

 各部の執行部、実行委員、一般学生によって、教室から机や椅子を持ち出し、キャンパスのいたる所にバリケードを築く。かなりの人数である。300名くらいいたのではないだろうか。中にはヘルメットをかぶった者がいたが、A派のヘルメットではなかった。一般学生の中に、法学部の学生である郷里の小中高の後輩が参加していた。お互いに驚いた。

(出入り出来ないように机が積み上げられている)

 ここまで来た以上、私は慶応退学を覚悟した。ストに突入したので授業は実施されなくなるだろう。普通なら年明けの1月に行われる後期試験はどうなるか分からなくなるだろう。今年もドイツ語と英語の単位を落としたなら即退学である。もし抜き打ちに実施されても対処できるよう家庭学習は怠らないよう決意した。

 

 

 12月11日(月)

 すべての授業が中止になった。今日はドイツ語の授業がある日なので、級友のほとんどが出席して来たので、私とKY君とSM君が中心になってクラス討論会を開いた。

 スト支持派は、実行委員のKY君と私とSM君の3名に、先日の団交に参加した女子のIYさんとYZさん、そして私と仲がよいKH君の6名。

 その他はスト反対派。それ以上に無関心か。ほとんどの学生が意見を述べなかったが、スト反対者の中には自分なりの哲学的立場からスト反対を述べた者が2名いた。1人はKS君で、二浪。私と同じ歳だ。東京出身。ギリシャの哲学者の話を持ち出しながら反対した。彼とはその後、親しくなり今でも交遊が続いている。

 もう1人は一浪の横浜出身のMT君。東大の文学部を落ちて慶応に来たと語っていた。彼も何人かの思想家の話を持ち出しながら、学費値上げには反対だが、そのためのストライキにも反対と述べた。彼はその後美学を専攻し、卒業後某美術館に入り、やがて館長になってテレビの美術番組に出演した。

 二人共、いい言葉を使えば理論的。悪く言うなら、理屈っぽい。しかし自分の意見を言うだけ立派だった。

 しらけた感じの討論会になってしまった。

 

 12月18日(月)

 今日もクラス討論会が開かれた。誰かが感情的にスト反対を述べると、似たような学生が次々と同調した。塾内出身者か首都圏の富裕階級のお坊ちゃまやお嬢ちゃま風の学生ばかり。全員現役。

 経済的に困らず、キャンパスライフを謳歌したい彼らにとってはストライキはいい迷惑なのだ。KS君とMT君を除き、彼らにはがっかり。

 もともと彼らとは接触がなかった。向こうも私のような年上の留年者は目障りらしい。私は見切りをつけた。

 

 12月21日(木)

 今日、新聞の夕刊で、日吉のバリ封が機動隊に守られた職員たちの手によって解除されたことを知る。

 昨日から冬休みに入り、一般学生が通学して来なくなったのを見計らって行ったようだ。

(機動隊に抗議する学生)

 しかし、学生会館に立てこもっていた執行部や熱心な一部の実行委員たちの排除は出来なかった。彼らは引き続き籠城した。KY君もその中に入っていた。

(学生会館の壁。次第にセクトの連中が動き出した)

 

 1973年(昭48年)1月下旬

 例年実施される後期試験が行われなかった。延期されたのである。

 

 この辺りの気持ちについて日記で若干ふれているが、それをまとめれば以下のようになる。

 ・ 私は有志としての実行委員になったが、執行部や実行委員のメンバーに新左翼セクトの活動家やそのシンパが紛れ込んでいたので執行部へ顔を出さなかった。実行委員の集まりにも参加しなかった。籠城にも加わらなかった。顔なじみのA派の活動家の姿は見られなかったが、そのシンパがいたし、他のセクトの活動家らしい人物がいた。セクトの連中との付き合いは徹底的に避けた。

 ・ ストライキは手段なのあって目的ではない。当局が幾分譲歩したり、執行部に処罰を加えないなら、どこかで妥協しなければいけない。武力に走ったり、ストを目的とする方針にはあくまで反対だった。

 ・ この出来事を人生の大問題ととらえ、突き詰めて考えようとはしなかった。それをすれば高野悦子の二の舞になる。値上げ反対運動は自殺を考えるほどの重要な問題ではないと判断した。

 これらの考えを抱くようになった背景には、高校改革運動、浪人時代のデモ経験や友との討論、そして昨年のA派との交流に対する反省がある。

 

  2月中旬

 2月10日の消印で私のアパートに日吉自治会から以下のハガキが届く。たぶんストライキ実行委員会のメンバーに出したのだろう。

  

 

 2月13日(火) 

 日吉全学生大会が再度開かれた。無期限スト賛成が約900、期限スト賛成が約200で、無期限ストの続行が決まる。

 ただ、2か月にわたるスト期間を振り返ると、右翼学生の台頭、当局の自治会要求無視、執行部から民青の実行委員の追放などが見られた。2か月前に比べると弱体化し、なんとか持ちこたえている様子だった。これからどうなるのか。本年度中の3月末までには解決しそうにない。

 三田では前日の12日に行われた三田全学生大会でスト解除が決定した。スト支持派が負けたのである。三田の学生たちは上級生なので、現実的判断を下したのだろう。

 なお、前年の級友のS君や中核シンパのYY君は2年生になっていたので三田に通っていた。二人共ストライキ実行委員になっていた。彼らから三田の様子を聞かされていた。

 

 この時期は例年なら休みである。また、入学試験が行われている時期でもある。したがってサークル活動を行ったり籠城したりしている学生以外、学校に行く必要がなかった。私も 12月下旬から3月末まで学校に行かなかった。私は皿洗いのバイトを続けたり、本を読んだり、友達と会ったりしていた。

 友達との交流の中で印象的な出来事を述べよう。

 まず、慶応を退学したKA君との思い出である。1月に彼からハガキが来た。

 ここで当時の連絡手段について述べよう。当たり前なことだが、当時は携帯電話がなかった。固定電話さえアパートの住人の多くが持っていなかった。大家さんの家に下宿したり、大家さんが隣に住んでいたりするなら、電話で呼び出してもらえたが、それ以外の住人はハガキを用いた。会いたい場合、日時や場所を書いて投函するのである。

 それによると下旬に合コンをやるので遊びに来いという内容である。場所は西武鉄道の豊島園駅。そこに彼の親友のIHさん(男性)が住んでおり、彼のアパートで鍋パーティーが開かれるという。

 IHさんには、婚約者がいた。東京女子医科大学付属病院に勤めている看護師の婚約者がいた。彼女の同僚を合コンに呼んだのである。体よくいえば、IHカップルが、恋人がいない親友KA君のためにこの席を設けたという訳である。私は付録のような存在だった。女性たちは私より年上の社会人なのでしっかりしていた。

 なお、IHさんは小さな出版社に勤め、会社を発展させ、社長にまで上りつめた。婚約者の方は高知県中村市の出身だった。約45年後、私がお遍路で四万十市(旧中村市)を訪れた時、親切でしっかりしていた彼女を思い出した。

 ハガキをよく書いたと述べたが、手紙のやり取りもよく行った。

 この頃、高校時代の運動仲間のNM君と文通を数度行った。彼はその前に上京し、私と再会を果たしていた。それがきっかけで文通が始まったのである。

 

 彼は金沢大学の法文学部に現役で入り、学生運動(主に自治会活動)にまい進した。3年生の時には委員長になった。

 ただ、彼との文通は続かなかった。したがって交流は途絶えたが、彼が卒業後都庁の職員になったという話を同郷の友であるK君から聞かされた。

 それからなんと45年後、彼が突然拙宅を訪問して来た。親類の法事が白河であり、その帰りに君のことを思い出したので、途中下車して来たのだという。

 私は驚いてしまった。約半世紀の時間は二人を変えていた。二人共、白髪交じりの禿げ頭になっていた。コーヒー店での話は盛り上がり、久闊を叙することが出来た。

 

                  ――― 終り ―――