1972年(昭47)の4月、学校が始まった。語学のクラスF組で留年したのは2名だけだった。もう1人はKY君で、彼は塾内進学(慶應志木高)である。浪人してないので私より年は一つ下である。彼も学生運動がらみで留年したのだが、A派ではなく、F派にシンパしていた。昨年度、ほとんど口をきいたことがなかったが、同じ留年組なので言葉を交わすようになった。愛知県蒲郡出身で、実家は小さな工場を経営しているということだった。彼の下宿を訪れたら、ドアの壁にレーニンの肖像画が貼られたり、新左翼の文献やマルクス主義関係の書物が棚に並んでいた。ただ、F派の主張を私に強要しなかったので、表面的な付き合いは出来た。

  クラスには30名くらいおり、自己紹介で分かったのだが、浪人が7、8名おり全員男子だった。中に二浪が1人いた。女子は三分の一くらいいた。塾内進学者が3名いた。

  留年が10名いたり、三浪や二浪もけっこう含まれていた昨年のクラスとは全く違っていた。私は彼らとの間に距離を感じたので、こちらから近づこうとはしなかった。彼らも私に同じ感じを抱いていたように思う。 昨年度、幾つかの科目の単位は取っているので、語学さえ落とさなければ進級は可能のように思えた。そのため、語学などの重要科目が行われる日にだけ日吉に通った。

  キャンパスで変化が起きていた。新左翼の活動家たちのアジ演説を一般学生のほとんどが無視した。一般学生との討論の輪も見られなくなった。活動家たちの数が少なくなり、彼らが浮いたような存在になっていることは明らかだった。やはり、2月に起こった連合赤軍によるあさま山荘事件やリンチ殺人事件の影響だろう。これにより学生の多くは新左翼に幻滅したのだと思われる。

 

(様子を伝える当時の新聞)

 

  キャンパス生活は面白くなかったが、アパート生活は楽しかった。まずA派からの電話攻勢がなくなったことが私の気分を楽にさせた。次に、光が差し、四畳半の広さが私を満足させた。新しい設備がないことや古い木造であることは気にならなかった。私は元々贅沢ではない。実家では自分の部屋もなかった。だから、この条件でもうれしいのだ。

  このアパートに結局3年間住むことになるのだが、今振り返ると、この3年間が我が青春の黄金時代だったといえる。

 住所は「目黒区鷹番2丁目18ー25 泉荘 2階5号室」 学芸大学駅前東口商店街に近い。駅から商店街を100mほど行くと、四つ角がある。その一角にスーパー(確かピーコックストアだったと思うが、現在ホットヨガのビルになっている)があり、その十字路を右に折れ、また100mほど進むと十字路があった。その角に私のアパートは建っていた。アパートは今はなく、パン屋さんになっている。玄関の向かい側に道路をはさんで「鷹番精米店」(現在もある)があった。

 この場所から良き思い出がたくさん生まれた。

 

  私のアパートは1階と2階とに分かれ、1階は普通の住居構造なので中年夫婦と老母との3人家族が住んでいた。

  共用の玄関で靴を脱ぐと、目の前にある階段を上がる。上がりきると、広い空間があり、階段横に共用便所(トイレという名は当てはまらない)が2つ並んでいた。ぽっとん(汲み取り)式である。窓に面しはて広い流し台が伸び、蛇口が3つ並んでいた。住人はここで洗面したり、洗濯をしたり、部屋で沸かす水を汲んだ。部屋に炊事台やガス設備がないので汲んだ水は電気ポットで沸かした。

  それぞれ大型たらいと洗濯板を有し、このたらいに水をため、洗濯物と粉洗剤をぶちこんでおく。数日後汚れが落ちたのを見計らって板で洗うのである。したがって6人いる住人のいずれかのたらいが流し台やその下に必ず置かれていた。大型たらいが使える広い流し台は便利だと思った。

 今からでは想像がつかないが、この頃はまだこのような共用式アパートが多かったのである。

 広い空間からこれまた広い廊下が伸び、左右に部屋が3室ずつが並んでいた。私の部屋は奥の右側にあった。角部屋である。住人は男性の単身者ばかりで、勤め人が4人、学生は私を含め二人だった。

(イメージ写真:壁面が板で覆われているところが似ている)

  この中で2人の勤め人と知り合いになった。1人はSOさんといい、私の向かい側の部屋に住んでいた。引っ越したばかりの私をいきなり訪ねて来た時には驚いた。群馬県出身の床屋で、年は七歳上。いつも笑顔の人懐こい方で東口商店街の入り口近くの床屋に勤めていた。彼には、彼が引っ越すまでの一年半、親しく交遊させていただいた。

学芸大学の創作居酒屋で、大学卒業後の起業を目指す看板娘の志が高かった|OCEANS オーシャンズウェブ  (右の不動産屋の先にある書店でバイトをした。SOさんが勤めていた床屋さんは書店の斜め前にあった。ただし今はない)

  その間、私の部屋で数度髪を刈ってくれた。「髪が伸びたなあ。切ってやるから」と、私の長髪をただで散髪してくれたのである。また、自由が丘でとんかつをおごってもらったこともある。私は始めてとんかつ専門店でとんかつを食べた。普段スーパーで買うとんかつや大衆食堂で食べるとんかつと全く違う美味しさに衝撃を受けた。

  さらに、その年の夏に海水浴へ連れてってくれた。場所は三浦海岸。水は汚なかったけれど、都会に近い海水浴場を始めて味わえた。茨城と違い、ビキニ姿の美女が多いことに目を見張った。

(昭和の頃の三浦海岸。私が行った時はこんなに人はいなかった)

  もう1人いた。HKさんといい、羽田国際空港で機内食を作っているコックさんだった。五、六歳年上の茨城県出身の方で、茨城訛りが強かった。茨城訛りは栃木訛りに似ているので私の同郷の人と話をしているような気がした。

  始めて言葉を交わした時、私の郷里の西那須野町に行ったことがあると彼が語ったのには驚いた。五年前、当時勤めていたレストランの職員旅行で那須温泉に行った。そこのホテルで宿泊客のある女性と知り合いになった。彼女が西那須野町在住だったので、後日わざわざ東京から彼女の家を訪れたという。だが、この恋は失敗に終わったそうだ。そんな訳により彼も私を好いてくれた。

  彼は、茨城の土浦に恋人がいて、一か月に一度彼の部屋に泊まりに来ていた。来年あたり結婚する予定だと話した。

  彼は月に二度ほど私の部屋におしゃべりに来た。その度に菓子を持って来てくれた。

  このような交流が出来たことはつくづくよかったと思っている。彼らは人情味にあふれていた。実社会で生きている彼らの話はプラスになることが多かった。

 

  次に、いきつけの食堂の幾つかを紹介しよう。

  祐天寺方面に向かう東横線の高架線のそばに「すもり」という小さな食堂があった。安くてうまいのでにいつもにぎわっていた。中でも「くじらステーキ定食」の味は忘れられない。経営者が考案したらしいタレは実に絶品だった。

             (イメージ写真:本物もこれに近い)

  続いて駅東口近くの小さなキッチンである。おばさんが1人で開いている店で名は忘れた。ここのオムレツ定食もおいしかった。ここで生まれて始めてオムレツを食べた。

     (イメージ写真:本物にかかっているのはデミグラスソースではなくケッチャプだった)

  最後は「鷹番食堂」である。この店は東口商店街にあった。魚類を食べたい時はこの店を利用した。ここでの思い出の味は「カキフライ定食」である。

  これら3つの店は今はない。

  続いて銭湯である。当時部屋に風呂がついているアパートはほとんどなかった。アパート暮らしの住人の多くは銭湯を利用した。3年間のうち最初の1年は「千代の湯」という商店街に近い銭湯に通った。なんとこの銭湯は今でもある。

  ある時、もう一つの銭湯を発見した。「鶴乃湯」という銭湯である。ただし今はない。都立大学駅方面にあり、「千代の湯」より遠かったが、浴場及び脱衣場が広かった。それ以来この湯を愛用するようになった。

(当時は自動販売機がなかった)

  私はコーヒーが好きである。あの頃、コーヒーを飲みながらタバコをくゆらすことに幸せを感じていた。部屋で飲むのはもっぱらインスタントなので、本物のコーヒーは喫茶店で飲んだ。

  当時、駅西口の前に「モンタン」という喫茶店があった。ここのコーヒーは100円だった。他は130円から150円である。その上モーニングサービスの時間にはトーストが1枚とゆで卵がつく。格安なので一時通い詰めた。コーヒーを口に運びながら、各種の新聞に目を通した。人が働いている時間に私は優雅にコーヒーを飲んでいる。そう思うと同世代の勤労者に申し訳ないと思った。

  その他、東口近くにあった「静樹」にもよく行った。どちらも2年以内に閉店になってしまった。

(西口商店街入口。左側の角の「Little Marmaid」の所に「モンタン」はあった。当時はビルでなかった)

  懐かしい店として東口商店街の「飯島書店」という古書店も挙げられよう。たった1軒の古本屋だった。この店で買ったり、売ったりしたので店主とはやがて顔なじみになった。現在も存続しているのはうれしい限りである。

(当時小学生の息子さんがいた。その方が現在の店主かもしれない)

   他に忘れられない出来事として、ある女の子が挙げられる。ピーコックストアから我がアパートまでの道に店舗が八畳ほどの小さな八百屋兼果物屋があった。そこに美人の高校生の娘がいてよく家を手伝っていた。明るい性格で、その声が通りにまでこだました。「鷹番小町」のような存在だった。私は彼女に憧れた。ただの片思いである。

  彼女は翌年卒業すると、社会人になった。家はそんなに裕福そうには見えない。それで進学しなかったのだろうかと推測した。紅を口につけて出勤する彼女を見て、社会に出ると、女の人は娘というさなぎから女性という蝶に変化するのだなあと勝手に考えた。

 

 私は家計の都合で引っ越してからすぐにバイトを始めた。場所は東口商店街の入り口付近にある書店(恭文堂)である。一日5時間。夕方から閉店まで。約一か月半勤めた。内容は販売と棚卸や返品の作業だった。

  父は当初仕送りはしないと言っていた。私は自活するつもりでいた。しかし母親の父親への説得で、今まで同様2万5千円が現金書留で送られてきた。

  5月からは新しいバイトに移った。場所は自由が丘の料亭「大島屋」(今はない)。銀座や赤坂ほどではないが、自由が丘近辺では高級な部類に属していた。

                (この通りの左奥にかつてあった)

  仕事内容は下足番。客の靴を預かり、帰る際に出す係である。時給250円。原則夕方5時から10時まで。夕食つき。時給がよく、仕事が楽だった。靴をあずかれば、帰るまで時間がある。私は玄関横に設けられた番台に座っていればよかった。その間に多少本が読めた。また、たまにではあるが、チップさえもらえた。ずいぶんお得なバイトだと思った。

(イメージ写真:このような感じで一人で行った)

  和服姿の仲居が常時10名くらいいた。座興に大島のあんこ踊りを披露する若い女の子もいた。経営者夫婦が大島の出身だからである。

 このバイトで忘れられないのは、有名人が時々現れたことである。歌手の村田英雄一家は常連客だった。大関の清国も現れた。清国関からは1000円札のチップをもらった。

(当時の1000円札。清国関さん、ありがとう)

  その結果、ここでのバイトは月に3万5千円以上になった。家からの仕送りと合わせれば、月に6万を越した。当時としては破格の待遇になった。その結果、フォークギターが買え、夏休みの北海道旅行の費用をまかなえた。

(イメージ写真:買ったのはMorrisのギター。手ごろな値段。神田の楽器店で)

 

  映画もよく見た。名画座と呼ばれる2番館、3番館に足を運んだ。気に入った曲のLPレコードも購入した。これら映画の思い出は別のブログで詳しく述べよう。

  それでも余裕があった。しかし、必要以上のお金を持つようになると、人は堕落する。私はパチンコにはまってしまい、稼いだ金を散財した。当時はまだレバーで一発ずつ打つやりかたで、チューリップと呼ばれる受け口に入ると、玉がどんどん出て来た。

 (イメージ写真:学芸大学駅前や渋谷駅近くのパチンコ屋によく行った)

 

 ここで友人についてふれよう。

 郷里の友人では、昨年同様、G君とK君と付き合った。G君は春にお花茶屋から杉並に引っ越した。なんと新高円寺にいたK君の近くに住んで、最寄りの新聞店に勤めた。当然G君とK君は親密になった。G君の部屋に集まり、3人でよく酒を飲み、語り合った。

(地下鉄の入口は1970年代から変わっていない)

  昨年のクラスの友人では、S君との仲が深まった。彼は夏に家を出て、学芸大学駅近くの下宿に引っ越して来たのである。その下宿には哲学研究会(略称:哲研)で一緒だった0H君が先に入っていた。私はS君を通し、OH君とも親しくなった。

 ただ、残念なことがあった。昨年のクラスで一緒だったKA君が慶応を退学になったのである。またもやドイツ語の単位を落としたのである。私はその事実に驚愕した。もし私が今年落としたら、KA君と同じように来春退学になる。ドイツ語の勉強をさぼってはいけない。私はそう自分に言い聞かせた。

 彼から教わったのだが、1年で辞めることは中退に入らないらしい。私は彼に兄事していただけに彼がいなくなったことは痛恨の極みだった。

 弟さんが上京して来たので、彼は二人で住める広さの部屋を求めてやがて中野区の沼袋に引っ越した。バイトをしながら、正職を探すと語った。

 

 大島屋には夏休み前まで勤め、8月に入ると、私は念願の北海道旅行に旅立った。この旅は私を変えた。その思い出については、「青春の旅シリーズ」のブログで後で語る予定である。

 夏休み終了までの5か月間、昨年とは打って変わり、日々を楽しむ気ままな生活を送っていた。そのせいで昨年度に較べあまり本を読まなかった。

 忙しかった楽しい夏休みが終わると、私は幾分感傷的になった。9月下旬に行われた前期試験もなんとか乗り切った。バイトで貯めた金が底を付いて来たので、質屋に行った。また、本を売ったりした。

 

※ 続く。