なぜ働いていると本が読めなくなるのか➁ | ふーちゃんのブログ

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こんばんわニコニコ

 

 

 

雨が降らなかったので、

半日草取りに勤しみました。

草ってホントお元気ですよねぇ~。

午後から見守り支援会議へ。

みなさん忙しい中多くの人が参加されて

元気と勇気をいただきました。

 

 

 

 

いちじく

 

 

 

 

のつづきです。

 

 

 

読書は人生の「ノイズ」なのか?ーー2010年代

ベル本を早送りで読む人たち?

2020年代初頭現在、

「速読法」や「仕事に役立つ読書法」を指南する本が

人気を博している。

本を読む人たちのなかでも、

読書を「娯楽」ではなく処理すべき「情報」として

楽しむ人が増えていると指摘したのは稲田豊史

『映画を早送りで見る人たちーファスト映画・ネタばれー

コンテンツ消費の現在形』だった。

 

 

稲田は現代人の映画鑑賞について、

以下のような区分が存在すると述べる。

 

 

芸術ーー鑑賞物ーー鑑賞モード

娯楽ーー消費物ーー情報収集モード

 

稲田の思想に沿わせるとするならば、

読書もまた同様に以下のように区分できる。

 

 

①読書ーーノイズ込みの知を得る

 

➁情報ーーノイズ抜きの知を得る

 

(※ノイズ=歴史や他作品の文脈・想定していない展開)

 

 

近年増えている「速読法」や「仕事に役立つ読書法」が示す「読書」とは、

後者の➁「情報」をいかに得るか、

という点に集約される。

労働に必要な情報を得るには、速く、役立つ方がいいからだ。

 

 

一方、働いている人にとって、

ノイズは邪魔でしかない。

だとすれば、読書は今後ノイズとされていくしかないのだろうか?

 

 

 

ベル自分と関係がない情報、という「ノイズ」

『映画を早送りで観る人たち』と同年に出版された

レジ―『ファスト教養』は、

「仕事の役立つ教養」という切り口で

教養を速く手軽に伝える人々の存在を「ファスト教養」

という言葉で定義する。

ファスト教養は、まさに〈ノイズを除去した情報〉としての

教養のことだ。

 

 

『ファスト教養』のなかに、

起業家・投資家の田端信太郎のものがある。

 

 

田端のところに採用試験を受けに来たある若者が、

少し前に流行った音楽ユニット、

フリッパーズ・ギターを知っていた。

田端はそんな若者に好感を持ち、採用を決めたという。

そしてこの結果から田端は「一般教養が重要」という教訓を導く。

 

 

ここで注目したいのは、

田端が挙げる「教養」とは、

現代で流行していない=現代の流行の文脈をさかのぼった

ところにある情報だということだ。

 

 

「過去」というノイズが存在しているにもかかわらず、

彼はフリッパーズの情報にたどりついた。

フリッパーズをとおして、大げさに言えば、

他者の文脈ーーおじさん世代に流行した音楽という文脈

ーーに触れたのだ。

これはまさに教養だ。

教養とは、本質的には、

自分から離れたところにあるものに触れることなのだから。

 

 

今の自分にはないノイズに、世界はあふれている。

その気になれば、入り口は何であれ、

今の自分にはノイズになってしまうようなーー

他者の文脈に触れることは、生きていればいくらでもあるのだ。

 

 

大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。

仕事のノイズになるような知識を、

あえて思い出し、受け入れること。

それこそが、

私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

「全身全霊」をやめませんか

ベル強制されていないのに、自分で自分を搾取する「疲労社会」

企業が長時間労働を強制するのをやめれば、

私たちは「働きながら本が読める社会」

をつくることができるのだろうか?

実は、問題はそう単純ではない。

 

 

ドイツ在住の哲学者であるビョンチョル・ハンは

『疲労社会』でこの問題について議論を重ねている。

ハンによると、19~20世紀においては

「企業や政府といった組織から押し付けられた規律や

命令によって、人々が支配されてしまうこと」

が問題とされていたが、

現代の問題はそこにはない。

21世紀を生きる私たちにとっての問題は、

新自由主義社会の能力主義が植えつけた、

「もっとできるという名の、自己に内面化した肯定によって、

人々が疲弊してしまうこと」なのだ。

 

 

要するに21世紀において、

現代において私たちが戦う理由は、

自分が望むからに他ならない。

自分から「もっとできる」「もっとがんばれる」

と頑張りすぎて疲れてしまうのだ。

 

 

 

ベル「半身社会」こそが新時代である

「全身全霊」(全身のコミットメント)をやめ、

半身のコミットメントを理想とするーー。

私たちがこうした姿勢を持つことが

「働きながら本を読める社会」をつくるだろう。

 

もちろん、人生のある時期において、

何かに全身全霊を傾けたほうがいいタイミングは存在する。

しかしそれはあくまで一時期のことでいいはずだ。

ずっと全身全霊でいたら、

いつまで経っても「疲労社会」から抜け出すことはできない。

 

 

私たちはそろそろ「半身」の働き方を当然とすべきではないか。

働き方だけではない。

さまざまな分野において、「半身」を取り入れるべきだ。

本を読むことだって、半身の取り組みでいい。

 

 

もはや「全身」は過去のもの。

「働きながら本を読める社会」をつくるために、

半身で働こう。

それが可能な社会にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分から遠く離れた文脈に触れること・・・それが読書。

そして、本が読めない状況とは、

新しい文脈をつくる余裕がない・・・、ということ。

自分から離れたところにある文脈をノイズだと思ってしまい、

自分に関係のある情報ばかりを求めてしまう。

 

だから働いていると本が読めない。

納得。

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

 

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