ユニクロ➁ | ふーちゃんのブログ

ふーちゃんのブログ

ご訪問ありがとうございます。
私のブログは、離れて暮らす子どもたちと孫たちに向けて書いています。

こんばんわニコニコ

 

 

 

強風ときどき突風のなか、草抜きをしました。

風を回避できる場所を選んで。

10数年前に夫が買って小さくなったから(夫が太った)と

おさがりでもらったヤッケ。

これがユニクロです。

全然劣化しませんでしたが、

マジックテープあたりが痛んできたので野良仕事用にしています。

このユニクロのヤッケが今日の風よけにはベストでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

のつづきです。

 

 

 

鉱脈と衝突

ベルユニクロ1号店の朝

新しい店のコンセプトはユニーク・クロージング・ウェアハウスだ。

柳井が例に挙げたのは、

アメリカの視察で見た大学生協のような店である。

書店のように商品が置かれているだけ。

ウリは豊富な品揃えと安さ。

お客は欲しい商品を自分で買い求めていく。

そんなコンセプトをめざしたユニクロ1号店は、

1984年6月2日、広島の繁華街にてオープンの朝を迎えた。

 

 

 

驚くことに、

入場制限をしないと店がパンクするほどお客が殺到したのである。

普段は淡々と話す柳井も、

この時ばかりは興奮を隠せなかった。

ある日朝礼で社員にこう語りかけた。

「みんな、僕たちは、金の金脈をつかんだんだぞ」

 

 

ただし、繁華街の立地ではヤンキーのたまり場のようになってしまう。

そこで柳井は郊外で勝負しようと考え、

郊外の幹線道路沿いに店をオープンさせていくことになる。

 

 

 

ベル製造小売業(SPA)との出合い

大衆受けする服を大量に買い付けて、大量に売る。

こうしたファストファッションのビジネスモデルに、

柳井は限界を感じとっていた。

これでは小売店側は、

売り切れるものを確保するという受け身の姿勢になり、

ずるずると値下がりをくり返す安値競争に陥りがちだ。

どうすれば負の連鎖を断ち切れるのか。

1986年、柳井はそのヒントを求めて香港に渡った。

 

 

目を見張ったのは、ジョルダーノというお店で売られていた

1枚のポロシャツだ。

自分たちよりもずっと安い値段で売られている。

それが可能なのは、服のデザインを自ら手掛け、

工場から直接仕入れていたからだ。

圧倒的な安値を実現することで、小売り側が商品開発の主導権を握る。

このビジネスモデルこそ、製造小売業(SPA)と呼ばれるものだ。

 

 

柳井は、カジュアルウエアの倉庫から

本格的なSPAへの転換を決意する。

吹けば飛ぶような規模の中小企業が、

海外の生産能力を味方につけた国際分業体制を築き上げようと

決めた瞬間だった。

 

 

 

ベル僕は行き先を決めた

1991年、柳井は社名を小郡商事からファーストリテイリングに変更した。

思い描いたのは、マクドナルドのように高度にシステム化された、

本格的なユニクロの全国チェーン展開である。

毎年30店ずつ新しい出店をし、

3年後には株式の公開をめざすというのだ。

 

 

この計画を実現するためには、

まとまった額の出店資金が必要となり、

銀行からの借り入れに頼ることになる。

もし成長が止まれば、店を作った分だけ巨大な借金が残ってしまう。

立ち止まることが許されないレースにおける出口はただ一つ。

上場によって資金を市場から調達することだ。

 

 

なぜ柳井は、こんな危険を冒してまで無謀な急拡大を求めたのか。

一つは、早くに寡占状態をつくるという戦略があった。

一方で、柳井はこう語った。

 

 

「僕は行き先を決めた。

それは世界一になることです」。

その後、フリースという画期的な商品を武器に、

東京進出を大成功させたことで、

柳井は日本を代表するファッション企業の座をつかんだ。

それから海外に打って出るまでに3年。

ロンドンで一気に4店舗オープンさせ、

中国、アメリカと一気に進出。

現実の延長線上にゴールを置いてはいけない。

ここからユニクロは異次元の成長軌道を描き始める。

 

 

 

とはいえ、周囲がすぐに柳井に理解を示したわけではない。

メインバンクとの確執を経て、

94年7月14日、ファーストリテイリングは広島証券取引所への上場を迎えた。

99年、東証一部への上場を果たした5日後、

柳井の父・等は息を引きとった。

等が息子に全権を託してからも息子をずっと気にかけていたことは、

柳井を支えてきた浦だけが知っていた。

 

 

 

 

飛躍と挫折

ベルABC改革

伊藤忠で小売業参入を呼びかけるも叶わず、

会社を飛び出した男がいる。

後にファミリーマート社長などを歴任する澤田貴司だ。

彼が柳井の新たな右腕となった1998年、

ユニクロではABC改革が始まった。

ABCは「オール・ベター・チェンジ」の略で、

「すべてをよりよく変える」という意味だ。

 

 

柳井は社内の大企業病を打ち破り、

自ら「ほとんど失敗する」と見越したビジネスモデルをつくりあげる。

そして、「売れる服をいかにつくるか」を掲げ、

「売れる理由を売り場で表現せよ」と語った。

 

 

この発想の転換を体現するメガヒット商品は、

1900円という常識破りの価格を実現したフリースだ。

そこにはノンエイジ・ユニセックスの価値観が表現されていた。

澤田が原宿店で仕掛けたフリースのキャンペーンが

空前のブームを生み出し、

ユニクロの第二幕が切って落とされた。

 

 

 

 

ベル新たな才能と去りゆく老兵

この頃、澤田やその弟分であり澤田にスカウトされた

玉塚元一といった新時代のユニクロを象徴する存在が、

メディアからも注目されるようになった。

ユニクロの快進撃を支えたのは、

ジョン・ジェイというクリエイターの存在だ。

彼のもとで生まれた新しいユニクロを伝えるCMは

たちまち話題となる。

「ユニクロとは何か」という自己定義を全国に伝えることに成功したのだ。

 

 

こうして新しい才能が柳井のもとに集うなか、

柳井を支え続けてきた忠臣たちがユニクロを去っていった。

 

 

 

ベルロンドン進出と撤退、迷走した禅譲劇

新しいユニクロの舞台裏はまさに火事場そのものだった。

現場が疲弊していく2000年前半のある日、

柳井が打ち出したのが、ロンドン進出だった。

世界で戦うなら、ファッションの本場であるニューヨークかパリ、

ロンドンと決めていたという。

 

 

目標は3年で50店舗。

だが、この計画はすぐに破綻してしまう。

思ったようにお客が来てくれないのだ。

オープンから1年以上が過ぎた頃、

イギリス国内に21店まで膨らんだ店舗網を整理することを決めた。

イギリスでの撤退戦は、

ユニクロが初めて経験する本格的な後退だった。

 

 

時を同じくして、日本にも退潮ムードが広がっていく。

ユニクロだとバレてしまう「ユニバレ」という言葉が巷で使われ始めた。

 

 

柳井の叱責の矢面に立たされたのが副社長の澤田だ。

一方で、柳井は澤田に2度目の社長打診を行っていた。

澤田は立て直せる自信が持てず、かわりに玉塚を後任にすすめた。

ユニクロは玉塚を社長に据えて再出発する。

 

 

ところが、玉塚体制でのユニクロ改革は、

柳井の目には「安定成長志向」と映り、柳井は満足できなかった。

海外展開第2弾として、

2002年に中国の上海に2店舗を同時オープンさせたが、

うまくいかず玉塚体制に暗い影を落とした。

この頃、東レとの戦略的提携ができ、

ヒートテックという新たな武器ができつつあった。

しかし、柳井はユニクロを世界で戦える会社に脱皮させたい思いで、

2005年に玉塚を更迭した。

 

 

 

 

ベル小さな突破口と「ブラック企業」批判

ユニクロ世界進出の巻き返しの一歩となったのが、

潘寧が率いた香港での出店である。

その後潘寧は中国事業全体のトップに抜擢された。

中国の上海でも、2006年には売り場の面積を広げ、

「日本のユニクロ」そのものをつくりあげていった。

結果は、店に入りきらない人の列を見れば一目瞭然だった。

 

 

柳井はブランドのショーケースといえる旗艦店戦略に活路を見出し、

世界中で試そうとする。

ここからニューヨークに出店し、

ユニクロを世界に広げる戦いが激しさを増していった。

 

 

一方で、2010年頃には、ユニクロ式のチェーン展開に

矛盾が見え始める。

ユニクロの労務問題がやり玉に挙げられ、

「名ばかり店長」が批判の的となった。

同時に、海外の委託先工場でも、

過酷な労働環境が明らかになっていく。

こうした矛盾に向き合いながらも、

柳井は悲願の北米再建、情報製造小売業への進化に挑んでいく。

 

 

 

つづきは本書でどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナ発生が落ち着いたので面会が解除され、

久しぶりにおばあちゃんに会いに行けました。

ロビーでなごやかに喫茶コーナーが設けられ、

比較的元気な利用者さんの様子に心が和みました。

私たちにもケーキとひき立てのコーヒーが振る舞われ、

ご相伴に預かりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

ユニクロが提唱する「LifeWear」という新しい産業革命。

世界にどんな価値をもたらすのでしょうか。

近くにないのですっかり遠ざかっています。

津山市へ行ったときに立ち寄ってみたいと思います。

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな幸せのある暮らしへ
にほんブログ村