ユニクロ | ふーちゃんのブログ

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こんばんわひらめき
 
 
 
今日はC子ちゃんの支援日。
今月から1人部屋になったので自分の静かな世界にひたれ、
ものすごく元気になっていたので嬉しかったです。
子どもであれ、高齢者であれ、
いくつになっても人間関係が人生を左右しますよね。
 
 
 
 
 
 

 
 
 

 

杉本貴司著ー2024年4月発行ー。

 

 

山口県宇部市にある宇部中央銀天街。

1970年代は賑わっていた商店街は、

衰退の一途をたどっていった。

今ではZARAやH&Mと肩を並べ、

世界的なアパレル企業として君臨するユニクロ。

その原点である小郡商事という紳士服店は、

たしかにこの寂びれた商店街に存在した。

 

稀代の経営者である柳井正氏は、

内気で無気力な青年だったという。

父の後を継ぎ「ユニクロ」という金の鉱脈をつかむまで、

知られざる暗黒時代を過ごしていた。

そんな柳井氏のもとで、どうやってユニクロは生まれたのか。

その謎をひもといていく。

 

 

 

 

無気力な青年はなぜ覚醒したのか

ベル親子の確執

柳井正の父である柳井等が小郡商事を設立したのは

1949年のこと。

宇部中央銀天街の紳士服店は、

典型的な家族経営の零細企業である。

等は昔ながらの親分気質で、気性が荒かった。

 

 

「何でもいいから一番になれ」。

柳井は父からの期待とも抑圧ともいえる重圧の中で育ち、

逃げ道を求めるように受験勉強に打ち込んだ。

そうして手に入れたのが、早稲田大学政治経済学部への切符だった。

 

 

だが、柳井少年が旅立った東京は期待とは違っていた。

学生運動に熱狂する同世代の若者たちに違和感を抱き、

大学から足が遠ざかってしまう。

どこまでも無気力で、

たまにジャズ喫茶やパチンコ店にぶらりと出かけていく。

そんな柳井は、下宿先の大家さんに

「寝太郎」というあだ名がつけられるほどだった。

 
 
 
 
ベルニート生活の終焉
柳井は、自由の国アメリカへの憧れから世界一周旅行をしたが、
打ち込めるものを見つけられなかった。
就職活動ではことごとく落選。
見かねた父の斡旋でジャスコに入社した。
1971年、ジャスコ本店のあった三重県四日市市へ。
雑貨売り場を経て、紳士服売り場に配属された。
 
 
ところが、柳井はわずか9カ月でジャスコを辞めてしまう。
23歳の柳井は結婚を考え始め、
ついに宇部商店街の紳士服店を継ぐことを決めた。
 
 
この頃、宇部の経済を支えてきた石炭産業は夕暮れ時を迎えていた。
銀天街もやがて衰退の道をたどるだろう。
そのままでいいのか。
ここから這い上がるにはどうすればいいのか。
 
 
お気楽なニート生活をやめた柳井の中で、
火が灯りはじめた。
そんな柳井を待っていたのは、大きな挫折だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
暗黒時代
ベル去り行く社員、託された通帳
柳井は、自分が生まれた頃と同じような商売のやり方をしている
小郡商事の現場に不満を漏らした。
当時の小郡商事は年商約1億円。
利益はいつもカツカツ。
このままでは先の展望はない。
 
 
柳井が小郡商事に入社してわすか半年で、
父を支えていた古参社員たちが一人また一人と去っていった。
「やっぱり俺には商売には向いていないのか」。
残った社員は柳井の4歳上の浦利治のみだった。
柳井と浦はふたりで再スタートを切ることとなる。
 
 
これだけ人心が離れて行くと自信はなくなっていく。
とはいえ、胸の内を明かせる人もいない。
柳井は夜になると自室の静寂の中で自己分析を始めた。
さらには、仕事の詳細なマニュアルを作成し、
日々の商売を「見える化」した。
こうした地道な作業を経て、小郡商事の業績は持ち直していった。
 
 
あるとき、柳井は父の等から銀行の預金通帳と印鑑を差し出された。
「これからは会社のことは全部お前がやれ」。
通帳は店の出納管理に使うものだけでなく、
等個人のものも含まれていた。
 
 
「ええか。失敗するんやったら俺が生きているうちにせえよ」。
それは親分肌の父らしい表現での禅譲だった。
 
 
 
ベル世界の叡智との会話
柳井正の凄みはどこにあるのか。
経営者としての軌跡を追うと、
それはユニクロというビジネスモデルを発見し、
さらにそれを後に「LifeWear」と呼ぶ新しい産業の形にまで
高めていく姿に見出せるだろう。
 
 
一方で、まったく結果が出ず、解なき問いと向き合いつづけた
この「暗黒の10年間」に、
柳井正の凄みが凝縮されているという見方もできる。
柳井は「今後10年間の経営方針!!」と題して、
「家業から企業への転換」「科学的経営の確立」と書き記した。
 
 
宇部の商店街は、アパレル業界の中心地とは遠く離れている。
柳井は、情報弱者の弱点を自分の足で補うとともに、
世界の叡智と会話ができる本にもヒントを求めた。
 
 
書物を通じてとくに影響を受けた人物には、
松下幸之助、本田宗一郎、ドラッカーがいる。
マクドナルド創業者のレイ・クロックからは、
ユニクロへの転換するヒントを得た。
そこから行き着いたのが、
誰でも気軽に好きな服を選べる巨大な倉庫というコンセプトだ。
「勇敢に、誰よりも速く、人と違ったことを」。
レイ・クロックの言葉を実践した柳井は、
「金の鉱脈」と呼んだユニクロの発明に至るのだ。
 
 
 
つづく・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
柳井氏とユニクロの物語は、
足し算と引き算の積み重ねだとか。
坂道を登っては時折転げ落ちる。
そしてまた坂道を登っていく。
 
ユニクロは国内外で存在感を高めながらも、
社会から糾弾されるような矛盾と直面してきました。
その引き算からどう這い上がってきたのか。
 
 
 
その辺は、また明日^^
 
 
 
 
 

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