お時間ある時↑↑
こちらもお読み下さい。
私は当時抜毛症という言葉は知っておりました。
心身のストレスからくるものくらいは。
けれども、義両親、夫は初めて聞く名前で
まさか、ストレスが原因なんて
全く信じませんでした
1番考えられるのは歳の離れた妹ができたこと。
それまでは息子が家族のだれからも気にかけてもらえたわけで。
けれども、義両親にとって初めての女の子の孫。
夫と義弟の男しか育ててない義両親は
嬉しくてたまらない。
またこれが生まれた時義母にそっくりで
息子も「おばあちゃんに似てる‼️」
と言ったくらい(笑)
義母→夫に似てますから。
ちなみに息子さんわたしに似ております
息子は子供心にみんなの愛情が
この小さい赤ちゃんに注がれてるのはわかったのでしょうね。
また、臨月に入ったときにも
幼稚園に行き渋りが始まりました
50代になった今のわたしなら
上の子を優先するというのがわかるんだけど
当時の私はなかなかそれができなかったのが現実。
義両親だけが責められるものではないと思います
月一回のカウンセリングは夜でしたので、
娘を夫、義両親に預けていきました。
カウンセリングの前に息子と夕飯を食べるのが
2人の楽しみでもありました
帽子をかぶっていた息子ですが、床屋さんで
だましだまし切ってたけれどあるときに
床屋さんのご主人が
「隠せるようになってないからこれより思い切ってスポーツガリにしたほうが見栄えもいいし
何より髪の毛を触ることもないよ」
と言いました。
息子も同意してバリカンで。
すると、ほとんどの髪が抜けていて
びっくりするのと同時に
こんな風になるまで息子は辛かったんだな
と申し訳ない気持ちになりました。
またママ友とランチをしていても
ママ友は楽しく子供の学校の様子を話すけれど私は息子の事を楽しくはなせる余裕もなく
息子の様子を聞かれるのではないか?と
そんな思いもあり、ママ友達とランチするのも
憂鬱でした。
また、小さい娘を連れてのランチは大変でしたから
担任の先生は若くてとてもいい先生で
教室の中でも帽子をかぶってもいいと言ってくれました
そして、それにあたりクラスの友達にも
上手に説明してくれました。
そんな中、遠方の私の実家に帰省する時になりましたが
私は息子のことをなんて言われるのだろう
とそれが気がかりでした。
いざ帰省すると
帽子をとったラグビーボール🏈のようになった
息子をみて
母や姉は何もいわず普通に接してくれました
(甥っ子、姪っ子たちも)
そして、すこし息子の様子を大人だけになったときにはなすと
母は
「○○(息子)は気持ちが優しいんだよね」
と。
私は母が、びっくりしてなんでこんななったの?
何が原因なの?と
義母のように言われるのを覚悟して帰省しましたが
母の一言を聞いて
やっぱり血のつながった私の母なんだと
思いました
責められたら帰省してる間も私は居心地が悪かったでしょうし、
もしかしたら
私がいない時には姉たちと母は
心配だわと話してはいたかもしれませんが
前の日記で息子が入院したことも書きましたが
人は境地にたたされた時に
発する言葉、言動でくっきりと分かれるんだと感じております。
1番ピークは眉毛も抜いており帽子をかぶってる時はそこまでないけれどとったら顔の表情がとてもきつかったですね。
1年生から5年生までの子育ての記憶が正直
うすく、また可愛いさかりだった娘の子育ても楽しかったよりも辛かった思いのほうが強いです
幸い髪が5年生で生えてきて落ち着いてきました。
カウンセリングの先生には
今後受験の時などにまた発症するかもと言われましたが大丈夫でした。
数年たった時に義母が
ラジオで抜毛症のことをやっていたと。
それで髪を抜く行為は本当のことなのねと
言われた時は、そんなものよねと思いました
そして、抜毛症が落ち着いたと思った時に
前のブログで書いた急性腎盂炎になったのです。
なので息子の小学生時代は息子ももちろんですが
私も辛かったですね
私はこの経験をとおして
私のように自分の意見をなかなか言えない性格のタイプは同居はしてはいけないと痛切に感じております
同居の悩みを義母と同じ世代の知り合いの方に
話した時にその方が
「お母さん自身が時には強くなって子供を守らないといけないのよ」
と言われたのが心に残っています。
そして、20数年たった今
立場が簡単に逆転してるか?というと
難しいけれど
でも子供達が、いろんなことで親身になってくれてるそれはとてもありがたいと思います。
そして子供達にはこんな思いはしてほしくないと
夫も感じています。
なかなか知り合いや友達にも話せる事でなかったので
こうしてブログにかけて
自分の気持ちをだせる機会になりました
終わります。