『カシスウー論』 ~vol.71 ルース駐日大使がヒロシマを訪問した編~
こんにちは イイダテツヤです。
第71回『カシスウー論』は「ルース駐日大使がヒロシマを訪問した編」です。
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2010年8月6日、広島平和記念公園で行われた式典に、初めて米駐日大使が出席した。
これまで日本側は毎年招待状を送り、毎回断られていたらしいのだが、
なぜだか今年は、ルース駐日大使が出席することになった。
よく言われている話から推測すると、オバマ大統領が「核なき世界」を訴えているため、
その流れで「駐日大使はヒロシマの式典に出席したほうがいいんじゃないか」みたいな話になったのだろう。
その後、長崎でも式典は行われたが、ルース駐日大使はスケジュールを理由に不参加となった。
この一連の出来事が、ちょっとした話題というか、騒動というかになっていて、
いろんな人が「ああだ、こうだ」と言っている。
そして、私も僭越ながら「ああだ、こうだ」言ってみようと思う。
「ああだ、こうだ」と言うグループのなかには、(そんなふうに括られたくはないだろうが・・・)
原爆を投下した爆撃機「エノラゲイ」の機長だったポール・ディベッツさんの息子ジーンさんもいる。
ジーンさんはルース駐日大使の広島訪問、及びそれを指示したオバマ政権の判断を
日本に対する「無言の謝罪」になるとして、厳しく非難している。
当時、もし原爆を投下せず、アメリカ軍が日本本土への上陸作戦を行っていたら、
100万人のアメリカ兵士と200万人の日本人が犠牲になったといわれている。
つまり、広島・長崎への原爆投下は、十数万人の犠牲者を出したが、
数百万人の命を救うやむを得ない措置だった、というのが彼らの主張だ。
やむを得ないどころか「非常に正しい英断だった」というのがアメリカの基本的なスタンスでもある。
事実いまでも、約6割のアメリカ人が原爆投下を支持しているという。
もちろん、ジーンさんの主張もその考えに則っていて、
「エノラゲイ」の機長だったポール父さんは、それだけ多くの命を救ったヒーローであり、
その英断をしたアメリカが、まるで日本に謝罪するような行為をするのはおかしい、と彼は言うのだ。
アメリカ政府も、ルース駐日大使の広島訪問について、
「謝罪」ではなく、「犠牲者に敬意を表するため」とことさらに強調している。
その一方で、広島や長崎の人たちはルース駐日大使どころか、オバマ大統領自身が当地にやってきて、
謝罪して欲しいという思いを強く持っている。
11月にはオバマ大統領の広島訪問が実現するかもしれないが、
そのあたりの世論の差というか、解釈や温度の違いが大きな障害になる可能性も高い。
私はこのニュースを通じて、二つのことを考えた。
一つは「もう少し、事実そのものを反省できないものか」ということだ。
原爆投下が間違いだったのか、正当性があったのか、正直言って私にはわからない。
原爆投下だけを論じるなら、そんなことはしないほうがいいに決まっている。
人を殴るより、殴らない方がいい。
単純なモラルに照らし合わせれば、そうに決まっている。
しかし、それで「300万人の人が救われたんだ」と言われれば、
「そうか、それなら仕方がなかったのかもしれない」という気持ちにもなるし、
「そんな簡単に核の使用が正当化されていいはずがないだろう!」と言われば、
「それもそうだ」という考えに翻る。
結局のところ、「誰が悪い」とか「誰が誰に謝罪するべきか」とかという話ではなく、
「なぜ、あのときそんな状況に陥ってしまったのか」をみんなで反省すべきなのだと、私は思う。
でも同時に、そんなことは当事者たちもみんなわかっているのだろう・・・という思いもある。
広島や長崎の人も、オバマ大統領も、ルース駐日大使も、
もしかしたら、ポール・ディベッツさんの息子ジーンさんも、心のなかでは、十分にわかっているのかもしれない。
わかっているけれど、その一歩を上手に踏み出せずにいる。
そんな状況なのかもしれない。
原爆投下という行為は、戦争のなかでも、あまりに具体的かつ個別的過ぎて、
投下のボタン一つが、十数万人を死に至らしめるという直接的な結果とつながっている。
それだけの重さを、そう簡単に引き受けられないという思いは、私にも理解はできる。
私の勝手な想像だが、ジーンさんが「私の父は英雄なんだ」と言い続ける裏には、
人知れず、そんな苦悩があるのかもしれない。
非常に微妙で、とてもむずかしい問題なのだ。
アメリカにしてみれば、「平和への一歩を踏みだそうとしているのに、『謝れ、謝れ』って言われたんじゃ、
こっちも感情的になっちゃうよ」って気持ちがあるだろうし、
広島や長崎の人たちからすれば
「仲直りするにしたって、まずは殴ったヤツが謝るのが筋だろう」という思いがあって当然だ。
状況が状況だけに、「握手はするけど、先に手を差し出すのはオマエのほうだ」と
どうしても言いたくなってしまうのだ。
もちろん、これは原爆投下に限った話ではなく、
アジア諸国が日本に対する感情にも、似たような部分があるのかもしれない。
もっと複雑で、根の深い問題もたくさん絡んでいるのだろうが、
つまるところ、握手をするための「手の差し出し方」が一番むずかしいのだと、私は思った。
心の奥底に残っているわだかまりとか、怒りや悲しみ、痛みやうずきを静かに抑え、
すんなりと手を差し出すには、まだもう少し時間の流れが足りないのかもしれない。
ニュースを通じて私が感じた二つ目は、そんな「時間の流れ」だった。
今回、広島で行われた平和式典は65回目だという。
戦争が終わって65年が経ったということだ。
ほとんどが直接的に戦争を知らない世代になったとはいえ、
その痛みは、よくも悪くも、人々を支配するだけの力を持ち続けているのだろう。
それは時間が解決するしかない。
もちろん、そう考えることもできる。
でも、本当のことを言えば、
痛みをリアルに感じている人たちにしか、
本当の意味で相手を許したり、苦しみながらも相手の状況や感情を認め、
平和への厳しい一歩を踏み出すことはできないと、私には思えてならない。
壁の高さを知っている人にしか、それを乗り越える真の尊さを示すことができない。
そう、私は思うのだ。
何も知らない私がこんなことを言うのは身勝手で、無責任であることもわかっているし、
戦争が過去のものにならず、リアルな痛みに苦しみ続けている人を前にして、
同じことが言える自信もないのだが、少なくとも、いまの私はそう思った。
もうすぐ日本は、すべての国民が戦争を知らない世代になる。
それだけ平和が続いているというすばらしい事実とともに、
何かが薄れていく危機感を私たちは忘れてはいけないのだと思う。
