僕は友人の代わりに、彼の母親と会うことになった。

 

 なぜそんなことになったのか、はっきりとした理由はわからない。いろんな思惑が少しずつズレを生んで、ひと周りしてみたら、そんなところに落ち着いていたという感じだ。

 

 彼と彼の母親は、もう十八年も顔を合わせていない。

 彼が三歳のとき、彼女は外に男をつくって家を出ていった。その“彼女が出ていった理由”は彼の父親が彼に話して聞かせたことなので、本当なのかどうかはわからない。

 でも彼は「とりあえず嘘ではないだろう」と言っていた。

 「まあ、それがすべてというわけじゃないんだろうけど……」と彼はつけ加えたが、その表情からは「今さらどうでもいいことなんだ」という思いが窺えた。

 

 その母親が十八年ぶりに電話をかけてきた。

 といっても、実際に電話をかけてきたのは、代理と名乗る弁護士だった。弁護士は彼女が会いたがっていることを端的に伝え、その気があるならば四、五日中に連絡して欲しいと告げたらしい。

 無理強いするような様子は微塵もなく、それが弁護士のやり方なのか、彼女の意向によるものなのかはわからなかったが、悪い感じは受けなかった、と彼は言った。

 

「それで弁護士には、会うと伝えたんだ」

 そこまでの話を彼は淡々とした口調で、僕に聞かせた。

 

「そこで、つまらないお願いをして申し訳ないんだが、俺の代わりに彼女に会ってきて欲しいんだ」と彼は言った。

「それは少し違うんじゃないのか?」と僕は言ったが、それに対する返答はせず、彼はただ「本当に申し訳ないと思っている」とだけ繰り返した。

 

 僕に代理を頼むくらいなら、なぜ会うことにしたのか。その弁護士の様子なら、断ることだってできたはずだ。

 しかし僕はあえて口には出さなかった。

 

 彼と僕はその後、三本ずつタバコを吸って、僕が彼の頼みを聞き入れることで話はついた。その代わりに僕は、彼が最近買った黒のレザージャケットを貰うことになった。

「そんなキザなジャケットは趣味じゃないんだけどな」と僕は言ったが、「おまえが着れば、それほどキザにはならないさ」と言って彼は笑った。

 

 約束の日、僕は待ち合わせの十分前に駅前の噴水に到着したが、既に彼の母親は来て、所在なさげに待っていた。

 

 僕は彼女の前に立ち、「久しぶりです」と少しだけ頭を下げた。

 彼女は潤んだ目で僕の全身を見渡し、「大きくなったわね」と言った。

 

 罪悪感がなかったわけではない。

 でも僕は感情の回路を絶って、彼になりすました。

 緊張はしたが、なぜだか不安は感じなかった。僕はただ、まだ肩口あたりに堅さの残る真新しいレザージャケットを着こなしていれば、それでよかった。

 

 それから僕と彼女は近くの喫茶店でお茶を飲んだ。

 僕は大学やバイトの話をしたが、それはすべて僕自身の話だった。彼だって似たようなものなので、大きな問題はないだろう。

 彼女は僕の話をときおり大きく頷きながら熱心に聞き、頼んだ紅茶をひと口も飲まなかった。

 

 結局、僕が一方的に話をして、三十分ほどで喫茶店を出た。

 そして「バイトがあるからもう行かなければならない」と僕は告げた。

 何というか、いろいろ耐えがたかったのだ。

 

 しかし、彼女は「何か洋服のひとつでもプレゼントしたいんだけど、駄目かしら」と言った。

 僕は少し迷ったが、「別に欲しい服もありませんから」と断った。

 ところが、彼女は今日一番の強い口調で「でも、せめてそのジャケットに合うシャツだけでも買わせて欲しいの。ほんの少しの時間でいいのよ。お願い」と言った。

 

 動揺した僕はそれ以上無理に断ることもできず、彼女と一緒にデパートへ向かった。

 紳士服売り場で、彼女は嬉しそうにシャツを選んでは、僕の肩にあてがった。

 僕はされるがままに鏡の前に立ち、激しく後悔していた。

 

 結局、彼女は深いえんじ色のシャツを選び、会計を済ませた。

 そして、きれいにラッピングされたシャツを受け取り、僕たちは駅まで歩いた。

 

 駅に着くと、「じゃあ、急ぐので」と僕は言って、足早に彼女のもとを去った。

 

 しばらくして、振り返ってみると彼女はまだそこにいて、僕に大きく手を振っていた。たいした距離でもないのに、彼女の手の振り方はあまりにも大きかった。

 

 どんなに遠くにいても、自分の振る手が見えるようにしているようだと僕には思えた。

 

 その場で僕はジャケットを脱ぎ、彼女に向かって深々と頭を下げた。

 そのとき、僕は「やっぱりジャケットは彼に返そう」と思った。手に持っている新品のシャツも、当然彼に渡さなければならない。

 

 いったい彼女はどこまで気づいていたのだろう……

 

 人混みの中から振り返ると、彼女はまだ、恥ずかしいくらい、大きく手を振り続けていた。