○夫婦して花と戯れ野道行く 妻生き居れば旅するものを


    年配の夫婦が花を眺めたり摘んだりしながら、田んぼの中の畦道を歩いている。

    長年、家庭を築きながらようやく子供を育て上げた年代だろうか。

    日常生活から解放され、夫婦になった頃の気分が甦っているだろう。


    若いときは夢や希望を絆としていた。

    今は、挫折と苦労の中に宝が見えるようになった。


    夫婦で人生を長く旅できることは本当に幸せなことだ。

    

○みほとけに手を合わす母やさしくも 我が子のために阿修羅と生きん


   5月第二日曜は母の日。

   釈尊の誕生(4月8日)を祝い降誕会(花まつり)ももよおされることが多い。

   誕生仏に甘茶を注ぎ、我が子の今日の生命に感謝し、明日の健康を願う母。

   優しき母のお蔭で人はみなどうにか一人前に育っていく。


   しかし、その菩薩のような母が我が子に危険が及ぶや子を守るため

   時には夜叉となり、時には鬼女として生きるのである。


   嫌な仕事も厭わず、安眠することもなく、我が子の命を育むため

   世間の中傷や誤解にも毅然として堂々と立ち向かう。


   相手が最高権力者であろうとも臆することなく戦う羅刹と化す。

   それは、自己を捨てるこころがあればこその生き方だ。

   


   


    

○その瞳 何を語るや 別れ際 まだ言葉なし 一歳前の児

   

    

   連休に長女夫婦が10か月の男児を連れ、遊びに来ていた。 3泊して大阪へ帰るとき、


   車の後部座席で眠っていた児が目をさまし、見送りに出た私と目が合った。


   「元気でね。さようなら。」と声をかけたが、応ずるはずもない。


    しかし、私には、 「オジイチャンもね」とささやいてくれたように思えた。


   まだ、言葉にはならない声を発するだけの時期の児なのだが。


   

   人はみな、愛する相手に自分を思ってほしいと願っている。


   相手の中で自分の記憶が明瞭であってほしいと欲している。


   相手には迷惑なことだ。


   今を盛りに咲く花は枯れるからこそ、その盛んさが際立つのだ。


   枯れて地に落ちることがなければ、次の花は咲くことがない。


   自分を一つの縁として児が育ってくれればそれでいいことである。