司馬遼太郎
海洋国家としてのイタリア
今夜は早く切り上げて、風呂に入り、それから食事をして、また書斎にやってきた。
書斎にはベッドはないが、静かな部屋である。書斎の壁にでっかい海の絵をぶら下げている。たぶん無名の画家が描いたものだろう。気に入っている。
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海の物語。――いつだったか、ヨーコといっしょに有楽町・交通会館の地下でやっていた書道展を見たときのことをおもい出す。りっぱな書がならんでいた。無鑑査級の作品がずらりとならんでいた。
そこに、「海」という大きな書がかかっていた。
書は、ごたいそうな風格のあるりっぱな書より、ぼくは、素直な書のほうが好きだ。素直な書というのは、たとえば、中国・唐の時代に名をなした顔真卿(がんしんけい)の書などは、うまいなあとおもう。
だれが見ても、「うまいなあ」という感想はないかも知れないけれど、どこか惹かれる。顔真卿が70歳のときに書いたという作品である。タイトルの「自書告身帖(じょう)」というのは、自分で書いた辞令という意味らしい。
唐の時代には4筆のひとりといわれ、あと3人の書家がいたわけである。
彼は人事などを担当する長をしていて、皇太子の教育をつかさどる太子少師に任じられ、そのときに書いた作だそうだ。彼の父はりっぱな人で、官吏登用試験に合格している。
注目すべきは、これが顔真卿の唯一の楷書体の肉筆であるということだ。まさに世界に誇る至宝の書なのだが、文字はふっくら、ずんぐりしていて、おどけたようなところがあり、ひょうきんなところがあって、ぼくは好きだ。
だれかいうだろう。――書のメタボリック症候群だって。
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――唐代といえば、ちょうど楷書体が成立したころといわれる。このころ、欧陽訽のようにすっきりした書体が流行するなかで、顔真卿(709年-785年)の書は、かなり異彩を放っていただろうことはたしかだ。
彼は、剛直な性格をしていて、友人にも鼻つまみにされ、権臣たちにうとまれて死地においやられたりしたが、それでも書を書いていた。人にこびることは大嫌いな男で、その名残りが書にもあらわれているような気がする。――彼の最期は、敵陣につかまり、幽閉ののち、殺害された。
この作品には、清(しん)の乾隆帝の跋文がついている。
唐の時代に書いた書が、清の時代に引き継がれていったわけである。
清の乾隆帝が所有していて、書の感想などが書かれているという。跋をふくめた巻子は、全長8メートルにおよぶという。朱色のハンコがたくさんペタペタ押されているのは、所有者たちのハンコである。
彼の字の特長は、起筆が蚕の頭のように丸みをおびているところで、終筆がツバメの尾っぽのように割れ、はねているところから、「蚕頭燕尾」などといわれていたという。
じつに、おもしろい! 素材は墨書。
清の時代には、いっぽう海洋国家としての海の覇権をきそった時代である。「南船北馬」ということばがあるくらい中国の南は船、北は馬の時代が長くつづいた。彼の書は、ひろい海を連想させる。
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海といえば、イタリアである。
イタリアといっても、中世のイタリアでは、ヴェネチアとジェノヴァが地中海の覇権をきそった。そのころの海を見てみたいとおもう。
――イタリアの国旗は、ミドリと白と赤の3色になっている。
これはしかし、陸上の国旗である。海の国旗には、真ん中に4つの紋章をつけている。この4つの紋章は、ヴェネチア、ジェノヴァ、アマルフィ、ピサの4つの国の紋章を象(かたど)ったものだ。
当時は、それぞれ共和国としての独立国家だった。彼らは海洋国家として生きていた。
ところが、ちゃんとした港を持っていたのは、ヴェネチア、ジェノヴァのふたつだけだった。アマルフィは、南のナポリの近くにあった。そこには小さな軍港しかない。ナポリには広い港があるが、彼らは広い平野を持っていたので、農業に精を出し、危険な海洋へ乗り出すこともなかった。
ピサにいたっては、陸地は山がせり出していて、平野がまったくない。彼らは海に生きるしか方法がなかった。しかも、アルノ川がそばに流れていて、そこを抜け出せば海につながると考えた。
フィレンツェ共和国も港を持たないが、アルノ川に運河を築いて港をつくろうという計画が持ち上がった。それを指揮したのがフィレンツェ行政府の書記官だったマキャベッリである。測量士だったレオナルド・ダ・ヴィンチもこれに加わる。
そして、大失敗し、ふたりは牢獄に入れられる。そこで書いたのが、マキャベッリの「君主論」である。ダ・ヴィンチは何をしたいたのだろう。彼はすぐに放免になったはずだ。
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海といえば、羅針盤がなければどうにもならない。
当時、中国で羅針盤が開発され、アマルフィの男たちは、この羅針盤をアラビア人から手に入れた。アラビアの砂漠のなかを行軍するときも、この羅針盤が威力を発揮する。自分たちの目指す方向がはっきりと分かるからである。
現代のGPS(全地球無線方位システム)のようなはたらきがあったのだろう。彼らはアラビア人から手に入れた羅針盤を改良して、アラビア人に逆に売りつけ、これで儲けた。
羅針盤が西洋にもたらされたのは、アマルフィの商人たちによるといわれている。いっぽう、ヴェネチア人はそのころ、中国から直接羅針盤を手に入れていた。黒海のそばにあったトルキスタン地方からは、馬のアブミを手に入れている。トルキスタンは馬の産地だった。かの張騫(ちょうけん)も、武帝の命を受けて汗血馬を手に入れるために出かけている。帰ってたきたのは11年後だった。
ピサはトスカーナ地方でも最も古い町である。
トスカーナ地方の農産物は、海への出口だったピサを通して世界に運ばれた。ピサが海洋国家として大きく成長していった背景には、サラセン人との戦いに勝ったことだった。アルノ川に沿った平和な町ピサは、9世紀、10世紀ごろ、サラセン人と戦争ばかりしていた。
十字軍の遠征のころ、ピサは海洋国家として大きく飛躍する絶好のチャンスがおとずれ、12世紀を通じて、ピサは黄金時代を築いた。
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それにしても、ふしぎなのは、港を持たないフィレンツェから、大航海手となる、アメリゴ・ベスプッチという青年を生んだことだった。彼は、北アメリカ大陸のハドソン河を発見している。現在の「アメリカ」は、彼の名、――彼のラテン名であるアメリクスにちなんでアメリカと命名されているのである。
アメリゴ・ベスプッチは、1499年、ほとんど1500年といっていいが、ポルトガル王の援助で、南米大陸をマゼラン海峡まで南下し、そこで新大陸を発見しているのである。海といえば、やはりイタリアである。
それもヴェネチア共和国。――地中海の覇者はいつの時代にも、ヴェネチア人たちだった。これは、塩野七生さんの「都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」に詳しく書かれている。
マキャベッリについても、彼女の「わが友マキャヴェッリ フィレンツェ存亡」、「神の代理人」などに書かれているので、参考にできる。
塩野七生さんがはじめて文章を発表したのは、その名も文芸雑誌の「海」だった。「海」という雑誌が世に出たのは、1969年ごろだった。
ぼくは毎号買って読んでいた。そして1984年に終刊となった。そこに、聴いたことも読んだこともない塩野七生さんの文章があり、海の物語が書かれていた。
ぼくはひじょうに新鮮な印象を受けた。いつだったか、友人あての手紙に、ヴェネチア経済の話を書いたことがある。50ページぐらいの文章だったが、ちょうどクリントンが大統領に選出された1991年のことだった。
1400年代ごろのヴェネチア政府は、いろいろなことをやっている。世界じゅうの国々との交易が盛んにおこなわれていた。商人たちは遠くの国々に出向き、商売をする。そこで、現金を持たなくても商売ができるように、「約束手形」というものをはじめて考案した。その受け皿である銀行もつくった。そういう銀行をつくったのは、ヴェネチア人が最初だった。
現在の経済インフラの基礎のほとんどを、彼らはすでにやっていたのである。ヴェネチア人は船をつくった。
しかし、それは専門の職人がつくったのではない。だれも船をつくった経験がなかった。
そこで考え出された方法は、まず土台をつくり、柱を立て、根太を張り、それから船板を貼り付けた。これが近代の造船技術の基礎になり、そのまま発展していった。彼らが考案・発明・工夫したものは、すべて現在に生かされている。
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ただし、十字軍の遠征だけは、違う。
ねらいは、キリスト教を世界に流布させようとした戦略であり、ヨーロッパじゅうに十字軍として従軍した者たちが散らばり、行く先々で妻をめとり、彼らは結婚して一家をかまえ、異国の民になっていった。
陸には陸の動きがあり、海には海の動きがあった。
世界は、まだまだ未知の世界だった。ギリシャのアレクサンダー大王といえども、インドまでたどりついたが、中国・日本は知られていなかった。
マルコ・ポーロの遠征によって、ようやく中国と日本が知られるようになったに過ぎない。マルコ・ポーロはヴェネチア人だったが、父と叔父が中国地方に旅をして商売するようになり、ふたりが帰国すると、こんどは息子のポーロを連れて出かけた。彼はフビライ・ハーンに仕えたりして、彼らの商売はうまくいく。商人であったため、帳簿はきちんと毎日つけていて、商売上の記録は克明に記されている。のちに帰国するとき、運悪くジェノヴァにつかまり、牢獄に入れられるが、退屈しのぎにしゃべりはじめたのが「東方見聞録」である。ほとんど口述筆記である。その日は、雨が降って、……という記述が見られ、これは帳簿に記されているので確かな話だと信用された。しかし、
「やつのいうことは、信用できないが、おもしろい」
といって、ジェノヴァの首領(ドージェ)が記録することをすすめたのがはじまりといわれている。それはそうだろうとおもう。見たことも、聞いたこともない国の話である。
「ジャポニカ(日本)は、黄金の国である」とか、
「その国では、王は何人もの妻を抱えて暮らしている」
というような記事が書かれている。1295年、41歳のときにインド洋をへて海路帰国している。つまり、ポーロは、国を出てから20年間も帰らなかったことになる。
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そういう海の話は、塩野七生さんの本でいろいろ知ることができる。
いま、ちょっと古い「文藝春秋」(2013年9月号)を見ている。
「司馬遼太郎特集」号である。
ぼくは司馬遼太郎の本を読んで、海のことも陸のことも知るようになった。
「征韓論」を唱えた西郷隆盛、「脱亜論」を唱えた福沢諭吉、どちらも日本はアジアに目を向けていなかった。アジアのなかの日本、そういう目でもう一度見直そうというのが司馬遼太郎さんの考えだったにちがいない。そのころ、ようやっと日本は海のことを知るようになったのだとおもう。海は、ヨーロッパにおいて、陸続きの平野の向こうから敵の戦車がやってくるようなもので、「海」は、すなわち平野なのだという考えが芽生えた時期だったようだ。