タリア、―ああタリアのバールよ!

 

信州国際音楽村の風景

 

 

信州国際音楽村に行ったのはいつだったろうか。季節は、ラベンダー祭りがはじまったころで、そのときの写真を見て、また行きたくなった。

いま住んでいる草加市は、都心に出かけるのには文句なくいいところなのだが、空気は、上田市の信州国際音楽村界隈にはかなわない。写真を見ていただくだけでもおわかりいただけるとおもう。空気もよければ、美しいところだ。

そのころぼくは、イタリア料理に情熱をもっていた。

イタリア・フィレンツェ郊外の農家の見える丘からの眺望は、上田市のからっとした空気感とよく似ていて、もっと光に満ちていた。

街なかのバール(Bar)のおばさんが教えてくれた手書きの地図を見ながら、ぼくはその丘の道を登った。この写真の風景と似ている。

そのとき、ぼくのイタリア滞在は数週間におよんだものの、ホテルではなく、簡易アパートを契約し、家具付きで、キッチンまわりもかなり充実した部屋に泊まることができた。

包丁やフライパンなどの調理器具はもちろん、パスタ鍋とかオリーブオイルとかもあり、ときには洗濯機なんかもあって、短期間滞在する旅行者の部屋としては、びっくりするほどコンビニエンスのすすんだ貸し部屋があった。めんどうな契約書も要らない。年収なんか書きこむ書類もない。

そこは子供が独立して、空き部屋になったような部屋で、家を切り盛りする主婦が素人で、それも好きで貸しているというような部屋なのだ。石造りの花々に囲まれた瀟洒なたたずまいだ。

便利さからいえば、たぶん日本より充実していたとおもう。

それらの情報は、ぼくのばあい、みんなバールのおばさんの情報から得たものばかり。たずねたわけではないが、貸し部屋の評判なども教えてくれる。それに、遠来の客には飛び切りめんどう見が良い。それは、いまの日本にはないいいところだ。

バールで飲んだカプッチーノは、どろってしていて、それに多少のアルコールが入っていた。それが、サラリーマンたちの朝食なのだ。男たちの朝は、みんなピッツァなんか食べない。どろっとしたカプッチーノを、きゅっと引っ掛けてみんな出勤していく。

イタリアの朝は楽しい。

 

5月の薫風のなかで

 

ぼくはピッツァをたっぷり食べるので、おばさんはぼくの好みを知っていて、椅子に座ると、いつも同じものをつくってくれる。

もちろんイタリアには、ピッツェリーアの看板がいたるところに出ている。

だが、バールの店にはメニューなんかなかったとおもう。

そこは常連客が多いので、「マンマ」と呼ばれるおばさんは、客の好みに合わせて、――おそらく、客のそのときの体調や気分に合わせて、――それぞれ客好みの別々の食べ物を出す。髭面の男がひとり新聞を広げて、会話に入らず、黙ってたばこを吸っている。円テーブルに陣取る若い人たちは、早口で何かしゃべりまくっている。

にぎやかなことが大好きなマンマは、忙しい朝の時間が過ぎて客が去っていくと、こんどはぼくをつかまえて、北海道のいなかの話を聞きたがる。

バールではお酒も飲める。

そこで呑むワインは、ときにミネラルウォーターの値段より安い。イタリアの居酒屋(オステリーア)でもけっこう安い。大むかしは、ワインは水がわりに飲んでいた。いい水がなかったころだ。ダ・ヴィンチの時代は、子供までワインを飲んでいたという。それで、子供が酔っ払ったという記事をぼくは読んだことがない。

だからといって、バールで酔っ払ってクダをまく男がいるかというと、それがぜんぜんいないのだ。日本人は堂々たる飲みっぷりのいい男もいれば、酔っ払って自慢話をする人もけっこういる。そしてけっこう人前で何か告白したりする。告白されたほうは、たまったものじゃない。

イタリアではそういう男を見たことがない。

これが長いあいだの疑問だった。

イタリア人のアレッサンドロ・ジェレヴィーニ氏の書いた「いつも心にイタリアを」(新潮文庫、平成22年)という本を読むと、はっきりと書かれている。酔っ払い(ウブリアーキ ubriachi)にたいして、イタリアは日本ほど寛容ではないのだと。酔っ払って、世間のウサをはらしたくなることもあるだろうに、イタリアの男たちは、我慢しているらしい。

それにしても、世間話で盛り上がるバールでの時間は、澄んだ空気のように、からっとしていて、とてもさわやかだ。

 

 

 

バールで何かを口にするとき、日本人は「いただきます」といい、イタリア語では「ブオン アッペティートBuon appetito」という。意味は「よい食欲を」とか、「美味しく召し上がれ」とかいう意味らしい。その話も本には書かれている。

ところが、「いただきます」という気分で食べはじめると、マンマもにっこり微笑んで、「いただきます」というのだ。そのときは、おなじことばも「召し上がれ」という意味になるらしい。

この話は、イタリア人の本を読むと、もっとくわしく書かれている。

家族の多いイタリアは、外でも家族のようにふるまう。というより、バールは村や町の大切なみんなの拠り所になっているというわけ。

だが、デートするにはちょっと不向きだろう。みんな家族みたいな知り合いなのだから。じゃ、どこでデートするのだろう? 東京では、けっして見られない風景である。

マキャヴェッリのことばに「やぶれて英雄になる」ということばがある。

フィレンツェといえば、かつてダ・ヴィンチとマキャヴェッリがつるんで、人生最大の失態を演じている。フィレンツェには港がない。その港をつくろうとしてとうじ行政府の一等書記官だったマキャヴェッリは、ダ・ヴィンチとともにアルノ河に運河を建設して大きな港をつくろうとした。ダ・ヴィンチの「モナリザ」の背景に描かれているアルノ河である。

これはよく知られている話だが、ふたりは大失敗をする。

マキャヴェッリは逮捕監禁され、ダ・ヴィンチは5年間もままならない暮らしを強いられたらしい。ダ・ヴィンチは画家であるまえに、土木工学師兼測量士だった。

そんなことがあって、彼らは偉大な仕事ができたというわけだ。つまり、ありあまるほどの時間が、ある日とつぜん、ポッとできてしまったからだ。おかげで、後世に残る傑作がつくられた。

ダ・ヴィンチのほうは人体解剖図や機械工作図をつくり、近代医学に貢献したし、マキャヴェッリのほうは「君主論」やさまざまな論文を書いた。

ダ・ヴィンチのほうは、「モナリザ」の完成に挑んだ。ダ・ヴィンチはパリに行っても終生「モナリザ」を手放さなかったのは、じぶんでは完成したとはおもっていなかったからかも知れない。

 

 

 

 

フィレンツェといえば、もうひとり、アメリゴ・ヴェスプッチがいる。

彼は北米ハドソン川を発見している。この偉大な人物もフィレンツェ生まれなのだ。港がないフィレンツェから偉大な航海士を生んでいる。アメリゴの名にちなんで「アメリカ」と命名された。

イタリア人にとって、海とはどのようなものだったのだろう?

ぼくがはじめて塩野七生さんの名前を知ったのは、文芸雑誌「海」(中央公論社、。1969年7月創刊)だった。そのころぼくは、ヴェネチアについて強い関心を持っていて、いろいろな本を読んでいた。ぼくのよく知らない塩野七生さんの「海の都の物語」が連載され、たいへん教えられた。

かつて、ヴェネチアの女性が、何世紀も甘く官能的でいられたのは、ナイト(騎士 カヴアリエレ・セルヴェンテ)のおかけであるという説がある。そういったのは塩野七生さんだった(「海の都の物語 ヴェネチア共和国の一千年」。新潮社、2001年)。

ナイトの制度が完成したのは18世紀だそうだが、それ以前の十字軍の遠征の時代からナイトは活躍した。

イタリア語で「カヴアリエレ・セルヴェンテ」というのは、「奉仕する騎士」という意味だそうだ。これはヴェネチア政府によって確立された制度で、遠征する男たちにとって留守居をする妻や家族のめんどうをみることを、19歳未満の青年たちによって奉仕する制度。それを考案したのである。

こうしたからといって、夫人たちは、青年たちに給料を支払うこともなく、国家の安寧のために考えついた制度で、その後18世紀いっぱいまで、この制度がえんえんとつづいた。

「奉仕する騎士」とは、いったい何をするのかということだが、塩野七生さんの説明によれば、朝、夫人が目が覚めるのを見計らって、夫人の部屋を訪問し、やさしく助言を与えながら、きょうはどんな服を着て、どんな宝石を身に着け、教会のミサに行ったらいいか、いろいろ助言をするのだそうだ。散歩をするときは、やさしく彼女をエスコートし、買い物にも同行する。

そして、しばしば食事にも同席し、サロンで行なわれるトランプ遊びやチェスの相手もし、夜には舞踏会にも付き添い、劇場にも同行して、いっしょに芝居を観劇する。そうやって一日じゅう彼女に付き添う、そういう奉仕なのだ。

夜、夫人がベッドに入るのを確認するのを待って、ようやく退去となる。――という制度。

なんとも、うらやましい制度。忙しい夫をもつ妻は、夫を送り出したあと、何ケ月も何年も、ひとりで生活するしかなく、無聊(ぶりょう)をかこって、しまいには他の男とくっつかないように考え出したのが、このナイト制度であると書かれている。

うまいことを考えたものだ。

ヴェネチアの少年たちは、この制度を通して社会奉仕する精神を養うわけだけれど、学校教育ではけっし学べない、生きた社会的な奉仕教育がほどこされる。それまで、夫人たちはそういう夫人たちとおしゃべりするしか不満の解消法がなかったのだが、ナイトたちによって、夫人たちの不満は一挙に解消されたという。

ヴェネチアを訪れたフランス人旅行者は、この制度に驚いたそうだ。

「奉仕役の青年たちは、夫の10培も夫人たちと結婚しているようなものだ」といったそうだ。ヴェネチア政府が考えたこの制度の裏には、もうひとつ隠れた理由があった。19歳未満のナイトたちが、同性愛にふけるのを避ける意味もあったといわれている。

もちろん、ヴェネチアには公娼がたくさんいた。国がみとめた娼婦たちだが、これもまた、同性愛を禁じる方策のひとつとした存在していたわけである。街の娼婦は、衣服は決められていた。胸のVゾーンをできるだけひろげ、男たちの視線があつまるようにふるまう。

娼婦でなくても、どうすれば、若々しく、いつまでもきれいな姿でいられるか、彼女たちは、街の娼婦を見て、じぶんたちもVゾーンをひろげるようになり、着ている衣服は違うけれど、娼婦と似たようなかっこうをしてふるまったのだそうだ。

そのようなかっこうで、ナイトに接するのだから、ときには未成年者たちの性教育が、夫人らによって行なわれたこともあったにちがいない。多くの人は、夫人がベッドにつくのを見計らって退散した、と書かれているが、どうもそうではなかったようだ。

それもそのはず。ナイトと愛人の境界がはっきりしないという問題があった。それによって生じた悲喜劇は、ゴマンとある。

しかし、夫人たちは、女にとって肉体やベッドをともにするのは、大した問題じゃないと考えていたようだ。女たちが生き生きとして過ごせるのは、絶え間なく与えられる男たちからの讃美だったからだ。その繊細なこころ遣いに酔うところがあり、セックスをしたからといって、めくじらを立てるほどの時代ではなかったという。

イタリア人の、じぶんを磨く歴史は、そこからはじまっている。