作者:カラヴァッジョ「ダビデとゴリアテ」、1599年、カンヴァス、110×91㎝。

 

 

ビデがリアトを倒す」

きのうの炎天下は夏日となり、今年はじめての猛暑日になって、その中を自転車に乗って草加図書館に出かけた。

芭蕉の銅像が立っているあたりで日陰に飛び込み、リュックサックに詰め込んだ水を出して飲んだ。 水はただのペットボトルに入れた水だが、少し飲んではまた飲み、3回ほど小分けにして喉に流し込んだ。

そうすると、水というのは「うまい」とおもってしまう。

むかし韓国の宮廷料理で名を残したテチャングムの物語のなかに、「水はぜんぶで33種類ある」というセリフを想いだした。料理の基本は「水」だと書かれている。江戸前の通の話にもいろいろ教えられる。

むかし池波正太郎さんいっていたことを想い出した。

「コップに三分の一くらい注いで、それを飲みほしては入れ、飲みほしては入れして飲むのがビールの本当のうまい飲み方なんですよ」といっていた。

「まだ残っているうちにビールを注ぎ足すのは愚の骨頂! ってこと?」とSさんはいう。

「そのとおり。ビールって、成分がある程度飛んじゃうわけです、時間がたつと。そこへ新しい成分を入れると、せっかくの新しいあれが、まずくなっちゃうんだそうだよ。――これは、池波正太郎さんの弁ですがね」

「――もしも、太平洋の孤島に流されたら、田中さん、どうしますか?」と、Sさんにきかれた。

「たったひとりで?」

「うーん、……もしも3人の人間たちと。そうですね、たとえば男ふたりと女ひとりだったら?」

「設問がややこしいですね。男ふたりねぇ……女がひとり?」

ありえない話じゃない。あるかもしれない。この年では、想像することもできない。

「80すぎのじいさんが孤島に?」

「だったら、もしも、若くて、26歳だったとしたら?」

「26歳かぁ……ははははっ、若すぎませんか?」

26歳? ――ぼくは26歳のとき、何をしていたのだろう。

あちこちの婦人雑誌に記事を書いていた。

 

 

 

 

読売新聞の婦人欄に2年間、毎週木曜日にコラムを書いていた。パソコンなんてない時代だ。原稿用紙にひたすら文字を埋めていた。

26歳だった昭和43年には、川端康成のノーベル文学賞受賞があり、札幌医大の和田寿郎教授が、日本初の心臓移植手術がおこなわれ、最高裁で八海事件に無罪判決がくだされた。そして3億円事件が起きた。

そういう年だ。

ぼくは東芝に関係していたので、調べられた。

あのころはとても多忙だった。人が足りなくて、会社で月の3分の1は徹夜をしていた。あとからやってくる団塊の世代があらわれるのはまだ先の話だ。戦中派の先輩たちの指導をうけ、「われらは老頭児(ロートル)だ」というシベリア元抑留者だった編集部長の下で仕事をした。酒が入ると、いつもロートルの話を聞かされた。

ちょうど活版の時代からグラビア、オフセット、輪転の時代になり、レコードジャケットががらりと変わった時代だ。

日活の石原裕次郎、東映の高倉健が人気を二分し、映画産業のピークを迎えていたころだ。村上春樹さんの時代に近いせいか、ぼくはレコード音楽に慣れ親しんだ世代で、あとの世代が怒濤にように押し寄せてくる戦後の団塊の世代に追われるようにして聴きまくった。

村上春樹さんの小説「風の歌を聴け」は、そういう世代の歌なのだ。それが英訳されたはじめての処女長編「Hear the Wind Sing」で、世界でも多く読まれたらしいが、そのシーンはそっくりぼく自身のシーンでもある。

だが、時代は文学的にいえば、遠藤周作や梅崎春夫の時代で、まだ村上春樹さんの時代ではなかった。

「ぼくはこうおもうよ」といって、26歳の彼に別の話をした。

日本人のぼくがそういう境遇に落とされたら、孤島で仲良く3人で暮らすだろうと。だが、彼のいう設問に、じつはこんなことを考えていた。

もしもイタリア人だったら、女をめぐって殺し合いになるだろうし、もしもフランス人だったら、女はひとりの男と結婚し、もうひとりの男は彼女の愛人になるだろうと。その話はありえない話じゃない。大いにありえる話だろうとおもう。

それがもし、バルザックだったら、妻に迎えるりも愛人になるほうを選ぶだろう。もしもスタンダールだったら相手を殺すだろう。スタンダールは暴力を讃美し、イタリアを愛したからだ。

「そうなんですか?」というので、

「ちがうかもしれない」といった。

それがもしイギリス人だったら、どうだろうかと考えた。

ぼくも少しイギリスにいたことがあるのでわかるのだが、藤原正彦さんもいっているように、外国人である自分を見て、彼らはforeignerという感覚はないようだ。というよりむしろ、彼らにとって外国人はすべてalienなのだ。だから外国人登録のことをalien registrationというのである。

これにはまいった。

なぜかというと、alienという語には違ったニュアンスがある。

自分たちとは異質で、何をするかわからない、意志の疎通のままならない、警戒すべき人物、という意味になる。だから警察署でそういう人間の登録をするのだ。だれでも一定期間滞在するときは、イギリスでは警察署に出向いて登録することになる。

ところが、イギリス人のしゃべる英語が、これまた理解に苦しむことが多い。

「ここは、英語を話すイギリスだろ?」とおもいたくなる。

トマト(tomato)はここでもトマトというのだが、たいがいの人は「トメイト」と発音するだろう。そういう英語は彼らには通じないのだ。

ゲート(gate)は「ガイト」と発音し、ケーキ(cake)は「カイク」といい、テイク(take)は「ターク」といい、テープ(tape)は「タイプ」という。頭のなかがこんがらかって、自分でも何を話しているのかわからなくなる。

だが、文章で書いたものを読むと、すばらしい文章なのだ。ちょっとふるい記事だが、「タイム」誌は、「最新テクノロジーを背景にしたリテール分野の銀行革命が進行中である」と述べた上で、つぎのように報じていた。

 

So, David beats Goliath as the Royal Bank of Scotland ends NatWest`s three centuries of independence.(したがって、ダビデがゴリアトを倒した。ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド銀行の3世紀にわたる独立に終止符が打たれた。)

 

――ここで突然「ダビデがゴリアトを倒す」という文章が飛び出してくる。この「ダビデがゴリアトを倒す」という表現は、イギリス人ならだれでも知っているだろう。そこにつづられている「David」は、どうして「deivid」と発音される語なのに、なぜ「ディビッド」ではなく「ダビデ」となるのかって? 

約3000年まえ、イスラエルの第2の王となったダビデは、若いときは羊飼いの少年だった。このダビデの話は、「旧約聖書」に出てくる。英語版のDavidは、日本語版では「ダビデ」となっている。日本語は人名や地名を現地の発音に準じてカタカナを使用するので、聖書のなかにあるDavidは、ヘブライ語の読み方では「ダビデ」となるが、英語では「ディビッド」と発音する。

「ダビデの星(Star of David)」は、2つの正三角形を60度ずらして重ね合わせた6星形の象徴。ユダヤ人にとってはキリスト教徒にとっての十字架のようなもので、ゲシュタポに逮捕されるユダヤ人の腕には、この「ダビデの星」を入れた腕章をつけられた。

映画「シンドラーのリスト」でもおなじみの光景だ。

英語ではthe City of Davidと書いて「エルサレム(Jerusalem)」となり、David and Jonathanと書いて「無二の親友」となる。

ダビデとゴリアトは、「旧約聖書」の「サムエル記」に書かれている。欧米などのキリスト教文化圏ではよく知られた紀元前10世紀ごろの物語である。ダビデは羊飼いの少年で、たて琴の名手だった。彼はベツレヘムの長老エッサイの8人の息子の末っ子である。

当時イスラエルはペリシテと戦争しているまっ最中で、両軍がにらみ合った状態だった。ペリシテ軍にはゴリアトという、「背丈3メートルを超え、頭には青銅の兜をかぶり、身には125ポンド(約57キログラム)の青銅の鎧(よろい)をまとい、足には青銅のすねあてを着け、肩には青銅の槍を背負った」男があらわれた。

彼は、イスラエルの隊列に向かって一騎打ちを要求。

自分が勝てばイスラエルが、イスラエルが勝てばペリシテが奴隷になるだろうという場面。イスラエル軍は、彼の勇士を見て震え上がった(「サムエル記」上、17・1・11)。その巨大なゴリアトに立ち向かったのは、なんと、少年ダビデだった。

ダビデは武具も着けず、近くの川で拾ってきた石5つを入れた投石袋を持っている。杖、石投げヒモだけで、ゴリアトと対決しようというのだ。

少年が出てきたのでゴリアトはダビデを侮り、ダビデの投げた石で額を砕かれ、前のめりになったところでとどめを刺されるのである(「サムエル記」上、17・17・51)。神のご加護を受けたダビデが、邪悪な敵ゴリアトを打ち破るというシーンである。――「タイム」の記事は、この物語をいっているのである。

ローカルのアメリカン航空が、パンアメリカン航空(パンナム)を飲み込んでしまったのも、おなじことがいえるだろう。

パンアメリカン航空(Pan American Airways/Pan American World Airways、通称:パンナム、Pan Am)は、1927年から1991年までアメリカ合衆国にあった航空会社である。1930年代から1980年代にかけて名実ともにアメリカのフラッグ・キャリアとして広範の路線網を展開し、世界の航空業界に対して非常に高い影響力を有していたが、航空自由化の進行と高コスト体質の改善失敗によって経営が悪化し、1991年に破産して消滅した。

脱線してしまった。

イギリス人なら、見ず知らずの人間3人がいっしょに暮らすハメになっても、殺し合うことはしないで、かなりの時間がたってから、紳士協定を結ぶかもしれない。あのアラブをめぐる「サイクス・ピコ協定」のように、裏で画策して、男同士取引きをするにちがいない。

「サイクス・ピコ協定って、何ですか?」と質問されたが、ぼくは映画「アラビアのロレンス」の話をし、お茶を濁した。イギリス人は裏取引きをするけれど、それが彼らの政治なのだとおもっている。けっし褒められるようなものではないが、日英同盟もそうして成立した。取引きじょうずなのだ。

脱線してしまった。イギリス人なら、見ず知らずの人間3人がいっしょに暮らすハメになっても、殺し合うことはしないで、かなりの時間がたってから、紳士協定を結ぶかもしれない。あのアラブをめぐる「サイクス・ピコ協定」のように、裏で画策して、男同士取引きをするにちがいない。

「サイクス・ピコ協定って、何ですか?」と質問されたが、ぼくは映画「アラビアのロレンス」の話をし、お茶を濁した。イギリス人は裏取引きをするけれど、それが彼らの政治なのだとおもっている。けっし褒められるようなものではないが、日英同盟もそうして成立した。取引きじょうずなのだ。