■シェイクスピアのSonnetがおもしろい! ――

pluck a rose(薔薇を摘む)通のソネットとは?

シェイクスピア・カントリーパーク

 

ぼくが25年前、――1999年に妻とともに「シェイクスピア・カントリーパーク」へ出向き、そこで考えたことをこれまでいろいろと書いてきました。考えたことの多くは、シェイクスピアのソネットのことです。シェイクスピアって、おもしろいと気づいたからです。

たとえば、……

 

  君ははじめ 女として創り出されたものだが、

  自然の女神は 創作の途中で 君に惚れてしまい、

  おまけをつけて 君を私から騙(かた)りとって

  しまったのだ、

  私には何の用にも立たぬ 一つの物をつけ加えて。

  自然の女神は 君を女たちの喜びのために特製し

  たのだから、

  君の愛情は私のものでも 愛の営みのほうは彼女

  らの宝だ。

  And for a woman wert thou first created,

  Till Nature as she wrought thee fell a-doting,

  And by addition me of thee defeated,

  By adding one thing to my purpose nothing.

  But since she pricked thee out for women’s

  pleasure,

  Mine be thy love, and thy love’s use their

  treasure.

 

などと書かれています。

さて、いきなりですが、これはシェイクスピア一流のおもしろい表現です。――自然の女神がつけ加えた「おまけ」、「一つの物」とは何を意味しているのかはいうまでもないでしょう。シェイクスピアっていう男は、にくらしいほど、人間心理の機微を剔抉 テッケツした言い方をしています。

「女たちの喜びのために特製した」の「特製」の原文pricked――prickは、ここでは「印をつけて選ぶ」というほどの意味なのですが、ほんらいは、「刺す、立てる」という意味があって、こんなすてきな語彙を持ってくるとは、何とにくらしいヤツ! 俗語ではもちろん陰茎を暗示しています。――そして、もともと女は、薔薇が好き。

 

 

   

    ウイリアム・シェイクスピア

――ちょっと余談ですが、英語にはpluck a rose(薔薇を摘む)という成句があります。英和辞典には「薔薇を摘む」、転じて「(女性が)外でのんびり、息抜きをする」と載っていると思いますが、英語成句のほんらいの意味は、「用をたす」という意味。「薔薇を摘んでくる」といって、じつは「用を足して」くるわけです。ひとりになって、用を足すのは息抜きであり、だれはばかることのない至福のときなのです。

日本語だって古来、「勘定する、勘定してくる」といって、外で用を足すじゃありませんか。しかし、べつに勘定してくるわけじゃない。

それと似ていることばです。

彼女たちも、外で薔薇を摘んでくるわけじゃない。それに、考えてみれば、日本もイギリスも、用をたす場所が、母屋から離れた庭にあったからで、いまでは「薔薇を摘んでくる」などといってトイレにはいかないでしょうけれど、ことばにはそれぞれ、つくられた時代がちゃんと反映されていて、そこがおもしろいはずなのに、どうして日本の辞典はちゃんと書かないのだろうとおもいます。

 

 

 

例文は、文中のW・Hに擬せられた人物にあてて書かれたソネット。

それは、自然の女神のピグマリオン的な恋愛をあくまで越えないかわりに、そこには「棘」があります。シェイクスピアお得意の卑猥語のなかで突出しているのは、なんといっても「薔薇」でしょう。

「薔薇」が女性性器を指し、薔薇にはトゲがあり、それこそ自然なんですが、その隠語の意味あいで読めば、黒い笑いや楽しみの冒瀆は、ここでも歴然としています。「薔薇」の花びらが咲いているところには「棘」があり、しかも、その棘がそそり立っているというのですから。――両性具有者W・Hの肖像を想像すると、それが立っていると思わせます。

これは、そのまま作者Will――シェイクスピアの生き写しであり、ドラマを観劇する者も、それを読むわれわれもまた、そうだといっているように読めませんか?

「地獄」とか「薔薇」とか、シェイクスピアの詩句のなかに散りばめられている奇妙な語彙は、そのまま読んでも分かるようにはなっているけれど、ほんとは違うんだよという、隠語にもなり得る語彙を、わざわざ「むしり取る」ようにして「摘み取り」、pluck upしてくるわけです。

しかし、果たしてW・Hは、シェイクスピアを天国に導く至福の、至高の、救済の、ダンテにとってのベアトリーチェであったのでしょうか。これを読む読者は、シェイクスピアのことばのレトリックの詐術にたぶらかされているとしか思えません。

 

 

 

 

  だがはっきりとは分からぬ 私は疑いつづけるばかりだ、

  悪天使が善天使を 地獄の穴から燻(いぶ)り出すまでは。

  Yet this shall I ne’er know, but live in doubt,

  Till my bad angel fire my good one out.

 

The Passionate Pilgrimに収録された2編のうちの1編で、しかも、詩集の冒頭におかれた2編のうちの1編なのです。2行目にある「spirits」は、人間をみちびく霊的存在、中世の道徳劇では中心に位置する人間を「善」と「悪」のspiritsを奪い合うことがひとつのpatternでした。

ここでいう善と悪とは、何を意味しているのでしょう? 

たとえば、「レ・ミゼラブル」でいうとすれば、――

 

シェイクスピアのSonnetに関する初回の論文ができあがったのは、昭和53年(36歳)のときだったが、明治大学のシェイクスピア研究家の橘忠衛教授は定年で大学を去っていて、指導を受けられなかった。

 

 

われわれは頂上にいる。優れたる哲学を持たなければならない。他人の鼻の頭より以上を見得ないならば、高きにいる事も何の役に立とう。愉快に生きるべしである。人生、それがすべてだ。人は未来の生を、かの天国にか、かの地獄にか、どこかに所有すると言わば言うがいい。私はそういう欺瞞(ぎまん)の言葉を信じない。ああ人は私に犠牲と脱却とを求める。自分のなすすべての事に注意し、善と悪、正と邪、合法と非法(ひほう)とに頭を痛めざるべからずと言う。しかし何のためであろう。私はやがて自己の行ないを弁義せなければならないであろうからというのか。そしてそれは何の時に? 死して後にである。何というりっぱな夢か? 死して後に私を取り上げるとは結構なことだ。影の手をもって私の一握(いちあく)の灰をつかむがいい。神秘に通じイシスの神の裳(もすそ)をあげたる吾人をして真を語らしめよ、曰(いわ)く、善もあるなく悪もあるなし、ただ生長あるのみ。真実を求むべきである。掘りつくすべきである。奥底まで行くべきである。真理を追い求め、地下を掘り穿(うが)ちてそれをつかまなければならない。その時真理は人に美妙なる喜びを与える。人は力強くなり、真に笑うことができる。私は確乎(かっこ)たる信念を持っている。司教さん、人間の不死というのは一つの狐火(きつねび)にすぎない。

(ユゴー「レ・ミゼラブル」第1部第1編第1章、豊島与志雄訳)

 

ジェームズ1世の欽定訳聖書を「King James Bible」というのですが、聖書の物語は、善、悪、奇跡、裏切り、殺人、売春、誕生、結婚、儀式など、この世で起きるさまざまな物語が出てくるけれど、数あるタナック(伝道書)の成立をめぐって、7つの大罪を決めたのは、トロント公会議であったでしょうか。

藤沢周平のばあいは、どうでしょうか。

「小川の辺」に出てくる男は、藩命により、討手(うって)となって、脱藩した者を斬り殺すという物語です。

この小説の主人公は、藩命により討手となりますが、その男は、じぶんの妹といっしょに脱藩して逃げまわっているというのです。そういうわけだから、「善の裏は悪」ということばどおり、人間は善人面をしていても、ときに悪人に変貌するという話です。悪に変貌したやからを成敗するために、藩のなかで最も剣に優れた者を選び出し、彼を討手にするということがままあった、その話です。

「善に強いものは、悪にも強いのだ!」ということば通り、善人もいったん悪に向かえば、とびっきりの悪人になる。その相手は、いま、じぶんの妹をひき連れて逃げまわっているという話がつづられています。

――かつてリンカーンは、「聖書は神が人間に与えられた最善の贈り物です。……それがなかったら、わたしたちは善悪の識別ができないでしょう」といっています。――以前のべた詩でもいっているように、地獄まで連れてゆかれるこの天国を避けて通ることができた者はだれもいない。……とすれば、人間はひっきょう同じ「穴(ヘル)」のムジナじゃないか、現に、この144番は、無残な2行連句でしめくくられています。

「燻り出すfire out」とは、もちろんキツネやムジナを煙でいぶして穴から追い出し、尻尾をとらえることですが、シェイクスピアの注釈版を出しているH・E・ロリンズという学者は、おもしろいことをいっています。

「fire out」には「性病をうつす」という意味もあるといっています(野島秀勝氏「迷宮の女たち」、1981年、TBSブリタニカ刊)。

またこの「fire」には、明らかに激しい肉欲の意味をふくんでいますから、この解釈も成り立つのかも知れません。

W・H氏が性病にかかったとなれば「黒の女」との関係も一目瞭然ということになり、性病にかかった「天使」とは――いってみれば「天使」の冒瀆もいよいよここにおいて感きわまったというべきで、しかし同性愛者ベアトリーチェのほうは、いったいどうなるの? 冗談じゃない!

この白の「善天使」も黒の「悪天使」と陰で密かに手をむすんで、シェイクスピアを地獄に真っ逆さまにつき堕とそうとしているのでしょうか。

H・E・ロリンズの説では、そう解釈することになります。

いささか倒錯した快楽、男も女も、そこを避けて通ったものはひとりもいないというのです。

性病や燻り出しにあっても、みんなくぐりぬけてきた、そういう解釈のようです。

「快楽の地獄をだれも避けることはできぬ」そういっています。

 

William Shakespeare「The Sonnets」The New English Library版。1962年。学生時代に読んだ英文科テキスト

 

 

――危険な関係。じつはこのW・Hの裏切り説のことですが、同時に、黒の女の裏切り、――つまり、シェイクスピアが密かに好意を持っていた女性の裏切り――は、シェイクスピアのロンドン不在中に密かにおこなわれていた、というものです。この説はもう80年以上まえからD・ウィルソンによって提唱されていた説です。

それはいつのことかはっきりしたことは分からないけれども、D・ウィルソンの説によれば、1597年の8、9月ごろと推定しています。ちょうど「ロミオとジュリエット」を執筆していたころと思われます。

まだ4大悲劇が世に出るちょっと前。

シェイクスピアはロンドンに帰ってから、W・H氏の裏切りが分かり、W・H自身が告白懺悔したと書かれています。

ほんまかいな!

 

  雨具も持たずに旅に出るようにさせながら、

  And make me travel forth without my cloak,

 

  君のかがやく栄光を 毒霧で包みかくすように

  させたのか。

  Hiding thy brav’ry in their rotten smoke?

 

いわゆる「密通」のソネットといわれるゆえんです。問題は、「雨具も持たずに旅に出る(travel forth without my cloak)」という文章。

もちろん、裏切られようとはつゆ知らず「雨具も持たずに」旅に出たというわけですが、この事件(?)はシェイクスピアにとっては青天の霹靂(へきれき)だったはず。――この「雨具」という隠語は、ぼくが学生のころ(1960年代に)おもったのは、「コンドームのことだろう」と。ちがうという友人はひとりもいませんでした。

邪悪な黒い雲、毒霧(rotten smoke)が、黒の女を指していることはいうでもないでしょうけれど、この「密通」行為のあらわれは、抜きがたい苦しみの十字架(Passion)を象徴する姿ともなり、先の文章にも書きましたヘンリー・ミラーの「薔薇の十字架」にも通じ、聖なる痕ならぬ「醜い傷痕」として生々しく、ずっと残りつづける受難(Passion)なのでしょうか。シェイクスピアはぼくに、辞典にも書かれていないモダーンな鐘のひびきを打ち鳴らしたのです。