NYのポール・ースター

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ポール・オースター「幽霊たち」、新潮文庫、1995年。ポール・オースター「ガラスの街」、新潮文庫、2013年。

 

 

おはようございます。――きょうはびつくりしました。あのポール・オースターが、先月、亡くなっていたのです! 

まずもって、信じられませんでした。――2024年4月30日の夜、ニューヨーク市ブルックリンの自宅で肺癌の合併症により亡くなっていたというのでい。77歳没。

彼の作品はニューヨーク、――特にブルックリンを舞台に描いています。

彼の作品が日本で比較的受容されている理由は、オースターの表現がアメリカの雰囲気を感じさせるからだそうです。あつかわれている土地が日本人になじみの多い場所が多いことも一因でしょうか。1993年、「リヴァイアサン」によってフランス・メディシス賞の外国小説部門賞を受賞しました。

リヴァイアサンというのは、旧訳聖書の「ヨブ記」に出てくる巨大な海獣の名であり、平和を象徴するとされています。また、2017年の「4321」は同年のブッカー賞の最終候補作品となったそうです。

 

 

昭和50年ごろの自分

1970年(昭和45年)、三島由紀夫割腹事件で揺れたころのじぶん(28歳)

 

――今朝はなんとなく、ひさしぶりにニューヨークの話をしたいなとおもいました。さいきん、ある友人から電話をもらった。ニューヨークから帰ってきたというのです。

「レストラン21(トゥエンティーワン)に行ったかい?」ときくと、

「21Club(トゥエンティーワン・クラブ)のことでしょう? そこで、ランチを食べてきましたよ」といっていました。

「ヘミングウェイの写真、あったかい?」ときくと、

「ありませんでしたよ」という。

「よく見てなかったんじゃないの? まあ、21Clubの話も、くわしく聞きたいね」というと、「来週、銀座で会いましょうか」ということになりました。先日、画家の勝間田弘幸さんと行った銀座の「カフェ&デリ・SOLEIL(銀座ソレイユ)」がいいとおもったのです。「じゃ、ソレイユにしましょう」ということになった。

 

 

ニューヨークといえば、当然ポール・オースターについて何か書きたくなる。

ポール・オースター(Paul Auster 1947~2024)は、ニューヨークの街をさかんに描いていました。特にブルックリンのあたりを舞台にした小説があります。

彼の作品が日本で比較的読まれている理由は、オースターの表現がアメリカの雰囲気を感じさせ、扱われている土地が日本人になじみの多い場所が多いからだろう、という人もいる。

しかも、彼の文章は、過去に遡るようにニューヨークを描くことが多く、あのシャーウッド・アンダーソンのように現在時制では描かず、ひと味違った描き方をする作家です。

ぼくが彼に注目したのは1980年代以降のことです。

彼の作家としての地位をゆるぎないものにしたのは、なんといっても「シティ・オブ・グラス(City of Glass,1985年)」、「幽霊たち(Ghosts,1986年)」、「鍵のかかった部屋(The Locked Room,1986年)」の3作ではないでしょうか。いずれもニューヨークを舞台にして描かれています。

 

 

 

 

この3作に共通しているのは、ニューヨークに住む孤独な人物が登場し、ふとしたことから、都市空間の迷宮に入り込むというような描き方をしていることでしょうか。まるで迷子になったかのように、人間の存在感の揺れる物語なのです。

たとえば、……。

 

ニューヨークは果てしない空間、出口のない迷路だった。どんなに遠くまで歩こうが、またどんなによく隣人や街路を知るようになろうと、彼はいつも自分が迷子になった気持ちがした。街のなかだけではない。自分自身のなかでも。散歩をするたびに、彼は自分を置き去りにしているように感じた。

「シティ・オブ・グラス」より

 

そんなふうに語っています。

1962年、ぼくが北海道のいなかから出てきて、銀座の街に住むようになって、世の中を見渡したとき、まさにそんなふうな気持ちがしたのをおぼえています。

当時の日本は東京オリンピックをひかえ、銀座通りの石畳が掘り返され、都電がなくなり、地下鉄工事がはじまって、銀座の通りはいたるところに鉄板が敷きつめられ、その上を歩かされました。

東京では、自分という一個の存在が、とても小さな存在であることをおもい知らされます。

オースターという作家は、都市を描きながら、ニューヨークは、アメリカのどんな都市とも違う視点で描写しています。

 

 

ポール・オースター・インタビュー。

 

 

たとえば、トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出(A Christmas Memory,1956年)」や「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's,1958年)」とはちがう描き方をしていること。

また、ヘミングウェイの「日はまた昇る」は、人によれば、観光案内のような描き方をしているという人がいるけれど、オースターのばあいも、シティとしてのニューヨークの都市空間機能、――交通アクセスや、観光名所などがいろいろと登場し、旅行者がながめるような視点で、驚きをもってニューヨークの街が描かれていることです。

「きみは想像する。このおなじ玉石の上を最初のオランダ人入植者たちは木の靴で歩いた。そしてさらに時を遡れば、だれもいない小路をすすみアルゴンクイン族の勇士たちが獲物を追いつめていったのだ」と書いたのは、ジェイ・マキナニーでした。

ソール・べロウもまたニューヨークを描きました。

彼の傑作「この日をつかめ(Seize the Day, 1956年)」は、アップダウンのブロードウェイ沿いにあるホテルの窓辺から眺めるニューヨークが描かれています。ニューヨークは、人種や階級の雑多な人びとが住んでいる街で、ほとんど一様に成功した老人がまことに多いのです。そういう人たちがホテルに住んで暮らしています。ブロードウェイに出ると、じつに雑多な人びとが歩いています。

 

ブロードウェイはまだ明るい昼下がりであった。排気ガスの立ち込めた空気は鉛のような陽光の輻(や)の下でほとんど動きがなく、おがくずの足跡が肉屋や果物屋の玄関先に残っていた。そして大きな、大きな群衆。あらゆる人種と階級の尽き果てることのない数百万の人びとの流れが吐き出され、ひしめき合っている。あらゆる年齢、あらゆる能力、あらゆる人間の秘密の持ち主たち。

ソール・べロウ「この日をつかめ」より

さっき電話をかけてきた友人は、まだ50代で、日本橋の証券マンである。大学がぼくとおなじで、学部はちがうが、先輩、後輩の間柄です。

彼は若いころヘミングウェイの「日はまた昇る」と読んだようですが、格別の感想は聴いていません。というより、彼は文学とは無縁の生き方をしています。

ニューヨークを舞台にした映画「タクシードライバー」がいいといってくれたのは彼でした。主演はロバート・デ・ニーロ。第29回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を受賞します。

 

 「そのタバコが燃え尽きたら、あんたの時間はおしまいよ。

 (When that cigarette burns out, your time up.)」

  (アメリカ映画「タクシー・ドライバー」より)

 

こんなセリフがありました。この映画には、元海兵隊員で、不眠症のタクシー・ドライバーが登場ます。大都会ニューヨークへの嫌悪と絶望を抱いている男です。街の恐怖と退廃を、鮮烈に描いた映画でした。1976年の問題作。

少女の娼婦が、ドライバーに身を売るシーンのセリフです。身を売るとはいっても、スカートを開いて、あそこをちょっとばかし見せるだけです。その持ち時間は、たばこ1本が燃え尽きるまでというわけ。

「When that cigarette burns out, your time up.」

むかし、1960年代のころには、東京にも、この種の安手の娼婦がいました。

あのころは、マッチ棒1本が燃え尽きるまででした。ほんの瞬間です。風が吹いて消えても、運の悪いことに、それでおしまい。

先輩と新宿界隈を歩いていて街角で声がかかり、女と出会ったことがあります。行った先は、夜の同伴喫茶だったようにおもいます。いちど女と、そういう店に入ったことがありました。そのときの店内は、真っ暗。

値段は、いくらだったのだろう。もう覚えていません。

学生のポケットマネーで買える程度だったからタカが知れています。いまのお金で5000円ぐらいではなかったでしょうか。女の下腹部は、期待したほどよく見えなかった。マッチの火は、薄ぼんやりしたものでした。見えないから、バカな男は燃えるのです。

映画のなかでは、ドライバーは異常なほど正義感を燃やし、少女をなんとか矯正(きょうせい)させようとする。そして、アメリカン・ヒーローとしての結末をもたらすわけです。

少女役になった女優は、マスコミでも取り上げられ、話題になった女優で、ジュディ・フォスターでした。ドライバー役に扮したロバート・デ・ニーロの表情が好きでしたね。

――ニューヨークという街は、富を求めて欲望をぎらつかせ、その気運にうまく乗ることのできた人間だけが、天井知らずの富と権力を手にすることができるのです。――スティーブン・クレインの描く「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説、あれはすごかったなとおもいます。

この小説は、娼婦を描いたことから、不道徳であると非難されました。

しかしこの物語は、結婚外で性的な関係をもった女性が破滅していく姿を描き、衝撃をあたえました。

ぎゃくにドライサーが描くキャリーという女性は、男を食い物にしてのしあがっていくしたたかな女性として描かれた。ドライサーの「シスター・キャリー」という小説は、処女作ながら現代アメリカ人女性の真の姿を描くことに成功しました。

1925年に発表された彼の代表作「アメリカの悲劇」は、貧しい青年が出世のために恋人を殺害し、死刑になるまでを描いたもので、この作品は、アメリカ自然主義文学の最高傑作とされています。

ぼくは、1900年から1930年までのアメリカの自然主義文学は、この2作で代表されるとおもっています。で、最後にひとこと。――クレインはそういう現実を直視した作家であるとともに、彼は詩人でもあったのだが、彼の詩についてはもう紙幅がなくなったので、いつか書いてみたいとおもいます。

スティーブン・クレインの見た街、ニューヨーク。

スティーブン・クレイン(Stephen Crane, 1871-1900年)という作家は、そういうニューヨークを描いた。彼は米ニュージャーシー州に生まれ、大学時代から「ニューヨーク・トリビューン」紙の通信員として働きながら、ニューヨークのスラム街を取材し、最下層の人びとの悲惨な暮らしを目のあたりにし、そのときの体験を通して、「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説を書いたのです。この小説は、娼婦を描いたことから、不道徳であると非難された。しかしこの物語は、結婚外で性的な関係をもった女性が破滅していく姿を描いたのです。

このころのニューヨークは、スラム街を形成することになったダウンタウンに多くの移民たちが流入し、人間も、本能や環境に支配される動物であり、弱肉強食、適者生存という自然がもつ法則が、人間社会にも強く働いていることを実感させる時代でした。

そんななかで、娼婦マギーは煩悶し、苦しみと悲しみの果てに自分の命を絶ちます。

ドヴォルザーク 

 

 

ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」。ボローニャ歌劇場フィルハーモニー、吉田裕史指揮。

 

先日も書きましたが、スティーブン・クレインといえば、アメリカの自然主義文学の先駆をなした作家といわれています。ヘンリー・ジェームズや、ジョセフ・コンラッドなどの同時代の作家から高い評価を受け、フォークナー、ヘミングウェイなど、のちの作家たちにも影響を与えました。

ニューヨークって、そういう街なのか? とおもう人も多い。

かつてはそうだったようです。

黒ずんだ背の高い工場に街路が閉じ込められて、たまに酒場から漏れてくる光が街路を照らす。酒場からは、特有の匂いとともに、ヴァイオリンがやたらとかき鳴らす音が聞こえ、敷いた板をぱたぱた踏み鳴らす足音が聞こえ、大通りの向こうに見える煌々とかがやくモダンな照明は、けっしてたどり着けない星にも見えるのです。

この小説を読むと、都会の群集ひしめく歩道や、ブロードウェイ、商店の緑色のショーウインドーを通して、街ゆく人びとの姿を映し出し、ぼくは日本のどこにもないアナザー・カントリーの、大急ぎで成長する街のようすを想像してしまう。

そういう街で、ウォルト・ホイットマンが生まれ、ハーマン・メルヴェルが生まれ、ヘンリー・ジェームズが生まれ、ドス・パソスが生まれ、スコット・フィッツジェラルドが生まれた。まさしく「グレート・ニューヨーク」と呼ぶにふさわしい街です。

その前に、ドヴォルザークはアメリカに招かれて、アメリカの子どもたちに音楽を教えた。そればかりか、新生アメリカを高らかに描く「新世界より」をつくったのです。

ニューヨークといえば、アメリカの音楽界のまさに震源地だった。ニューヨーク・フィルはもとより、メトロポリタン歌劇場といった世紀の殿堂では、イタリア語、ドイツ語、フランス語によるオペラを上演し、ヨーロッパ世界の音楽家やスターたちが大挙してやってきます。それでも、アメリカ独自の水準と特性はまだなく、アメリカ音楽を標榜する芸術音楽に目覚めていません。

サーバー夫人は、たんに自分の音楽院の知名度をあげることだけを考えていたのではなく、このアメリカにドヴォルザークを招くにあたって、アメリカの音楽的気運を少しでもゆたかにしてくれることを期待していたようです。

しばらくして、ドヴォルザークは、アメリカの音楽というのは、いったい何だろうと考えるようになった。ボストン・フィルでは「テ・デウム」、ニューヨーク・フィルでは「交響曲第6番」が演奏され、絶賛されたものの、彼はアメリカの国民音楽とは何かをめぐる、いつ果てるとも知れない論争の渦中に投げ出されます。

その街は、かつてオランダの街です。

ニューアムステルダムと呼ばれ、むかしは、オランダ以外の人びとは、その街を「ニューネザランド」と呼んだのです。

どうも、「ネザランド」ということばには、悪魔の棲む場所という意味があり、いくぶん蔑称気分でそう名付けたのでしょうか。

しかしオランダ人は、平気で使っているばかりか、自国のネーミングに誇りさえ持っていて、いまだに変えようとしない。なかでもウォールストリート(Wall Street 米国資本主義のシンボル。壁はオランダ植民地時代に築かれた)街は、文明社会と自然との境界線といえ、オランダ人が資本主義経済を守るための壁でもあったのです。

マンハッタンは人種の坩堝(るつぼ)と化し、だんだんオランダ人は少数派になっていくが、ニューヨークという街は、どんな人でも受け入れる街であり、アメリカ人になろうとしてやってきた移民であふれた街。

しかし、貧乏のどん底にあえぐ人びとは、けっして夢を捨てない。ですから、アイルランドからやってきた人びともまた、成功する人生を築こうとして、この街へやってきたわけです。

当時、アイルランド人は白人扱いされなかった。黒人扱いされて、こき使われたが、その夢はだんだん熱を帯び、発熱し、やがてアメリカン・ドリームとなっていく。

イギリスの諺に、「カラスムギは、英国では馬が食べるが、アイルランドでは人間が食べる」というのがあります。アイルランド人の多くは小作農に従事した。彼らはじゃがいもを食べて飢えをしのぎ、じゃがいもも、しばしば病気に侵されて、大飢饉が頻発する。そういうことがあっても、多くのアイルランド人はアメリカに渡ったのです。

やがてジョン・F・ケネディ、ロナルド・レーガンというふたりの大統領も生まれます。

スティーブン・クレインの「街の女マギー」の主人公マギーは、ぼくには、そういうアイルランド人に見えてしまう。偉大な先駆的な作家です。彼は29歳で亡くなりました。