■ニューヨークを描いた作家。――

スティーブン・レインやソール・ローように

きょうは、真夏然とした陽気な世界が裏返えって、とつぜん、雷雨に見舞われた。

スティーブン・クレインの第二の長編「勇気の赤い勲章」(光文社古典新訳文庫、2019年)が翻訳されていることを知らなかった。さっそく手に入れて、読みはじめた。しかも、翻訳はじぶんが深く尊敬している藤井光氏である。

先日も、北海道の友人から電話をもらった。

「田中さんはいま、どんな心境ですか」ときかれて、

「まあ、使う紙はホワイトワトソンの300g/㎡で、透明水彩画の三原色でいうと、赤はピロールレッド、黄はイミダゾロンレモン、青はフタロブルーレッドシェードってとこかな。絵具はすべてホルベイン。色はこれだけでいい。JWS……日本透明水彩会の透明水彩のレシピどおりにいえばね。なんだか、ニューヨークの匂いがしてくる」といった。

 

      

       スティーブン・クレイン「勇気の赤い勲章」(光文社古典新訳文庫、2019年)。

 

ニューヨーク。――ニューヨークといえば、ポール・オースターについて何か書きたくなる。ポール・オースター(Paul Auster 1947年~)は、ニューヨークの街をさかんに描いている。特にブルックリンのあたりを舞台にした好きな小説がある。

彼の作品が日本で比較的読まれている理由は、オースターの表現がアメリカの雰囲気を感じさせ、扱われている土地が日本人になじみの多い場所が多いからだろうという人がいる。しかも、彼の文章は、過去に遡るようにニューヨークを描くことが多く、あのシャーウッド・アンダーソンのように現在時制では描かず、ひと味違った描き方をする作家である。

ぼくが彼に注目したのは1980年ごろからだった。

彼の作家としての地位をゆるぎないものにしているのは、なんといっても「シティ・オブ・グラス(City of Glass, 1985年)」、「幽霊たち(Ghosts, 1986年)」、「鍵のかかった部屋(The Locked Room, 1986年)」の3作ではないだろうか。いずれもニューヨークを舞台にして描かれている。

この3作に共通しているのは、ニューヨークに住む孤独な人物が登場し、ふとしたことから、都市空間の迷宮に入り込むというような描き方をしていることだろう。まるで迷子になったかのように、人間の存在感の揺れる物語なのだ。

たとえば、……。

 

ニューヨークは果てしない空間、出口のない迷路だった。どんなに遠くまで歩こうが、またどんなによく隣人や街路を知るようになろうと、彼はいつも自分が迷子になった気持ちがした。街のなかだけではない。自分自身のなかでも。散歩をするたびに、彼は自分を置き去りにしているように感じた。

(ポール・オースター「シティ・オブ・グラス」より)

 

――まあ、こんなふうに語っている。

ソール・ベロー。

 

1962年、ぼくが北海道のいなかから出てきて、銀座の街に住むようになって、世の中を見渡したとき、まさにそんなふうな気持ちがしたのをおぼえている。

当時の日本は東京オリンピックをひかえ、銀座通りの石畳が掘り返され、都電がなくなり、地下鉄工事がはじまって、銀座の通りはいたるところに、つるつるした鉄板が敷きつめられ、その上を歩かされた。

雨が降れば、鉄板の上を雨水が流れこみ、危険な道になる。

そのときぼくは、じぶんという一個の存在が、途轍もなく小さな存在であることをおもい知らされた。

オースターという作家は、都市を描きながら、ニューヨークは、アメリカのどんな都市とも違う視点で描写している。たとえば、トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出(A Christmas Memory, 1956年)」や「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's, 1958年)」とはちがう描き方をしている。

ヘミングウェイの「日はまた昇る」は、人によれば、観光案内のような描き方をしているという人がいるけれど、オースターのばあいも、シティとしてのニューヨークの都市空間機能、――交通アクセスや、観光名所などがいろいろと登場し、旅行者がながめるような視点で、驚きをもってニューヨークの街が描かれている。

「きみは想像する。このおなじ玉石の上を最初のオランダ人入植者たちは木の靴で歩いた。そしてさらに時を遡れば、だれもいない小路をすすみアルゴンクイン族の勇士たちが獲物を追いつめていったのだ」と書いたのは、ジェイ・マキナニーである。

ソール・べロウもまたニューヨークを描いた。彼の傑作「この日をつかめ(Seize the Day, 1956年)」は、アップダウンのブロードウェイ沿いにあるホテルの窓辺から眺めるニューヨークが描かれている。ニューヨークは、人種や階級の雑多な人びとが住んでいる街で、ほとんど一様に成功した老人がまことに多い。そういう人たちがホテルに住んで暮らしているのだ。ブロードウェイに出ると、じつに雑多な人びとが歩いている。

 

ブロードウェイはまだ明るい昼下がりであった。排気ガスの立ち込めた空気は鉛のような陽光の輻()の下でほとんど動きがなく、おがくずの足跡が肉屋や果物屋の玄関先に残っていた。そして大きな、大きな群衆。あらゆる人種と階級の尽き果てることのない数百万の人びとの流れが吐き出され、ひしめき合っている。あらゆる年齢、あらゆる能力、あらゆる人間の秘密の持ち主たち。

(ソール・べロウ「この日をつかめ」より)

 

 

 

先日、電話をかけてきた北海道の友人は、まだ60代で、広告代理店の社長をしている。彼とおなじ職場だったこともある。大学がぼくとおなじで、学部はちがうが、先輩、後輩の間柄だ。

後輩は若いころヘミングウェイの「日はまた昇る」を読んだらしいが、格別の感想は聴いていない。というより、後輩は文学とは無縁の生き方をしている。その彼から、さいきんの電話で、ニューヨークの話をいろいろと聞いている。

その話のなかに、映画「タクシー・ドライバー」に登場するデ・ニーロの話が飛び出す。ニューヨークを舞台にした映画「タクシードライバー」がいいといってくれたのはその後輩だった。主演はロバート・デ・ニーロ。第29回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を受賞した。

 

「そのタバコが燃え尽きたら、あんたの時間はおしまいよ。(When that cigarette burns out, your time up.)」は、きめめつきのセリフだ。

(アメリカ映画「タクシー・ドライバー」より)

 

 こんなセリフがあった。その話をすると、友人は「あっははははっ」と笑った。

この映画には、元海兵隊員で、不眠症のタクシー・ドライバーが登場する。大都会ニューヨークへの嫌悪と絶望を抱いている男である。街の恐怖と退廃を、鮮烈に描いた映画だった。1976年の問題作。少女の娼婦が、ドライバーに身を売るシーンのセリフである。身を売るとはいっても、スカートを開いて、あそこをちょっとばかし見せるだけである。その持ち時間は、たばこ1本が燃え尽きるまでというわけ。

――ニューヨークという街は、富を求めて欲望をぎらつかせ、その気運にうまく乗ることのできた人間だけが、天井知らずの富と権力を手にすることができる。――スティーブン・クレインの描く「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説、あれはすごかったなとおもう。この小説は、娼婦を描いたことから、不道徳であると非難された。しかしこの物語は、結婚外で性的な関係をもった女性が破滅していく姿を描き、衝撃をあたえた。

ぎゃくにドライサーが描くキャリーという女性は、男を食い物にしてのしあがっていくしたたかな女性として描かれる。ドライサーの「シスター・キャリー」という小説は、処女作ながら、現代アメリカ人女性の真の姿を描くことに成功した。

1925年に発表された彼の代表作「アメリカの悲劇」は、貧しい青年が出世のために恋人を殺害し、死刑になるまでを描いたもので、この作品は、アメリカ自然主義文学の最高傑作とされている。

ぼくは、1900年から1930年までのアメリカの自然主義文学は、この2作で代表されるとおもっている。で、最後にひとこと。――クレインはそういう現実を直視した作家であるとともに、彼は詩人でもあったのだが、彼の詩についてはもう紙幅がなくなったので、いつか書いてみたいとおもう。

スティーブン・クレインの見た街、ニューヨーク。

スティーブン・クレイン(Stephen Crane, 1871-1900年)という作家は、そういうニューヨークを描いた。彼は米ニュージャーシー州に生まれ、大学時代から「ニューヨーク・トリビューン」紙の通信員として働きながら、ニューヨークのスラム街を取材し、最下層の人びとの悲惨な暮らしを目のあたりにし、そのときの体験を通して、「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説を書いたのである。

このころのニューヨークは、スラム街を形成することになったダウンタウンに多くの移民たちが流入し、人間も、本能や環境に支配される動物であり、弱肉強食、適者生存という自然がもつ法則が、人間社会にも強く働いていることを実感させる時代だった。そんななかで、娼婦マギーは煩悶し、苦しみと悲しみの果てにじぶんの命を絶つ。

スティーブン・クレインといえば、アメリカの自然主義文学の先駆をなした作家といわれている。ヘンリー・ジェームズや、ジョセフ・コンラッドなどの同時代の作家から高い評価を受け、フォークナー、ヘミングウェイなど、のちの作家たちにも影響を与えた。ニューヨークって、そういう街なのか? とおもう人も多いだろう。かつてはそうだったようだ。

黒ずんだ背の高い工場に街路が閉じ込められて、たまに酒場から漏れてくる光が街路を照らす。酒場からは、特有の匂いとともに、ヴァイオリンのやたらとかき鳴らす音が聞こえ、敷いた板をぱたぱた踏み鳴らす足音が聞こえ、大通りの向こうに見える煌々とかがやくモダンな照明は、けっしてたどり着けない星にも見えるのである。

この小説を読むと、都会の群集ひしめく歩道や、ブロードウェイ、商店の緑色のショーウインドーを通して、街ゆく人びとの姿を映し出し、ぼくは日本のどこにもないアナザー・カントリーの、大急ぎで成長する街のようすを想像してしまう。

そういう街で、ウォルト・ホイットマンが生まれ、ハーマン・メルヴェルが生まれ、ヘンリー・ジェームズが生まれ、ドス・パソスが生まれ、スコット・フィッツジェラルドが生まれた。まさしく「グレート・ニューヨーク」と呼ぶにふさわしい街である。

その街は、かつてオランダの街だった。かつてはニューアムステルダムと呼ばれ、むかしは、オランダ以外の人びとは、その街を「ニューネザランド」と呼んだ。どうも、「ネザランド」ということばには、「悪魔の棲む場所」という意味があり、いくぶん蔑称気分でそう名付けたのだろう。

しかしオランダ人は、平気で使っているばかりか、自国のネーミングに誇りさえ持っていて、いまだに変えようとしない。なかでもウォール(壁)街は、文明社会と自然との境界線といえ、オランダ人が資本主義経済を守るための壁でもあった。

マンハッタンは人種の坩堝と化し、だんだんオランダ人は少数派になっていくが、ニューヨークという街は、どんな人でも受け入れる街であり、アメリカ人になろうとしてやってきた移民であふれた街。貧乏のどん底にあえぐ人びとも、けっして夢を捨てない。

だから、アイルランドからやってきた人びともまた、成功する人生を築こうとして、この街へやってくる。当時、アイルランド人は白人扱いされなかった。

黒人扱いされて、こき使われたが、その夢はだんだん熱を帯び、発熱し、やがてアメリカン・ドリームとなっていく。

イギリスの諺に、「カラスムギは、英国では馬が食べるが、アイルランドでは人間が食べる」というのがある。アイルランド人の多くは小作農に従事した。

彼らはじゃがいもを食べて飢えをしのぎ、じゃがいもは、しばしば病気におかされて、大飢饉が頻発する。そういうことがあっても、多くのアイルランド人はアメリカに渡った。やがてジョン・F・ケネディ、ロナルド・レーガンというふたりの大統領も生まれた。

スティーブン・クレインの「街の女マギー」の主人公マギーは、ぼくには、そういうアイルランド人に見えてしまう。偉大な先駆的な作家である。彼は29歳で世を去った。

――きょうはどんよりとした天気で、ときどきインデアン・サマーのように、一瞬の日向をつくったが、ふたたび陰ってしまい、老人たちや、藪にらみの世捨て人たちの憩うちょっと肌寒い午後となった。