16万光年かなたの新星爆発、

そのュートリノをつかむ

 

梶田隆章氏ご夫妻。――2015年12月10日、ストックホルムのコンサートホールでノーベル賞授賞式がおこなわれ、スウェーデンのカール16世グスタフ国王から物理学賞のメダルと賞状を授与された。

 

 

梶田隆章氏は、それまでにも「ニュートリノ振動」と呼ばれる現象について幾度か学会で発表してきた。しかし、「エビデンス(証拠)」ということばを使ったのは、そのときがはじめてだった。その理由について、少し述べたい。

エビデンス(evidence)とは、本来は医療用語、学術用語として使われており、「根拠」という意味もある。ビジネスシーンでは、「根拠」、「証拠」または「裏付け 」という意味合いで使われている。

素粒子実験の世界では、研究者は「エビデンス」ということばを簡単に使うことはゆるされていない。ほんとうに「間違いがない」という確信が持てる状態になるまで、「エビデンス」とはいえない。もっと具体的にいうと、99・9%確かでも、つまり、間違っている可能性が0・1%あれば「発見」という語は使えない。この場合は「兆候」といっている。

この確かさを表すのに専門家は「σ(シグマ)」という値を使う。シグマが明らかに「発見」といえるのは、99・9999%と、9が6つ並んだときということになっている。

先年は、ひさしぶりに、東京大学の安田講堂に出かけたときのことだった。

ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「次世代へのメッセージ」と題して、1973年ノーベル物理学賞受賞の江崎玲於奈氏(当時93歳)と、2015年ノーベル物理学賞受賞の梶田隆章氏(当時59歳)のふたりを招いての講演会がひらかれた。

梶田隆章氏は、テレビでもおなじみの表情をしていて、あのむずかしい「ニュートリノ振動」の発見という偉業を成し遂げた方とはおもえない、はにかんだような表情をされていたのがとても印象的だった。

いっぽう江崎玲於奈氏は、これまた写真などで、ぼくにはおなじみの方で、お年の割には、いまもかくしゃくとされていて、量子論の不思議な世界をユーモアあふれる説明でお話をされていた。江崎氏は、東京大学理学部理学科を出られ、

「この安田講堂を、じぶんにはなつかしく思いだされます」といって、ぐるりと見まわされた。

安田講堂(1925年)は、正式には東京大学大講堂といい、東京大学の学内では通称「安田講堂」という。収容人数は、1144席(3階席728席、4階席416席)で、安田財閥の創始者・安田善次郎(1838-1921年)の匿名を条件にした寄付により建設された。

やがて、安田の死後に寄付を行なっていたことが知られるようになったことで安田をしのび、一般に安田講堂と呼ばれるようになったものである。

じぶんの真後ろの席にすわった年配の女性が話していることを聴いていたら、安田善次郎という人は、1921年10月27日、風間力衛を名乗る男によって、短刀で喉を刺され、殺害されたというのだ。

大学に寄付をする詳しいいきさつについては知らない。10年前におとずれたときより、安田講堂の玄関の外壁がいっそう傷んでいたのが気になった。入るときは気にしなかったが、そこを出るとき、東京大学のシンボル的な建物を振り返って見たとき、雨の中で建物はひどくくすんで見えた。

2015年、日本の物理学者は、素粒子ニュートリノ発見で、標準理論を超える新たな地平を切り開いたのはたしかだ。ニュートリノは質量がゼロとうたわれていたが、「ニュートリノ振動」の発見によって、ニュートリノには質量があることがわかったというものである。

1983年、岐阜県神岡町にある神岡鉱山の地下1000メートルの場所に、小柴昌俊博士が考案した素粒子観測装置「カミオカンデ」がつくられた。

その装置で、マゼラン星雲からやってきた超新星ニュートリノをつかまえることに成功したのである。ニュートリノがもたらすチェレンコフ光を検出することに成功したのである。それで、小柴昌俊博士は、2002年にノーベル物理学賞に輝いた。このときから、日本は、天体物理学の分野の新たな扉を開いたのである。

 

 

 

1987年2月23日、約16万光年はなれた大マゼラン星雲で超新星爆発がおきた。

カミオカンデは世界ではじめて超新星から飛来した11個のニュートリノを検出した。理論では予測されてはいたが、超新星ニュートリノが観測されたのははじめてだった。

その後、陽子崩壊とニュートリノの謎に挑む「スーパーカミオカンデ」がつくられた。陽子崩壊の瞬間をとらえることができれば、素粒子物理学のなかで多くの謎が残る「大統一理論」の新たな検証となる。それと、もうひとつの目的は、ニュートリノの観測だった。

スーパーカミオカンデは、ニュートリノや陽子崩壊で発生するチェレンコフ光をとらえることで、ニュートリノ反応や陽子崩壊を観測することができる。地下深くにもうけられたのは、宇宙線や電波などの観測の障害になるものを地中に吸収させるためである。

スーパーカミオカンデの水槽は、内水槽と外水槽それぞれ容量は3万2000トンと1万8000トン。そのなかには、内水槽には1万1100本、外水槽には1900本の光電子増倍管が取り付けられている。

ニュートリノ振動。――カミオカンデでは、ミューニュートリノが、タウニュートリノに変身する《ニュートリノ振動》現象は、すぐには判断できなかった。

観測データを検証してすぐには判断ができなかったが、それがおきることは知られていた。中川昌美、坂田昌一、牧二郎、ブルーノ・ポンテコルボなど先駆的な研究で、それがおきることはよく知られていた。約10年間はデータ解析に費やされ、その結果、ニュートリノ振動がじっさいに起きていることがわかったというもの。

ニュートリノは圧倒的に軽く、当初はそれが問題だった。

ュートリノのフレーバーは、質量の決まった波の重ね合わせとなり、ニュートリノが空間を飛ぶ間に波の位相が変化し、フレーバーの種類が移り変わる。 この現象を「ニュートリノ振動」と呼ばれる。

ニュートリノ振動で、ニュートリノには質量があることがわかったわけだが、「特殊相対性理論」では、物体が速く動くと、物体とともに動いている時間はゆっくりとすすむ。どんどんスピードをあげて光速に近づいていくと、時計はほとんど進まなくなる。

ニュートリノが途中で変化したということは、途中で時間がすすんだということを意味しているのだろうか? その速さは光速ではないということ。光速で飛べるのは質量がないばあいであって、もしも質量があれば、光速で飛ぶことはできない。

 

 

 

 

このようにして、ニュートリノは、「反物質の謎」にせまる鍵をにぎっていることがわかった。ビッグバン宇宙は、その後冷えていき、現在の宇宙になった。ビッグバンのひじょうに熱い宇宙の初期の段階では、どう考えても物質と反物資が同じ数だけつくられたとおもわれる。

それがだんだん冷えていく過程で、どこかで物質の《素》だけが残らないといけないのだが、それにニュートリノが深くかかわっているのではないか、といわれている。

物質と反物質の数が合わないのだ。梶田隆章博士の考えでは、そのように説明されている。

数が合わないために、物質の世界が誕生した。

こうして、変身するニュートリノの発見で、「ニュートリノ振動」を説明することができ、ニュートリノには質量があることを証明したのである。梶田隆章博士は2015年、その発見でノーベル物理学賞を受賞した。

「ハイパーカミオカンデ」の構想は、こうした日本の物理学者たちの功績を一段とすすめる画期的な構想で、2025年の実験開始に向けて大きく動きはじめた。

その装置は、地上634メートルの東京スカイツリーが、地表からさかさまに地下に向かって伸びているようなイメージをおもい浮かべてしまう。その地下の先端は、東京ドームに匹敵する巨大な堆積を誇る水槽でできており、2015年、この構想に向けて、計13か国の国際研究グループが結成された。

スーパーカミオカンデが5万トンの水槽であるのにたいして、ハイパーカミオカンデは、100万トン。その内壁には直径50センチの高感度センサーが10万個取り付けられている。この高感度センサーは、微弱なチェレンコフ光を、さらに強力なセンサーでとらえようという装置である。

「(それらは)産業利益でなく、人類の知識のために」というのが、小柴昌俊博士の考えである。

日本の素粒子物理学は、いま、小柴昌俊博士のいう路線をまっすぐに突き進んでいる。その構想の母体は朝永振一郎博士との交流から生まれたものといわれている。日本のニュートリノ研究の系譜はいま、若い研究者に引き継がれた。

ヒッグス粒子による質量獲得というアイデアの元は、南部陽一郎博士だった。

2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎博士は、ヒッグス粒子によって素粒子が質量を獲得するメカニズム、――「対称性の自発的やぶれ」を考えだされたことで知られる。「CP対称性のやぶれ」のCは、Charge(電荷)の頭文字で、Pは、Parity(鏡映)の頭文字である。

今後は、ニュートリノは、望遠鏡としても期待されている。現に、日本チームは、ピラミッドの内部をレントゲンのように、人工のニュートリノを飛ばして内部の映像化に成功している。未知の長い箱状の空間のあることが発見された。

さらに、星のウラ側や、星の真ん中は知ることができなかったが、星のなかを飛んで行けるニュートリノを使えば、なんでも見通すことができる。――ぼくは帰りに東京の街を歩きながら、頭のなかでこんなことを考えていた。

梶田隆章氏の説明によれば、「理論と異なる現象に着目したこと」に成果があったという。そういう梶田隆章氏は、東京大学小柴昌俊氏の研究室に22歳で飛び込んだのだった。

「電子と陽電子の衝突実験を行なう」という1行だけの研究室紹介分に惹かれて応募したという。それが、ニュートリノという新分野の探求に切り替わったのである。

「わたしたちの研究は、人びとの明日の暮らしには何ら貢献しません。けれども、知の地平を広げることには大いに貢献していると自負しております」という。そして「純粋に、自然界の成り立ちを知りたいという気持ちだった」と語る。

なかなかヒッグス粒子が見つからないので「くそったれ(Goddamn)粒子」と名付けようとしたのを止められたという。

2013年のノーベル物理学賞を受賞したヒッグス粒子の理論を想い出してみたい。ヒッグス博士らがこの素粒子を《予言》したのは1964年だった。それがスイスの巨大加速器で発見されたのは、半世紀後の2012年だった。

この「ヒッグス粒子発見!」に、われも両手を挙げて感動した想い出がある。

発見とノーベル賞受賞にかなりの時間差があるのはまれでない。もちろん基礎研究のおもしろさにとり憑かれた人たち、そういえるのかもしれない。まるで、少年のようなきらきらした目で語る梶田隆章氏に、みんなは微笑みながら大きな拍手を送った。