り鳥はっていた!

 

ぼくはよく早朝散歩をする。

きょうも4時に起きて、ベランダの猫の餌をやり、洗顔をすませると着替えて階段を下り、書斎のパソコンをONにしてメールチェックをすると、ひとりコーヒーメーカーをセットしてコーヒーを飲む。それから散歩に出かける。

今朝も、ほの暗いうちから街なかを歩いた。歩きながら考えた。

先年、東京都美術館で開かれた新洋画会展に出向いたときのことだった。昨年、内閣総理大臣賞を受賞なさった友人の絵が、今年も出品されていて、みんなでそれを見に出かけた。100号とか、120号というような大きな画布を見て、ぼくは圧倒されてしまった。高橋俊景画伯も同行された。先生のお弟子さんが目覚ましい活躍をされていて、さぞ先生も誇らしい気持ちになったにちがいない。

観終わってから、みんなで東京藝大のレストランに入った。

学生たちとともにぼくらは食事をし、絵の話をした。ぼくはみんなの話を聞いていて、また絵を描いてみたくなった。そして今朝、散歩をしていておもい出された絵は、ゴヤの恐ろしい絵だった。

あれはゴヤの絵だったなとおもう。

ぼくは、ある戦争画に釘づけになった。ゴヤの戦争画である。侵略者たちによる無辜(むこ)の民の虐殺シーンを、82枚にわたって克明に描かれている。まるで永遠の一瞬を絵に焼きつけたかに見える。ピカソの「ゲルニカ」もそうだ。

この絵を紹介しているのは、専門家の中野京子氏の「怖い絵 死と乙女篇」(角川文庫、2012)という本だった。ゴヤといえば、「マドリッド、1808年53日」が有名で、これもまた、もちろん戦慄をおぼえる絵なのだが、ぼくはペン画で描かれたそれら多くのドキュメント絵を見て衝撃を受けずにはいられない。

 

左は太田英博画伯、右は田中幸光

ぼくはデンマークのカーレン・ブリクセンが書いた「冬物語」のシーンをおもい出す。コペンハーゲンの北郊のルングステズルンというところに、カーレン・ブリクセンの生まれ育った家があるそうだ。彼女はアフリカから帰国し、作家としてそこで生涯を送った。

「冬物語」といえば、もちろんシェイクスピアの「冬物語」のほうが知られているが、冬の夜、暖炉で女たちがあつまって語って聞かせるおきど話のことを「冬物語」としたようだが、そこで語られる話はじつに恐ろしいのだ。

「冬は悲しいお話じゃなければ……(A sad tale's best for winter.)」と書かれている。冒頭の「少年水夫の物語」のなかに、バーク帆船シャーロッテ号に乗り込んだ少年の話が出てくる。マルセイユからアテネに向かう情景が描かれ、メインマストの上檣(じょうしょう)帆桁を見上げながら、彼は小鳥たちが帆木につかまって羽をやすめている鳥たちを見つめる。見ると、鳥たちが帆あげ索のゆるみに足をとられ、なんとかして逃れようと羽をばたばたさせている。

こいつらも、生きることに懸命なのだとおもう。

この世では、だれでも他人をあてにせず、なんでも自力でやっていかねばならない。少年は、それでもこの無言の死闘に一時間以上も見とれている。ツバメ、ウズラ、ムクドリ、ハヤブサ。マストのてっぺんにとまっているのはハヤブサだった。彼らは嵐のなかでも生きるために殺し合う。身を優位にするために安全なマストにとまる。生きるために殺し合っても、お互いに恨んでいるふうには見えない。

「恨みっこなしだぜ!」といっているようだ。ぼくはこの物語は、人間のおこす戦争とはちがうなとおもう。戦争には恨みがともなう。

大規模な塹壕戦がくり広げられた第1次世界大戦、そして第2次大戦は、ヨーロッパで相次いだユダヤ人虐殺、スターリンの大粛清、無差別爆撃や原爆に象徴される20世紀最大の戦争は、なによりも20世紀の「進歩の時代」を加速したという専門家の話に聴き惚れているうちに、いつの間にか、戦争を正当化する風潮を鵜呑みにしてきた。

それでアメリカは200回も戦争をし、大国の誇りを保ってきた。

いまその世紀を超えて、夏になったら、地球のあちこちから渡ってくるツバクロが、いま姿を消していることに無頓着ではいられない。

ある人はいう。

「ツバメは、初夏の旅人だよ」

今年はどうしたことか、まだツバメの姿が見えないのだ。

「何か、あったのかい?」ときいてみたくなる。5月10日の愛鳥の日はもう過ぎたが、バードウィークにおもったことはそれだった。ある人はこういった。

「渡り鳥は世界を知っているんだ!」と。

アリューシャン列島は渡り鳥の道である。

かつての縄文人は、渡り鳥のルートをたどって、渡り鳥を見ながら移動していったにちがいない。鳥も知っていたに違いない。島伝いに行くのがもっとも安全なコースであることを――。戦前まで、千島列島は日本の領土だった。

日本軍は千島列島の北端に海軍基地と飛行場を設け、本土防衛の最前線基地とした。太平洋戦争はハワイの真珠湾攻撃からはじまった。日本の空母艦隊が出撃拠点にしたのは、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)だった。

日本軍はさらに、アメリカの領土であるアリューシャン列島のキスカ島、アッツ島を占領して守備隊を送り込んだ。アリューシャン列島をすすめばアラスカ本土に到達する。

日本軍は、北太平洋の洋上に弧を描いて連なるアリューシャン列島、千島列島を島伝いにたどる作戦を敷いた。近代戦を見てもそうなのだから、縄文人がアメリカ大陸への移動ルートを、ベーリング海ルートを取って移動していった可能性は、かなりの確率であたっているのではないかとおもわれる。

その道は、渡り鳥の道でもある。しかも現在より、海抜は100メートルから200メートルも低く、ところどころ陸が連なっていたことだろう。第2次世界大戦では、その道はやがて戦争の道になった。