■北海道開拓時代。――

ラーク博士のしたもの

 

クラーク博士、51歳

 

近代日本の劈頭(へきとう)を飾る人物、そして北海道開拓の中心人物、そのW・クラーク博士とは、どういう人だったのだろう? 

さいきん、漫然と北海道開拓時代をしらべていくうちに、クラーク博士についてもっと知りたいと思った。ちょっとしらべたことを、以下、かんたんにまとめてみる。

現在は、どこでも4月から新学期を迎えるけれど、とうじ、学校はどこも、9月から新学期を迎えた。卒業式のすこし前の7月のある日、――日付はわからないが、――東京英語学校の教室に、3人の外国人が参観にやってきた。これは異例のことである。

ウィリアム・クラークとその弟子のペンハロー、ホィラーの3人だった。

クラークは、その教室で演説した。それは、北海道開拓を目的とした、アメリカのマサチューセッツ州にあるアマースト大学とおなじ講義カリキュラムを編成した官立の農科大学を札幌につくるという構想をのべる演説だった。

日本がこれから発展するためには、北海道の開発が急務であり、未開地を開拓し、拓殖思想を実現させる必要がある。これに参加したいとおもう若者がおれば、ぜひ、参加してほしい。――そういう内容の演説だった。

 

 

 

 

そこを卒業する予定者のなかに、南部藩士の佐藤昌蔵の息子・佐藤昌介、田中館愛橘、藤沢利太郎、土方寧、高田早苗、市島謙吉らがいた。クラークの話を聞いて、東京の開成学校をやめて未開の北海道で新設の農科大学に入ることを希望する者があらわれた。

佐藤昌介、大島正健、渡瀬寅次郎がクラークの学校に入ることをそうそうに決心する。その1年後輩の佐藤昌介の友人・新渡戸稲造は、その話を聞くと、自分も来年卒業したら、札幌農学校に入りたいといった。その同級生に内村鑑三らがいた。内村もこれに同調した。

このとき、佐藤昌介は19歳。内村鑑三は15歳だった。

アメリカ人が校長や教師になって、アメリカの大学とおなじ教育をするということにまずみんなは驚いた。青年たちは、まだ見ぬ北海道での勉学の夢に燃えた。――ここに名前のでてくる人物は、のちに歴史をつくった人びとである。

とうじの開成学校は予科3年、本科3年の6年間の修業年限だったが、札幌農学校は4年制で、現在の大学とおなじ年限だった。

学費が少なくて困っていた大島正健や新渡戸稲造、内村鑑三らは、よろこんでこれに応じた。

薩摩藩士の黒田清隆は、明治初年から、この北海道開拓という偉業に立ち向かっていた。

北海道開拓の主な目的は、北のロシアからの侵攻をふせぐことにあった。黒田清隆はそういう目的で、明治3年に北米を視察し、米グラント大統領にも会い、開拓の支援を要請している。

そして、グラント政権の農相だったケプロンを引き連れて、明治4年に黒田とともに横浜に着いた。

 

 

 

 

一行は、芝の増上寺に落ち着き、農事試験場などをつくり、東京の青山、渋谷に3万坪の土地をもうけて農事関係の施設をつくった。北海道開発のために招いた諸外国の専門家は、アメリカ46人、ロシア5人、イギリス4人、ドイツ4人、オランダ3人、フランス1人、中国13人の計76人にのぼった。

専門家は多岐にわたり、地質学者、測量師、園芸家、土木建築士、船員、建築士、鞣工人、缶詰技師、教師、大工、鉄道技師、暖房技師など、じつにさまざまな人たちで構成されていた。

しかし、国づくりにおいて何よりも必要なのは、ものをつくることよりも、まず教育だった。黒田は在米日本公使館を通じて、グラント大統領に農事教育者の招聘を要請した。それで、アマースト農科大学の学長だったクラークが選ばれたのである。

クラークはこのとき、51歳だった。

米大学の学長が、アジアの国の大学の学長になるなどというのは、聴いたこともない、稀有のことだった。

クラークは、もともと北海道開拓の立案者でもあった。

とうじアメリカ政府内では、「ジャパン」とおなじぐらい「ホッカイドー」という名前が知れわたるようになっていた。ヨーロッパでは、現在でも「ホッカイドー」という地名がそのまま通じている。日本とは、べつの国のように思われているらしい(司馬遼太郎「街道をゆく(オランダ編)」)。

明治8年7月はじめごろ、クラークは佐藤昌介、大島正健、渡瀬寅次郎の3人とともに学生8人を引き連れて、北海道開拓使長になった黒田清隆や、オイラー、ペンハローらと横浜港を出港し、函館・小樽をへて7月31日に札幌に着いた。

その船中で学生らが俗歌をうたったり、酒によってあばれ、乱暴したりした。

黒田は怒り、函館から彼らを追い返せと迫った。

「おまえら、何を考えているんだ! 遠足にいくんじゃないんだぞ。おまえは、リーダーだというのに、このザマはナンだ!」と行って怒鳴りつけた。

叱られたのは佐藤昌介だった。佐藤は何も悪いことはしなかったが、黙って見過ごしていた責任を問われた。

「おまえら、3名は、函館に着いたら、帰れ! 先が思いやられる」

それをとりなしたのは、クラークだった。船中で黒田清隆はクラークに、ある頼みごとをした。

「どうも、さいきんの若者の道徳はなっておらん。あなたの力で、最高の道徳を仕込んでいただきたい」

外国人にとって、「道徳」ということばは、「信仰のこと」だろうと思われた。

クラークはいった。

「あなたのいわれる最高の道徳というのは、キリスト教以外考えられない」

すると、黒田清隆は腕を組み、

「それは違うでしょう。キリスト教とはまったく異なる。宗教は、ヘタをすると国を滅ぼす」とまでいった。

「そうではありません。こころの糧になります」とクラークはいった。

「しかし、聖戦と称して、ヨーロッパの列強は宗教戦争をしたではありませんか。そういう戦争教育は、やってほしくありません」

黒田清隆は無宗教。クラークは敬虔なクリスチャン。ふたりのかみ合う余地はまったくなかった。

「キリスト教を奉ずる学校にはしたくありません。それをもって、学校の教育方針にすることはできません」といって黒田は突っぱねた。その後ふたりとも、何日も、口をきかなかった。

    ♪

この問題にケリをつけたのは、まるで無関係な九州・熊本で起きた騒動、――熊本洋学校問題と、京都の同志社問題がひとつの気運となって後押しした。

明治9年、18歳の坪内雄蔵が開成学校に入学し、内村鑑三が東京英語学校で最上級生になったとき、14歳の徳富猪一郎という熊本から出てきたばかりの少年が、東京英語学校へ入学してきた。猪一郎は、漢学教育と、熊本洋学校で英語を学んだ。

そこへヘール・エル・ジェーンズというアメリカ人教師がやってきた。

教師は熱心なクリスチャンで、猪一郎より6、7歳ほど年上の先輩学生は、その影響を強く受け、キリスト教精神なるものに染まっていった。やがて、キリスト教を嫌う両親の知るところとなり、通学を拒否されたけれど、猪一郎は信仰を棄てなかった。

いっぽう、明治9年には廃刀令が出て、刀を佩()くことはもとより、持ち歩くことを禁じられた。だが、これを無視した国粋主義を奉ずる若者たちが、刀を袋に入れて隠し持ち、ちょん髷も切らず、旧藩士気取りで町をねり歩いたりした。

熊本洋学校は、そういう輩にたいする対応に手こずり、そうそうに文部庁の知るところとなって、いきなり廃校になった。

さて困ったのは猪一郎だった。もう行くところがなくなった。

それからほどなくして、京都にキリスト教の学校「同志社」を開校したばかりの新島襄のもとに、青年たちの一群が大挙して押し寄せた。

「われわれを入学させてください」と訴えたのである。新島襄は事情を理解して入学を許可した。

坪内雄蔵は、のちの坪内逍遥である。徳富猪一郎は、のちの徳富蘇峰である。

札幌農学校も例外ではない。まして、クラーク教頭、――教頭とはいえ、事実上の学長である。――彼の教育理念を受け入れた政府は、北海道開発使長の黒田清隆の反対意見を受け入れることはできなかった。それを承知でクラークを招聘したのである。

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明治9年9月、ウィリアム・クラークとその後輩のペンハロー、ホィラーの3人は佐藤昌介、大島正健ら11名の学生とともに札幌に農学校を開いた。

クラークは開校式に登壇し、こう演説した。

「諸君はこの学校に入って、やがて国家のために重要な地位と厚い信用を、また、それらにふさわしい名誉を受けるように準備し、努力しなければならぬ。それがために健康なる肉体をつくり、貪欲をつつしみ、また性欲を制する力をやしない、従順と勤勉への修練にはげみ、かつ、習わんとする学課については、できるかぎりこれを研究し、練磨すべきである」と。

開拓使長となった黒田清隆は、学生たちの飲酒や乱暴をやめさせるよう強く要請した。

クラークは酒が好きだったので、1年分のじぶんの酒瓶をすでに用意していた。彼の赴任は1年という期限付きで設定されていたので、北海道滞在は、1年をすぎることはない。

ある日クラークは、しまっておいた酒をすべて、学生らに教室に運び込ませ、学生たちに向かってこういった。

「諸君らに酒を飲むなといいながら、教頭であるじぶんが飲んでいたのでは、申し訳が立たない。学習中は禁酒すべきであり、酒の好きなわたしも禁酒するので、諸君もわたしに倣い、禁酒を実行してほしい」

そういって、学生たちに禁酒誓約書を書かせた。

そしてクラークは、学生たちにバイブルを1冊ずつ手渡し、日曜日には全員教室にあつめ、聖書研究と称してイエスの教えを講義した。祈祷書は熱心に教え、礼拝をおこなった。

開校と同時に、札幌農学校は堂々たるキリスト教理念のもとに教育がすすめられていった。クラークは科学者でもあったので、学問は多岐にわたった。

「枯れ草は、飼料としてなぜ栄養に富むか?」と質問する。だれも答えられない。そのうちに学生のひとりが、おそるおそる立ち上がり、

「水分が、蒸発してしまっているからであります」と答えると、クラークは満面に笑みを浮かべた。

「そうだ! 水分が蒸発しているからです。……ならば、水より軽いものの比重は、どうして量るか?」と質問する。

「水より重いものに結びつけて水中にぶら下げて量ります。水より重い分をのぞいて計算すればいいと思います」と答えた。クラークはますます喜色満面になり、

「名答!」と叫んだ。これらはすべて英語でおこなわれた。日本語はご法度(はっと)だった。

ある日、野外で授業がおこなわれた。途中の道で、小川を渡るとき、1本の木の橋の上を歩く。ちょうど7歳ぐらいの少女がひとりで渡っていた。学生のひとりが手を差し伸べて、彼女の手を取って渡らせようとした。それを見ていたクラークは制した。

少女が渡ってしまってから、

「よくやったね!」といって、頭を撫でた。

                      ♪

クラークは郷里のマサチューセッツの州立農科大学の学長だったので、札幌へは1年間だけの赴任となっていた。明治10年4月、彼の帰る日が近づいた。

そのちょっと前の3月5日、クラークは「イエスを信ずる者の契約」という文章を書いた。学生ら全員が、これに署名した。学生のひとり、21歳の佐藤昌介は最年長であり、寡黙で、物静かで、思慮深い男だった。彼は自然に仲間たちに重んじられた。

のちに北海道帝国大学ができたとき、彼は初代の学長になった男である。

大島正健はもっとも熱心なクリスチャンになった。クラークは、1877年のこのころ、欧米の紳士に引けを取らない長い口ひげをのばし、短い顎ひげも生やしていた。

面長で、威厳があって、目はやさしかった。

マサチューセッツにかぎらず、むかしの北米ニューイングランドの人たちは、ほとんど敬虔なクリスチャンである。詩人エミリー・ディキンソンも彼と同郷である。

クラークが博士号を取得したのは、ドイツの大学だった。化学と隕石成分の論文で学位を取った。

明治10年4月16日、クラークは札幌を出発した。学生やほかの教員も、札幌郊外24キロ先にある島松まで見送り、別れの昼食をとった。

ひとりひとりと握手を交わし、別れを惜しんだ。

そのとき残したことばが、「Boys, be ambitious!」ということばだった。函館まで馬に乗って向かった。

とうじ、鉄道などはなかった。――やがて、後輩に内村鑑三や新渡戸稲造という天才たちがやってくる。また、作家として成功する有島武郎もやってきた。――この話を記せば、キリがない。――ただひとこと。

内村鑑三は、目がきつく、性格が激しく、負けず嫌いで成績は新渡戸稲造と1位、2位を争った。新渡戸稲造は美しい青年で、頭がよく、性格は柔軟・明敏で、英語力は抜群だった。当時、彼だけはノートはすべて英語でつづっている。

クラークのほうは、もとより日本語はさっぱりダメなので、すべての講義は英語でおこなわれた。新渡戸稲造の書いた「武士道」は英語で書かれた。岡倉天心の「茶の本」も英語で書かれた。徳富猪一郎、のちの徳富蘇峰はロシアへ行き、トルストイに会っている。内村鑑三、新渡戸稲造は、ともに著名な人物なので、あらためて書く必要もない。――そんなことをつらつら思い出していた。

 

※ 参考文献「日本文壇史」第1巻第4章。伊藤整、講談社、昭和28年刊。全18巻の冒頭に北海道開拓史の話が載っている。クラークの来日が文学史上にも大きく貢献していたことがわかる。