いても、ちあがれ!

 「Be gentleman!」

 

クラーク博士。

 

去年、ある人から、キリスト教の話をうかがった。

で、どう思いますか? とたずねられたので、ぼくは、札幌農学校のウィリアム・クラークの話をした。

着任したばかりのクラーク博士は、壁にかかっている札幌農学校の校訓というのを読んで、このような校訓は不要であるといって、彼は額を外し、「Be gentleman」、それだけでいいといった。「紳士であれ」という意味だ。

また別れるとき、「Boys,be ambitious」ともいったと伝えられている。「大志を抱け」というわけである。

ほんとうにそういったのかどうか、それはわからない。

ある説によれば、朝日新聞の「天声人語」のなかに、“Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”

青年よ大志をもて! それは金銭や我欲のためではなく,また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて!」という文章が出てくる。ambitiousの意味づけを、大きくふくらましているというのである。

のちに、安東幾三郎が農学校の「恵林」に載せた「ウイリアム・エス・クラーク」という文章のなかに、「暫くにして彼は悠々として再び馬に跨り,学生を顧みて叫んで日 く,『小供等よ,此老人の如く大望にあれ』 (Boys, be ambitious like this old man)と。一鞭を加へ塵埃を蹴て去りぬ」と書かれ、このlike this old manということばをつけ足しているというのである。別れのことばとして読むとき、Boys,は、「諸君よ、みんなよ」というほどの意味で、be ambitiousといったとすれば、さきにいったbe gentlemanと対応し、ぼくは、これはクラークの口ぐせだったのではないか、ともおもわれておもしろいとおもう。

しかも、馬に乗って、振り返り、別れを惜しむようにみんなに手を振り、そういったのかとおもうと、ちょっとドラマティックなシーンであり、クラーク博士を語るとき、いつの間にか、このことばがひとり歩きしていったのではないだろうか、とおもえる。

で、クラークは、そのままアメリカに帰国したのかといえば、そうではない。

クラークは、京都に行き、新島襄に会っている。

彼はすでに英学校を開いていた。アメリカで新島襄にもしも会うことがなければ、クラーク博士が北海道へやってくることもなかったわけで、その因縁をつくった新島襄に別れを告げることは、とうぜんの話である。

クラークは、京都にむかった。

そして、クラーク博士の晩年は、ひじょうに失意の連続だった。大学を辞任して、ある鉱山経営社(クラーク・ボスウェル社)と手をむすび、それが失敗し、倒産をめぐる裁判にも悩まされた。その後、心臓病で倒れ、寝たり起きたりの暮らしになった。この話はくわしくはいいたくない。

そして、ご夫妻と別れると、また人がやってきて、ぼくはこんどはその人に別の話をした。事務所でコーヒーをふるまい、おしゃべりし、この年で体力をつけるため、「土方でもやってみようかな」というと、彼は変な顔をした。

「田中さんは、土方なんかやる人にはおもえませんなあ」という。

「土方じゃなくて、瞑想でしょう?」という。

三木清という哲学者は、「瞑想なくして思索なし」といった。

瞑想は毎日つづけるべきかも知れないとおもう。人びとのためではなく、じぶんのために。――歴史は、「いちど演じられたドラマである」という話をし、「ヒストリア」とはそういうものだという話をした。

そしてSさんに、こんな話をした。

人の「役まわり」と、「くつ然得回(とくえ)」についてちょっとおしゃべりした。

悩んだり、考えたり、ふと、むかしの自分のことを顧みて、いまだ定まらない宙ぶらりんの自分の姿をおもい出し、急にもどかしい苦痛を感じたりすることがあった。学校を出てから数年、世間をつぶさに見る余裕もなく、押し流されるままに過ごしてきた自分の過去をおもい出した。

ぼくがまだ学生のころ、ギリシャ神話のなかにある女神ミネルヴァのつかさどる文芸・哲学に興味をもち、そのミネルヴァの知恵がはたらくのは、人生のどういうときなのだろうと考えてみた。――たぶん、父も母も、この女神の物語は知らなかったろうとおもう。そんなことは知らなくても、ある日とつぜん、ポーッとさとることがあるようだ。

「ミネルヴァの梟(ふくろう)は、たち込めるたそがれとともに、ようやく飛びはじめる」ということばである。そのことばの意味を、最初は知らなかった。

人はだれでも、じぶんの来し方をふりかえって深くおもう瞬間があるだろう。それは、いわば夕闇せまるたそがれどきと同じだろう。その日が暮れなずむとき、月のおわり、年のおわり、その人の晩年になって、ミネルヴァの梟は飛び立つのだと聴こえる。――これは、ヘーゲルの哲学だったようにおもう。

「はっ!」と気づく瞬間。さとりの瞬間。

そのことを、中国人は「涅槃(ねはん)」といい、インド人は「ニルヴァーナ」といっているらしいが、その瞬間こそ、その人の哲学が生まれるときだといわれている。それを、「くつ然(ねん)得回」という。デジタルフォントに、「くつ」という漢字が出てこない。

若いころ、ぼくはフランソワ・モーリャックの自伝風の小説を読んでいたら、冒頭にミネルヴァの梟の話が書かれていた。主人公は年若く、父のうしろ姿を見て、父のようになりたいとおもう面と、そうでない面のあることに気づく。やがて死別するであろう骨肉との別れ。――そのときがやってくることを彼は恐れる。

で、人は、別れるために出会うのだと、彼はおもってみる。父がこの世を去っても、父の志がただしく子孫に受け継がれていくことを願う。

そして、ぼくが大学2年のとき、ヘーゲルの「法哲学」を読んでいたら、その序文にミネルヴァの梟が登場した。ヘーゲル自身が晩年に書かれた作品である。この2作によって、ミネルヴァの梟とは何か、それを知ったようにおもった。

だいそれた哲学者でなくても、父は鍬(くわ)をもつ手を休めて、ふと、そんなことに思索をめぐらことがあったのだろう。

農業人は土を耕すことが仕事なので、土を掘り起こしてウネをつくる。――この「掘り起こす」というのはculture(文化)のもともとの意味である。ラテン語のcultus(耕地)から生まれた英語である。アグリカルチャーの「agri」は「土」なのだ。考えも掘り起こし、歴史も掘り起こし、記憶も掘り起こす。掘り起こしてできたものをウネといい、ウネは英語ではverseとつづる。つまり、詩である。

イギリスでは、「poem」とはいわず、「verse」といっている。ブランク・ヴァースとはいっても、ブランク・ポエムとはいわない。無韻詩のことである。ウネが3本できたら、詩行が3つできたのとおなじじである。

詩は掘り起こされたもの、という意味をもつ。人びとは、詩人じゃなくても、ウネをちゃんと耕し、掘り起こし、おのが耕地で、おのが文化、おのが詩行を立てているというわけであろうか。

北海道のふるさとの風景は、そういうウネの見えるところである。

そして、多くの祖先がウネをつくりつづけ、いまもそのウネが連なって見えるというわけである。

農業人の表現力は、詩でもなければ音楽でもなく、絵でもない。ひたぶるに、ウネづくりに精を出した。だから、農業人の魂を見たければ、彼らのつくったウネを見るしかない。――これは、譬喩だけれど、人びとは人びとのウネというものをちゃんともっているというわけである。

「あなたのウネは、何?」

そんなことをおしゃべりした。

先日の講演会ではないが、ジョン・エクルズ博士もおなじようなことをいっている。人が死ぬと、彼の持っていた全宇宙は崩壊するのだといっている。その人の持っている宇宙、――そんなものが、もしもあるとしての話だが、全宇宙は崩壊するのだといった。じぶんの脳は、だれにも束縛されず、まったくの自由であることを知る。その自由を人は忘れてしまうらしい。たとえ病いを得て、身をベッドに横たえていても、脳は自由なのだ。

先日、ぼくは榎本武揚の話をした。自由の話である。

彼は戊辰戦争にやぶれ、牢獄につながれた。だが、獄にあって榎本武揚は、死を覚悟しつつ、あらゆる西洋のことを紙に書き、残そうとした。彼の身は自由ではなかったけれど、頭脳はまことに自由に羽ばたいていた。

完膚なきまでに落とされても、ふたたび世の中に立ちあらわれ、近代日本の立役者となり、榎本武揚の真骨頂が結実した。クラーク博士がやってくるまえに、北海道開拓の基礎をつくったのは、じつにこの榎本武揚だった。彼こそ、「Be gentleman!」を貫いた人だった。