銀座安楼のャンヌ

 

むかし噺をひとつ。――イタリア史の話は、物語史として読むと、けっこういける。

「シネマチャート」の映画批評を長く務める中野翠さんや、芝山幹郎さんの本を読むと、映画「イタリア」と名づけたくなるようなイタリアの物語にあこがれた時代を想いだす。

映画を観て、ぼくはたちまち15歳になれる。

 

ぼくはずーっと小説や映画をとおしてイタリア史を読み解いてきた。

それにしても、イタリアという国にはストック文明としての世界遺産がいっぱいある。とうぜん、それらはイタリアという国が生まれるはるか以前の物語である。若いころは、そんなまじめ腐った歴史ではなく、カサノーヴァ風の恋愛にあこがれたものだ。

たとえば、恋愛に熟練するための方法とか。

だが、カサノーヴァ風の恋愛といっても、たいていの人は誤解しているとおもう。ぼくが理解したヴェネチア生まれのカサノーヴァは、女性の五感を知悉(ちしつ)するというものだった。

 

 

 

 

まず、おいしい料理で味覚の満足感をあたえ、食卓におかれた香りのある花で嗅覚を刺激し、キャンドルの灯されたテーブルはその場のふたりだけの劇場感を演出し、女を見つめる表情はあくまでも熱く、……と書けば、きりがないほどの熟練の達観がえんえんと描かれている。それだけ、涙ぐましい努力をしているのだ。

それもイタリア史のひとつとして読めば、日本でいわれる「女たらし」とか「漁色家」とかという説明とは、ぜんぜんちがったカサノーヴァなのだ。イタリアでは「カサノーヴァ」は、「もてもて」という褒めことばで使われることが多いという。だから、恋愛物語の主人公たらんとすれば、便々(べんべん)たる太鼓腹を突き出していては、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ということになる。

 

 

 

イタリア映画「マレーナ」

 

イタリアの小説「マレーナ」に出会ったときの衝撃は、22歳のじぶんの青春も頬を熱くした。昭和30年代の若い夏の日は、FMラジオから流れるベトナム戦争前期の米語ニュースばかりだったが、親友になったばかりのオクラホマ州出の若い海兵隊員【GI】――government issueは、実のない粃(しいな)みたいに軽く、まだ実っていないぼんぼんだった。そいつの親友は、迫撃砲で全身火だるまになって死んだ。

もう夕暮れだった。

炎暑の夏で、街ゆく人びとはみんな顔を赤らめて歩いていく。

ぼくはそのころを見計らって、ぺらぺらの黒褌(ふんどし)一丁になって、京橋小学校のプールのフェンスを飛び越え、守衛に見つからないように、そっとプールの水にもぐる。

プールには満々と水をためている。見回りの守衛はめったに姿をあらわさない。さっきまでプールに当たっていた西日が陰り、日かげと闇がいっしょになって、銀座の街が暮れていく。

高級料亭の万安楼(まんやすろう)の黒い塀の影から、ひとりの若い女の子が下駄をはいて出てきた。ちょこちょこと角をまがって、昭和通りのほうへ走っていく。彼女の視線を振り切るように、ぼくはフェンスの草むらの影に隠れる。彼女にちょっかい出してしかられた男がいた。彼は三重県からやってきたぼくの大学の後輩だった。

よせばいいのに彼は、「おび、ほどけていますよ!」といって彼女に声をかけたのだった。

「あなた、失礼ね!」といって、女はきゅーっと彼を睨みつけた。ほんとにおびがほどけていたんだと、彼はいった。

「先輩、きいていいですか。おび、ほどけています、それって、何かべつの意味があるんですか?」と。

「おれは聞いたことないな。そんなの、ないだろう」と、じぶんはいった。年がおなじくらいの男の子に注意されたのが彼女にはくやしかったのだろう。

そばに偶然いたぼくまで、女は睨みつけたのだ。その顔が、ちっともいやらしくなくて、モディリアーニの絵に描かれている妻ジャンヌの顔によく似ていた。

「ほら、ジャンヌの顔だよ」とぼくは彼にいった。後輩にはよくわからなかったらしい。

その絵をよーく見ると、ジャンヌの顔にはほとんど表情というものがない。ただ鏡にむかって睨みつけているように見える。

後輩は、そういう女にそれとなく、そそられているようだった。

「好きなのか?」ときく。

「うん、まー」と彼はいった。

「じゃ、万安楼で何か食べてくれば? 予算は、これだけだけど、なんでもいいから、喰わしてくれって」

「高級料理店ですよ、先輩。先輩も行ってくれるなら、考えますけど、……」と彼はいっている。

ぼくらはそのころ、新聞配達のアルバイトで、給料が月に6000円もらっていたが、そんなところで昼餐なんかをやったら、給料がいっぺんに吹き飛んじまうろうとおもった。それも悪くなかったが、ぼくは、もっとけちくさいことを考えていた。

どうせ食べるなら、タダで食べられる方法を考えたくなった。もしもタダで食べられなかったら、一ヶ月分の給料をつぎ込むまでだ。そのどっちかだろうと考えた。

それにしても、彼が惚れるのもムリはなかった。いい女に見えるのだ。

お仕着せの和服を着ているが、彼女の顔には似合わない。だいいち、背が高すぎるし、顔が長すぎる。

背は170センチを切るくらいか。どこの生まれかは知らないけれど、いなかくさい顔をしていない。見れば見るほどモディリアーニの妻によく似ていた。そのツンとしたところがなんともかわいいのだ。

ぼくはそのころは絵にはほとんど興味がなく、ただモディリアーニとピカソの絵だけには、なんとなく惹きつけられていた。

そんなことを考えながら、ぼくはプールの水にそーっと身を浸した。

ビルのあいだから木々の茂みが見え、女の子たちのヒールの音だけが聴こえている。そして、ぼくはプールのなかで、通りを歩く彼女たちのようすをながめた。歩いている女たちは、みんな無防備な歩き方をしている。

通りのそばに寝そべって、ぼくが彼女たちを窃視しているなんて、これっぽっちも気づいていない。女たちが歩くと、軽やかに胸がはずんでいるのが見えた。その軽やかな胸の重みに欲望を感じた。水にもぐって、ほてった顔を冷やすと気持ちよかった。

ふたたび水面から顔を出して、女たちをのぞき見する。ブテッと肥った女もいれば、お尻の小さな女の子もいた。脚のきれいな女、そうでない女、脚の太さとヒールの細さのバランスがくずれた女、バッグでスカートの前を隠しながら歩く女、ノースリーブで、わき毛を見せる女、妊娠して腹が重そうな女、みんな有楽町、銀座1丁目方面から歩いてきて、昭和通りをぬけ、新富町方面のマンションかアパートか寮に帰っていくのだ。このあたりには企業の寮生活者が多い。

ぼくらの寮は、プールのはす向かいにあり、ぼくは3階建ての建物の2階に住んでいた。みんな学生たちだ。

6時から7時にかけて夕餉をすませると、勝手気ままな時間となる。

日曜日は、映画の好きなやつは日比谷映画に向かう。デートするやつは、髪をなでつけ、ちょっとばかしバイタリスをつけると、人から借りたちょっと派手なブレザーを着て出ていく。

何も予定のないやつは、ひっくり返って本を読むか、ヤンキー放送か、FMラジオを聴いている。勉強しているやつなんかいない。

ぼくは退屈まぎれにイタリア人の書いた小説を読む。――「その後ずっと下らない人生を過ごし、わたしは老人になった。たくさんの女を愛した。女たちの多くは、わたしを忘れないで、といったものだ。しかしわたしはひとりも覚えていない。わたしの心に残っているのは少年の日に愛した彼女だけだ。マレーナだけはずっと忘れることはなかった」

――と書かれている。

ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ

 

なんだか寂しそうなやつだな、とおもった。

ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニという作家の「マレーナ」という小説だ。

英訳されていて、銀座の教文館の洋書売り場で見つけたものだ。薄っぺらい本だったが、ページをひらくと、冒頭「わたしがはじめて彼女を見たのは1940年の晩春、12歳半のときだった」と書かれ、なんとなく読んでみたくなった。

彼のほんとうの仕事は、映画の脚本家だ。橋本忍みたいなものだろうか。

イタリア映画「マレーナ」が公開されたのは2000年だったが、1962年のぼくは、これが映画になるなんて、おもってもみなかった。女優モニカ・ベルッチの美しさは、ソフィア・ローレンの光に満ちた美貌とはぜんぜん違っている。

ぼくは映画を見てから、モニカ・ベルッチの美しさに圧倒され、豊満な腰と胸のふくらみ、細くて長い、そのうねるような脚線美が目に焼きついてはなれなくなった。小説に描かれたイメージを、うんと超える映画だった。

眉の太い12歳半の少年が焼きつけたマレーナ像は、いったいどんなものだったか、本を読めばわかる。ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」を上まわるほどのまぶしさだ。

 

じぶん。大学2年のころ

 

ぼくはいつの間にか、スコポフィリー(窃視症)にかかってしまい、のぞき見に情熱をあげるようになった。たぶん後輩もそうだろうとおもった。そのころ、アンリ・バルビュスの「地獄」を読んでいたからだ。

彼は万安楼の女にうつつをぬかしはじめた。

だからといって、ストーカーになりたいなんて考えているわけじゃない。ただ、素朴に、ぽーっとなっているにすぎない。ぼくは、見たこともないマレーナにあこがれて、新聞配達のあいまに、有楽町のフードセンターの2階のトイレで、たまさか女の子のプロマイドを一枚拾ってひそかに自慰をするみたいに、彼もありあまったエネルギーを、どこかで抜いているのだ。青春っていうやつは、残酷なものだ。

みんな性欲に悩まされ、朝4時半にたたき起こされると、ひとりかふたりは、もう夢精しているやつがいるのだ。寮のまかないおばさんに、そっと汚れたパンツを始末してもらうのだが、なんともかっこう悪いにきまっている。

やってしまったやつは、みんな「すみません」といって、おばさんに洗濯してもらうのだ。おばさんもちゃんと心得ていて、「いいのよ」といって、いなかから出てきた青年たちの恥まで洗濯してくれるという寸法だ。

これで勉強したいとおもっても、そいつはムリだ。みんな「なんとかしてくれ!」って、叫んでいた。銀座には、そういう困った若者たちでいっぱいだった。

朝の5時ごろ、新聞を配っていると、銀座の別の顔があらわれる。

銀座通りを一本裏手に入ると、レストランから出た残飯をあさる犬たちがいて、犬もネコも、さかんに交尾をしているのだ。道には、女たちの生理用ナプキンが落ちていたり、用済みのコンドームが落ちていたりする。

それが、ぼくにはふしぎだった。

プールからあがると、すでに汗がひいて、さっぱりする。

ぼくは万安楼の女のことは忘れ、マレーナのことも忘れ、気分を落ち着けると、寮にもどり、本とノートを取り出して勉強机に向かう。

ベトナム戦争のニュースがFMラジオから流れている部屋で、もう寝てしまった先輩たちの顔を見て、やがて自分もふとんのなかに入る。

ぼくらは明日のことは何も考えなかった。将来を案ずることも、女のことも、北海道のいなかのことも、その日の記憶のなかに閉じ込めると、いつも静かに眠りに落ちた。

先年、銀座のある画廊の店主と出会ったとき、料亭はなくなったが、万安楼の経営者が、新富町の近くのマンションにまだ暮らしているという情報を得た。その後、ぼくが社会人になってからは、後輩の男と万安楼には数回入っている。そのときはもう彼女の姿は消えていた。後輩は悔しいおもいをしたことだろう。