ディリアーニの妻ャンヌ

 

モディリアーニ「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」

 

さっき時計に目をやった。0時半だった。

「ともかく、《80の壁》という本が問題なんですよ」という男と、昼間少し話し合った。あんな本、よくも書いてくれたよ! とかいっている。

「まあ、80歳からの人生は、70代とはまるで違ってきますな」とかいっている。第一、命にかかわる病気をしてみたり、とつぜん認知症を発症したりと、年をとればとるほど個人差が大きく開きます、という。

「88歳の倉本總さんの新作《海の沈黙》とかいう新作が来年映画化されて公開されるというんですよ。驚きですな……」

「バイデン大統領も来年11月の米大統領選に出馬すると、《80の壁》を乗り越えるひとりとなり、再選されれば、大統領としての史上最高齢を更新して、2期目入りを82歳で迎えることになるそうだよ」という。

そういうじぶんは、82歳となる。――たのむから認知症だけは止してほしいもんだ。

レーガン米元大統領やサッチャー英元首相は引退後、重度の認知症を発症した事実を告白している。「在任中も軽度の記憶障害くらいはあったはずだ」といっている。

「つまり、認知症になっても、首相や大統領も務まるってわけ?」

それでは困るのだ! 国民が困るのだ!

ふたたび時計を見た。1時13分だった。

きょう、ぼくの友人の友人がひょっこり訪れた。友人の鈴木克秀さんの話におよび、脳溢血で身体が不自由になり、見舞いに行くと、

「なーに、そのうちに楽になりますよ」といった。

「田中さん、その楽になりますよというのは、冥途へ行くというい意味ですよ」と、彼はいった。そういえば、鈴木克秀さんはモディリアーニの絵が好きだといったことがある。

1962年の夏、ぼくは銀座の寮に住んでいて、こっそり近くの京橋小学校のプールにもぐりこみ、夏の暑さをしのいだという話を書いた。ある日、その記事を読んだ鈴木克秀さんがやってきて、

「例の、モディリアーニの妻? 読みましたよ」といった。

そのとき、銀座の高級料亭の万安楼の女の子が、この少女の顔とよく似ていて、ジャンヌの絵を見るたびに、そのときの少女のことをぼくはおもい出していた。もうぼんやりとしかおもい出さないけれど、あのときの少女は、ちょっとあばずれで、顔だけはなんとなく気品があって、われわれ学生たちの気を引いていた。

ぼくは、モディリアーニについてはくわしくないのだが、その妻ジャンヌについては格別の興味があって、画家が描いた肖像画「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」という絵は、いくらながめても飽きない。

 

ジャンヌ・エビュテルヌ

 

ジャンヌの写真を見ると、絵とそっくりではない。

しかし、1918年に描かれた彼女の肖像画は、すばらしい絵だとおもっている。永遠にこころに焼きつけそうな絵だ。彼女は、この絵が描かれてから2年後、パリのアパルトマンの6階から身を投げて亡くなっている。21歳だった。彼女のお腹のなかには妊娠9ヶ月の胎児がいたというではないか。

西岡文彦の「恋愛美術館」(朝日出版社、2011年)という本によれば、夫モディリアーニが、35歳で病死した翌々日のことだったと書かれている。

夫が亡くなった翌日、彼女は命を絶とうとしていて、それに気づいた彼女の兄アンドレは、夜通しそばについていた。ところが、彼がしばしまどろんだスキの一瞬をついて、ジャンヌは窓から身を投げて、夫のあとを追ったというのだ。

それは、明け方のことだった。

彼女が窓を開ける物音に気づいたが、もう間に合わなかった。1920年1月26日午前5時のことだったと書かれている。

この事実を知って、モディリアーニのこの絵を見たとき、たいがいの人は、こころのなかで驚いたにちがいない。「この人が?」とおもって。

このなんともいえないあふれ出る気品からは、その後の彼女の衝動的な行為は納得しがたいものに見える。

何があったというのだろう?

「ほう、いわれてみれば、気品がありますなあ」と、友人の鈴木克秀さんはいった。

「モディリアーニの絵のなかで、ぼくは、この絵がいちばん好きなんですよ」というと、「そうでしょうな」と彼はいった。事務所にこの絵をプリントしたものを額装してずっと架けている。

別名「瞳を描くジャンヌの肖像」と呼ばれているらしい。なぜなら、モディリアーニの絵には、顔を描いても瞳を描かない絵が数多くあるからだ。ほかにもジャンヌの絵はいろいろある。たとえば「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」(1919年)という絵もあり、これには瞳が描かれていない。彼はなぜ、こんな絵を描く気になったのだろう。

彼が制作したかったのは絵ではなく、ほんとうは彫刻だった。

彫刻作品には瞳なんか描かない。

絵には、そういう表現方法もあるということをモディリアーニはさとったらしい。肖像画を描いて、目の瞳を描かない画家を、ぼくはほかに知らない。ある人は、「画竜点睛に欠く」といっている。「いかにも……」という気分にもなる。

人物に生彩を与えるのは、なんといっても瞳だろうけれど、その瞳を描かないというのは、どういうことなのだろうとおもう。おそらくモディリアーニにとっては、あくまでも彫刻のための試作にすぎないのではないだろうか、とおもえる。

たとえば、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に、もしも瞳がなかったとしたら、どんな怖い絵になるだろう。だれもそんなことを想像する人はいないかもしれないが、モディリアーニの絵を考えるとき、いやおうなく瞳のない絵に出会い、ぎょっとする。

ぼくはむかし、ある人を訪ねて、家の前に突っ立っている老人に声をかけたことがある。近くに寄って「こんにちは」とあいさつして、彼の顔をのぞきこんだ。そこには顔がなかったのだ。そのときの驚きは、いまでも忘れない。精巧にできたかかしだった。

それほどではないにしても、モディリアーニの絵は、ふしぎな絵だ。

しかし彫刻にすると、目に瞳がなくてもいっこうに平気だ。「ミロのヴィーナス」はご覧になった方も多いとおもわれるが、彼女の目には、瞳が描かれていない。瞳はたしかにないのだが、あるように見えてしまう。ミケランジェロの「ダヴィデ」像の目には、ちゃんと瞳がある。この差はいったいなんだろうとおもう。

ところがモディリアーニは、瞳をつくらない主義らしい。

彼の「帽子をかぶったジャンヌ」(1918年)を見ると、あきらかに瞳を描いていない。描いていないのに、あるように見える。

それなら、彼はなぜ彫刻を制作しなかったのだろうとおもう。

それは結核と貧困だった。結核と貧困のために、制作しようにも、それができなかったのだと書かれている。彫刻は、じょうぶな体と高額な材料費が必要だったが、それもままならなかったからだ。石彫は、想像以上に目に見えない粉塵が舞い、肺結核患者にいいわけがない。かえって深刻な打撃を与えるだろう。

そういうこともあって、彼は粉塵の出ない木彫に切り替えてはいるものの、金がないために、近くの工事現場から廃材を盗んできて、それを彫ったりしている。そうやって膨大な彫刻を彫ることは彫ったが、どれも満足な出来ではなく、それらの試作は、近くの運河に投げ捨てたという。

そういう日々のなかで、彼は憔悴し、飲酒に走った。家庭は見るもあわれで、家庭と呼ばれるものじゃなく、崩壊寸前にあり、創作意欲があるのに、体力とそれを可能にする財力がない。

「芸術家っていっても、いくらか政治力も、世渡りの術もあったほうがいいですなあ」と鈴木克秀さんはいう。

「それにしても、21歳で死ぬなんて、……彼女、どこで画家と出会ったの?」

「18歳のときらしいよ。ジャンヌは画学生で、モディリアーニが32歳のときというから、死ぬ3年前ですよね。出会った翌年にはいっしょに暮らしはじめていますよ。その1年後には、娘が誕生、……」

「ほう」

同棲後の1917年12月、ベルト・ヴァイル画廊で、生前いちどだけ個展を開催している。けれども、裸婦画を出展したところ、警察官が踏みこむ騒動となり、たった1日で裸婦画を撤去する事態となったらしい。

どんな絵なのだろう。

1918年には、転地療養のためニースに滞在し、その11月29日に長女ジャンヌが誕生、1919年7月に、ジャンヌ・エビュテルヌに正式に結婚を誓約している。

しかし、貧困と生来の肺結核に苦しみつづけ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生などで荒れた生活をつづけたため、1920年1月24日に結核性髄膜炎で死亡。ジャンヌもモディリアーニの死の2日後、あとを追って自宅から飛び降り自殺した。ジャンヌの遺族の反対もあって、ふたりの遺骨は、10年後になって、ようやくパリのペール・ラシェーズ墓地にともに埋葬されたといわれている。

のんだくれの画家を夫にもって、どんなに不幸せかと世間の人はおもうかもしれない。冬には暖をとるにも金がなくて、はやばやとベッドにもぐりこんで寒い夜を凌いだかも知れない。そういう夫に、波風ひとつ立てずに、ついていったジャンヌという女に、底知れぬものを感じる。その気品ある情熱はどこからくるのだろうとおもう。よしんば、口げんか、口論のたえない家庭であったにしろ、ジャンヌにとっては、夫に捧げた命。そうおもうと感情そくそくとなる。

きょうきた友人は、「彼の部屋にこれから行って、ようすを見てきますよ」といって、炎天の日差しのなか、帽子もかぶらず出かけて行った。