■20世紀の文学。――

いまも忘れられない作家S・ームの作について

 

S・モームのことを考えると、上田勤さんというう英文学者の功績は、たいへんおおきいとおもう。日本における代表的なモーム研究家には上田勤さんと中野好夫さんがいる。

研究という分野では、上田勤さんは第一人者といえるかもしれない。

その上田勤さんのモームを論じた本のなかでも、モームは「サミング・アップ」という本のなかで、たっぷり自分のことをすでに語っていて、おおくの批評家たちはそのエッセイを超えられないとのべ、モーム研究のむずかしさについて書かれている。そして、「……これは、モームに対する敗北の書である」とさえのべている。

 

サマーセット・モーム

 

いっぽう、中野好夫さんは、ぼくにとっては想い出の多い人であり、モームといえば中野好夫というイメージがところてんのようについてまわるほど、固定観念のようなものがある。

中野好夫さんの訳文が、もののみごとに訳されていて、間然(かんぜん)するところがない。そうおもっていた。

若いころは、ぼくも中野好夫さんの訳文に心底インスパイアされた人間のひとりだった。中野好夫さんの訳された英文の箇所でおもしろかったのは、分詞構文の箇所であったり、めずらしいイディオムの発見であったりして、ぼくの学生時代は楽しかったなとおもう。

近年、岩波文庫に行方昭夫さんの翻訳が出て、それはそれでびっくりしている。いかにもいま風に訳されているのだ。このたび行方昭夫氏の書かれた「サマセット・モームを読む」(岩波セミナーブックス、2010年)という本を読み、たいへん教えられた。

いっぽう、さいきん出た「ジゴロとジゴレット モーム傑作選」(金原瑞人訳、新潮文庫、平成27年)などが出て、機知とユーモアに富んだ極上といっていい好短編8編がお目見えしたりして、読書を楽しませてもらっている。

なるほど、中野好夫さんの訳ではもう古いのではないかという向きもあろうとおもう。

「人間の絆」でいえば、「露命をつなぐのが関の山」とか、「馬鹿馬鹿しい生活は七里ケッパイ」とか、「うわばみみたいな人間」という、ちょっと古風な表現がいたるところに見られる。これはもう古いといわれても仕方ないのかもしれない。そうした理由から、岩波文庫版の「人間の絆」(全3巻)、「月と六ペンス」、「サミング・アップ」、「モーム短編選」(全2巻)は、行方昭夫訳に替えられた。

 

朱牟田夏雄訳「雨・赤毛」(岩波文庫)

このなかで、さいきん行方昭夫訳の「月と六ペンス」、「人間の絆」を読んだ。すばらしい訳だった。

モームの作品を読むにあたって、ぼくは、モームという作家のことをもっともっと知る必要があるとおもっている。どのようなことを知る必要があるのかというと、サマセット・モームの少年時代にこそ、モームの作品を成立させるおおくのヒントが隠されているようにおもえる。晩年ちかくになって、モームは回想録(Looking Back)を書いている。

ぼくにいわせたら、こんなものは書くべきじゃなかった、とおもっている。

それによると、キングス・スクール時代、教師から彼の吃音(きつおん)をののしられ、屈辱のあまり、退学するシーンが克明に描かれている。これは、モームにとって、重要なシーンである。

彼の劣等感は、いかにはげしいものだったかがわかる。

「人間の絆」では、脚の弯足(わんそく)として表現されている。このことがなかったら、自分は現在とちがった人生コースをたどっていただろう、とのべている。

読む人によっては、主人公のフィリップは、自己嗜虐的な残酷物語に見えるかもしれない。その第122章は、モームのいつわらない述懐に満ちている。

「人生とは何か?」ということが書かれている。

作中人物に、医学生時代に知り合ったミルドレッド・ロジャーズという女が出てくる。フィリップの周囲にあらわれては彼を悩ませつづけている。

読みようによっては、ミルドレッドを通じてフィリップの受けた傷跡を追う物語が、「人間の絆」のひとつの山場といえばいえそうだ。自分のぬきがたい劣等感と、自分にたいする弱者意識が、だんだんと昂じてアウトサイダーになっていく部分に、作者の気持ちが明らかにのべられているとおもわれる。

また、モームは、こうものべている。

「5フィート7インチの人間と、6フィート2インチの人間とでは、世の中はまったく別物だ」と。

モームとじっさいに会った人の回想によれば、彼は背がおもったより低かったと書かれている。さらに、自分が弯足であるために、女友だちがひとりもつくれないとなげき、絵の才能のないこともおもい知らされ、モームは、フィリップに負わせたこのような書き方は、モームの完膚(かんぷ)なきまでの自虐を貫こうとした結果であろう。

以前にも書いたが、モームはしばしばロンドンを抜け出して、シンガポールのラッフルズ・ホテルの78号室に逗留し、庭の見えるパーム・コートのテーブル席について、さまざまな小説を想を練っている。

このホテルは、モームだけでなく、ジョセフ・コンラッドやチャップリン、ロバート・ケネディ、エリザベス・テーラーなども訪れ、彼らのネーム・プレートも部屋の入口に貼ってあるそうだ。

かつて、日本軍はシンガポールに進駐し、このラッフルズ・ホテルを占拠した。

シンガポールは、中国系、マレー系、インド系、インドネシア系、そのほかいろいろな人種があつまって国家を構成している国で、多民族が一体となってシンガポールをつくりあげている。

それが中国人の指導者リー・クァンユーの考えだった。

「シンガポール」というのは、国の名前であると同時に、都市の名前でもある。

そこに飛び交う言語は、マレー、インド、インドネシア、その他それぞれの民族語にプラスして、英語が日常語になっている。ながくイギリスの統治下にあったため、イギリス風の建物もおおく建っている。このラッフルズ・ホテルは、イギリス人のトーマス・ラッフルズにちなんで名づけられた。

シンガポールが日本に占領された第二次世界大戦時の1942年2月15日、ラッフルズ・ホテルは日本軍に接収され、陸軍将校の宿泊施設となった。ホテル名は「昭南旅館」に変更させられ、メイドの制服も和服になった。おしゃれなボールルームで専属バンドが演奏する曲もジャズやクラシック音楽から、日本の軍歌や民謡に変わった。

西洋のオペラハウス風の舞台で上演される舞台演目もオペラやミュージカルから、日本の演舞場で上演されるような大衆演劇に変更された。

時間も変えられ、すべての時計が、東京時間に合わせることを強要された。この日本占領の3年間は、いったい何だったのだろうと考えさせられる。

モームの死後、同性愛問題が取沙汰され、秘書と家族、その莫大な遺産をめぐるいさかいが報道されたりした。

 

 

 

 

モームは、このラッフルズ・ホテルで、祖国イギリスでの自分の評価に、つねづね苦々しいおもいを感じていたらしい。祖国では味わえない解放感に浸るために、このホテルにながく逗留した。モーム自身、軍の諜報活動もやっていたらしいが、くわしいことはわからない。

――いま、モームを読み返して、彼が生きた時代が、どんなものであったか、想像することができない。

――いま、友人から電話があり、40分ほど遅れますということだった。おかけで、モームのことを、どしゃ降りの雨を見ながら、いろいろ考えることができた。

降りしきる外を見つめていたら、S・モームの名作「雨」を想い出した。

外を見ながら、そして、ぼんやりむかしのことをおもい出した。ぼくは、だれもがする大学の受験勉強のような経験をしたことはないのだが、あのころは、モームの小説やエッセイから出題される入学試験がけっこうあったらしい。ぼくはそのころ、モームをまったく知らなかった。

だから、名作「人間の絆」のオリジナル・タイトル「Of Human Bondage」という名前が出てきたら、「人間の絆」などと訳せるはずもなく、戸惑ったにちがいない。モームの短編「雨」にしても、定冠詞のないただの「Rain」だ。なぜ定冠詞がないのだろう? そうおもったに違いない。

蛇足だけれど、ちょっと「Of Human Bondage」についてのべると、これは古風ないい方だ。Ofは、いまでいえばonか、aboutとおなじである。だから直訳すれば「人間の絆について」というような意味になりそうだ。

モームは、このタイトルをどこで見つけてきたのだろうか。

17世紀のオランダの哲学者スピノザの「エチカ」という哲学書のなかにある章題に、「人間の隷属について」と題された文章があり、そこから取られたとされているようだ。英訳すれば「of」が文頭にくる。

それにしても、このタイトルを「人間の絆」と訳されたというところに、訳者の苦心のほどがほの見えてきて、おもしろいとおもう。なぜなら、Bondageはもちろん「束縛」という意味であり、「人間の束縛」という意味をかぎりなく内包させた語、といえそうだからだ。モームという作家のレトリックがひじょうにおもしろいとおもう。

来日したモームとも面談した中野好夫は、その作品について、

「通俗というラッキョウの皮をむいていくと、最後にはなにもなくなるのではなく、人間存在の不可解性や、矛盾の塊という人間本質の問題にぶつかる」

と評している。

たとえばその姿勢は「人間の絆」において「ペルシャ絨毯の哲学」として提出された。人生は無意味で無目的という人生観に現れているようだ。

人生を客観的に描いてきたモームは、「要約すると」のなかで、

「自分は批評家たちから、20代では冷酷(brutal)、30代では軽薄(flippant)、40代では冷笑的(cynical)、50代では達者(competent)といわれ、60代では浅薄(superficial)と評されている」と書いている。

モームの文体は一見してひじょうに平明に見えるけれど、その文体はヴォルテールやスコットに学んだものといわれている。彼の作品(特に「Summing up」)は、戦後日本の英語教育で入試問題、テキストとして広く用いられたらしい。

 

 

 

 

小説作品ではないが、アメリカの「レッドブック」の注文で「世界の10大小説」リストというのが作成され、モームは、小説10作品の各・要約版に序文(preface)解説を執筆。のち雑誌「アトランティック・マンスリー」にも大部分が掲載され、1948年にフィラデルフィアの出版社で「10人の偉大な小説家とその小説」(Great Novelists and Their Authors)のタイトルをつけて刊行された。

のち加筆訂正され、1954年に「10の小説とその作者」(Ten Novels and Their Authors)で改訂刊行され、これが日本語版の元版で、エッセイの序文「世界の十大小説」が表題となり、上下2巻で1958年に岩波新書、1997年に岩波文庫が刊行されたのである。