なただけ晩は

 

日本は、雨と聴いて、梅雨の季節をおもい出しますが、きのうは、ひどい炎天の夏となりました。

北海道には梅雨がないので、いたってカラッとしています。

カラッとはしていますが、札幌は北緯43度線ですから、やはり寒いのです。ぼくの雨の多くの想い出は、東京・銀座にあります。

1962年に上京してから、ぼくは銀座に3年間住んでいました。

有楽町から電車に乗って大学へ通学していました。そのころ、銀座には学生がたくさんいました。銀座は学生の街でした。

あのころ、――1960年代、銀座にはアメリカ海兵隊員がうようよいました。有楽町の朝日新聞東京本社ビルのなかにあったピカデリー劇場、その入口には、ジュークボックスが置かれていました。そこで、リズミカルに曲に合わせてスイングしたり、腰を振ったり、ステップを踏んだりして踊る若者がたくさんいたのです。

みんな輪になって、ワイワイやっている。

若者とはいっても、ほとんど20代のアメリカの海兵隊員です。

兵役義務のある白人兵・黒人兵が、日本人の女の子の腰に長い手を巻きつけて踊っていました。街をそぞろ歩くサラリーマンたちは、ちょっと珍しいサウンドを聴きつけて、そこで足を止め、彼らをとり巻き、おもいおもいに眺めやります。

ぼくもそのひとりでした。

ぼくは、詰襟の学生服を着ていて、下はベージュの替えズボンで、ぼくの足も自然に動きはじめます。頭のなかはジャズではなく、保型関数論とかアーベル多様体とか、奇妙な数学がわけもわからず踊っていました。

そういう銀座は、もうない。

ピカデリー劇場では、「ウェストサイド・ストーリー」がロングランをつづけています。別の劇場では「ニュールンベルグ裁判」や、「野いちご」、「怒りの葡萄」が上映されていました。ぼくは銀座について、これまで何かちゃんと書いたという記憶がほとんどありません。

ぼくの書く小説にはときどき登場するけれど、そうでない文章には銀座は決して出てきません。ぼくはそのころ、まだ夢淡き青春時代まっただなかで、青白い顔をしたニキビ面の学生でした。

ぼくは勉強もしたけれど、そういう銀座の、とてつもない熱気に、ほた火のような熱さを感じました。北国出身の朴念仁(ぼくねんじん)としては、まあ、異常なほどのコンプレックスを抱いていたらしいのです。

銀座2丁目の三波春夫事務所に出入りし、可愛いお姉さんたちとおしゃべりし、青森のリンゴをもらって歓んでいました。三波春夫さんにはいちども会いませんでした。

喫茶店に入れば、学割がきいてコーヒー一杯が60円のところ、30円で飲めました。

「お友だち、連れていらっしゃいよ」と主任の女の子にいわれ、仲間を連れていくと、全員30円で飲ませてくれました。

「ラ・ボエーム」という名曲を聴かせてくれる「ラ・ボエーム」という珈琲店は、いつの間にか学生たちのたまり場になりました。その店は銀座2丁目の銀座通りに面したところにありました。そこにはピアノがあって、ときどき生演奏がかかります。

友人たちは、だれも音楽なんか聴いちゃいません。

ときどき米兵、――海兵隊員、――がやってきて、コロラドの麦畑のひろがる農場の話をしてくれたり、アメリカの田舎の州の選挙運動の話をしてくれたりしました。

「来てくれるなら、嬉しいよ。そのときはぼくを訪ねてくれ!」といわれ、住所などを紙に書いてくれたこともありました。もちろん、訪ねたことはありません。

彼らとは一瞬の出会いです。

ぼくらだけでなく、こうして交わった仲間たちの多くも、一瞬出会って、「また会おうぜ!」といいながら、その後いちども会うことはありませんでした。

ぼくは、たぶん北海道の話をしたとおもいます。

彼らはベトナムでの2年間の兵役を終え、これから本国アメリカに帰還するという人たちです。東京でのしばしの休暇を楽しみ、ベトナムでの活動を写真におさめ、その記念すべきアルバムが1冊の本になるまで、東京での自由な空気を吸っていました。ベトナム戦争が本格的にはじまる少し前だったようにおもいます。

そのときに降っていた銀座の雨は、虹色に溶けたみたいな都会の色をしていて、とてもきれいでした。

 

映画「あなただけ今晩は」。

 

 

フランス映画「シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg 1964年)」のタイトルバックの風景は、銀座で撮影されたという話を聴いています。

銀座通りを真上から撮影していて、舗道を歩く人たちの傘が躍っているみたいに写っていました。この物語にも雨が降っていました。

映画は、1964年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しました。ジャック・ドゥミ監督。ぼくはカトリーヌ・ドヌーヴという女優をはじめて見ました。こういう映画には雨が似合います。フランス映画に登場する雨はいいですね。

映画「あなただけ今晩は」の舞台はパリ中央市場(レ・アール)の側の娼婦街カサノバ通り。

警察は賄賂(わいろ)を取って見てみぬふりをし、手入れも形式的でヒモたちから賄賂をもらうのが常でした。

子犬を連れたイルマ・ラ・ドゥース(英語に訳せばIrma the Sweet)も娼婦のひとり。

ヒモのヒポリートは腕っ節が強くて、イルマにも暴力的なのだけれど、そこへ、正直で仕事に熱心すぎるネスター・パトゥー巡査が赴任してくる……。しゃべることばは、英語ですが、はじめて聞くような英語で、ビリー・ワイルダー監督は、ムスターシュの口癖、「これは余談だが、……」といって映画を締めくくるところなんか、さすがはビリー・ワイルダー監督とおもわせます。

ぼくは若いころ、パリに40日間滞在したことがありますが、フランスには梅雨はないようです。先年、パリから贈られたメールにも、そう書かれています。1日じゅう、しとしとと雨が降りつづく日もあまりないようです。ですから、傘をもたないし、また多少の雨が降っても、傘をささないフランス人が目だちます。

「しかし意外にも、傘に愛着を抱いているフランス人は少なくないようです。その証拠といえるのが、パリ3区のランクル横町passage de l'Ancreにあるpep’sペプス。現存するパリ最後の傘修理店といわれていて、年間8000本から1万本もの傘を修理しています」と、Lattre de Parisの記事には書かれています。

雨といえば、サマーセット・モームの「雨」をおもい出しますが、彼はこの短編で名を売り、ごたぶんに漏れず、短編作家の名手といわれました。

いま振り返ると、とうじの銀座はきらきらしていて、東京に居ながらにして、ニューヨークなみにアメリカの情報が氾濫していました。いまでは、NHK「日本の素顔」の吉田直哉や、日本テレビ「ノンフィクション劇場」の牛山純一のように、伝説化された番組をアーカイブスで見るほかなくなったけれど、1960年代の東京を見てきた人間には、いろいろな出来事が映画スクリーンの一齣のように想い出すことができます。

銀座の裏通りを歩いていたら、ふたり連れの米海兵隊員が振り返ったのです。

真っ白いセーラー服に身をつつんだ米海兵隊員で、ひとりは黒人でした。そして、ぼくが大沢商会のエレベーターに乗ろうとしていたとき、白人の男が外から声をかけられました。

「ニホンバシ?」という声が聞こえたのです。

ほかに大勢人が歩いているのに、ぼくに声をかけてきたのです。ぼくは角帽をかぶっていたので学生であることをわかったのかもしれません。大沢商会のロビーでその男と立ち話をしました。

「どっち?」ときくから、

「あっち」と指差して答えました。そういっても、たぶんわからないだろうとおもったのです。

「コネチカットからきた可愛い女の子がいるんだ」と男はいったのです。日本橋といっても広い。

「ニホンバシのどこ?」とききました。男は地図を見て、

「トムズ・コーヒー・ショップ」といった。喫茶店かあとおもった。

ぼくは彼の持っている地図を見た。そんな店はどこにもなかった。大沢商会のエレベーターガールにきいてみました。彼女はエレベーターのドアに寄り掛かって、ぼくらのやりとりを聴いていたのです。

「トムズ・コーヒー・ショップ? 電話帳にのってないかしら?」と彼女はいいます。

ホールにある赤電話のところにある電話帳をひっぱり出してきて、彼女としらべてみた。ふたりの大きな男たちがのぞきこんだ!

トムズ・コーヒー・ショップはあった!

「電話してみたら?」と彼女はいうので、

「電話していいか?」と男にききました。そして「コネチカットの女の子、名前は?」

「ニューヘイブンからきた女の子だ。メアリー、……メアリー・オコナー」

「メアリー・オコナー? 彼女はライター? 作家みたいな名前だね」

「ノー、われわれはコネチカットの同級生なんだ。ハイスクール時代の」

「じゃ、会えるといいね」

ふたりとも笑みを浮かべます。

ぼくは電話して、メアリー・オコナーさん、いますか? とたずねました。じきに彼女が電話に出て、「はい? オコナーです」といった。

「あなたのボーイフレンドです」といって、男とかわった。白人の男は大きな声で、嬉しそうな顔をして話しはじめました。そして、最後にぼくが出て、

「これから、ニホンバシの三越前まで行きます」といって電話を切ったのです。

「あなたも、いっしょに行けば、……」とエレベーターガールはいいます。

「じゃ、行ってくる」といい、ぼくは、彼女に新しい映画のロードショー・チケットを2枚手渡した。「またきます」といって彼女と別れました。

銀座から銀座線にのって日本橋の三越前で降りると、メアリー・オコナーさんがにこにこして待っているのが見えました。彼女は駆けてきて、男に抱きつきました。3人は、早口でおしゃべりし、それを見届けてから、ぼくが帰ろうとしたら、

「コーヒー、いっしょに飲もうぜ!」といったのです。

「きみの彼女も、すてきじゃないか!」といった。彼らは22歳だといったので、

「ぼくは20歳だ」といった。

10分くらいゆっくり歩いてトムズ・コーヒー・ショップのなかに入り、それからコネチカットの話で盛り上がり、この2年間、ベトナムで兵役を無事に送ったふたりの顔は、喜びにあふれていました。もうひとりいたが、彼は撃たれて川崎の病院にいるといっていました。じきに彼も国に帰れるだろうといっていました。

東京の街には海兵隊員がうようよいました。みんな、東京でのしばしの休暇を精いっぱい楽しんでいるように見えました。

「東京は、大きな街だな。こんな街は見たことがない」と彼らはいったのです。

メアリー・オコナーさんは、父親に連れられて東京にやってきたといっていました。彼女の父親は米大使館の事務員をしているそうです。彼女はアルバイトで喫茶店ではたらき、毎週一回、NHKラジオの英会話の講師をしているといっていました。彼女は色白で、ブルネットのヘアが美しく、笑みも美しかったなとおもいます。そりゃあそうでしょう、2年ぶりにボーイフレンドと東京で会えたのですから。

ジョンと呼ばれる白人の男は、このまま東京に居残りたいといいだしました。

「それはだめだろう。本国で除隊式をすませないと」と黒人の男がいいました。

「それにしても、アジアは広いなあ」と彼はいいます。

ニューヨークもワシントンも知らない男たちは、ベトナムまでいき、いまこうして東京の街で、幼いころからつき合ってきた女の子と出会える嬉しさに酔っているようでした。黒人兵は手の甲に大きな傷跡がありました。メアリー・オコナーさんがそれを見て、彼の手をにぎり、

「痛かったでしょう」といいます。

「自分は、こいつのおかけで、命が助かったんだ」といい、ぼくはふたりのやりとりを聴いて、平和な東京にいては、何も知らないことをおもい知らされました。ヤンキー放送の伝えるニュースは、ジャズの切れ目に流れる、ほんの冗談みたいなニュースばかりに聴こえたものです。

ぼくがはじめてエレベーターガールとデートしたのは、そのころでした。

彼女は4、5歳年上でした。

ほら、むかしのエレベーターってジャバラ式で、降りてくると、箱のなかが見えるのです。最初に見えるのは、エレベーターガールの白い脚。そしてVゾーンの胸のふくらみが見え、顔が見えます。そこでおもわず視線が合ってしまうというわけです。

お客が降りると、ぼくが乗り込みます。

すると、

「じろじろ見ないでください」と彼女は、とても静かにいいます。学生服を着たぼくは、顔を赤くして、すみません、と小声でいいます。

彼女は6階まで黙って運転します。その気詰まりなこと、ぼくは、どうしようと考えました。で、帰りにまたエレベーターに乗り込むわけですが、ぼくはさっきはごめんなさい、といってから、バッグの中から日比谷映画館のロードショー公開中の映画チケットを2枚取り出しました。彼女は、目をパッと輝かせ、笑みを浮かべて、

「え、いいの? いただいちゃって?」

「はい、いいです。さっきはごめんなさい」とぼくはいいました。

「いいのよ、そんなこと。――さっき、あなた、どこ見てたの? 胸?」

そんなこと訊かれても、ぼくは何もいえませんでした。

「これ、ロードショーよね? 《あなただけ今晩は》? シャーリー・マクレーンの出る映画よね?」

「そのようです」

「じゃ、あなたと、ふたりでいっしょに観ない? いつがいい?」

彼女とは、その後デートを重ねました。ぼくは緊張していて彼女との会話がぜんぜんできませんでした。

すると、

「あなた、わたしといて、愉しい?」ときいてきました。そして、

「あなた、キスしたこと、あるの?」ときいてきます。

「えっ! ありませんけど、……」

「だったら、これから日比谷公園でも行ってみる?」

「外がもう暗いのに?」

「だからいいのよ! わかる?」

それからどうなったかは、書かなくてもいいでしょう。

ともかくぼくは、舞い上がったのです。――舞い上がって、北海道の許嫁(いいなずけ)の彼女の顔がおもい浮かんできたのです。じぶんも、古いなあとおもいました。許嫁(いいなずけ)ということばが嫌いになりました。だって、中国戦線に出征した同郷の親父たちふたりが中国の長春で意気投合し、もしも生きて帰ったら、おれたち、親戚になろうぜ! といって硬く誓ったっていうわけです。

そのころぼくは、ヘミングウェイの「武器よさらば(A Farewell to Arms)」という小説を読んでいました。もちろん原書で。彼女とこんなことがあって、しばらく、それどころではなくなりました。でも、エレベーターガールも本を読む人でした。彼女は恋愛小説を読んでいました。

「《武器よさらば》も恋愛小説です」というと、

「見せて」というので、ペンギン文庫の原書を見せてあげました。

「あなた、英文、読めるの? ふーん、わたしは学がないから、……」とかいって、「わたしはこれ、読んでます」といって、彼女は新潮文庫の「嵐が丘」を取りだしました。「でも、ヘミングウェイも読んでみたいわね」といいます。

イタリア兵に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリーが、イタリア軍は理想とはずいぶんかけ離れ、ヘンリーは、その戦場で看護婦のキャサリン・バークレイと出会い、はじめは遊びのつもりだったのですが、しだいにふたりは深く愛し合うようになります。

やがてふたりは戦場を離れ、スイスへ逃亡をはかります。

そのうちにキャサリンが妊娠していることがわかり、病院で難産の末、子とともにキャサリンは死んでしまいます。ヘンリーは打ちのめされように、雨のなか、ひとりホテルへと帰っていきます。

そのときの雨が、哀しみの雨を演出していました。

この小説のタイトル、「A Farewell to Arms」について、ぼくはちょっと考えていました。その話を彼女にいいました。

高見浩の解説によれば、

《原詩では、年老いた騎士が主君への奉仕の一線から引退しようとする心境がうたわれているのだが、ヘミングウェイは“武器よさらば”という余韻に満ちた言葉の響きに魅せられたのだろう。それと、英語の“Arms”には、もちろん“腕”という意味もあるから、原詩と離れた原題からは、愛する人のたおやかな腕に別れを告げる意も仄(ほの)かに伝わってくる。

そのことも、ヘミングウェイは意識していたにちがいない。ちなみに、彼が最後まで残した他のタイトル候補は次の四つだったという――The World's Room(世界の部屋)、Nights and Forever(夜よ永遠に)、A Separate Peace(単独講和)、The Hill of Heaven(天国の丘)。》

ぼくは、ほおーっとおもいました。

「どれが好きですか?」と訊いてみました。すると、

「《夜よ永遠に》が好き。だって、すてきじゃない? 夜が永遠につづけば」

ヘミングウェイの小説は、知られているように「A Farewell to Arms」となっていて、慣用句的に不定冠詞をつけています。

これにはもうひとつ捻った意味が隠されていると、ぼくはおもっています。強いて訳せば、「あの戦争よさらば」とも読めるのです。「あの戦争……」とはいったい何だろうとおもいます。

1918年7月ヘミングウェイは、ミラノのアメリカ赤十字病院に入院し、介護にあたってくれたアメリカ人看護師と恋に落ちました。アグネス・フォン・クロウスキーという、7歳年上の看護師です。

しばらくつきあっていましたが、ヘミングウェイは彼女に振られます。

小説に登場するキャサリンは、このときのアグネス・フォン・クロウスキーをモデルに描いたのです。

ヘミングウェイにはもうひとつ雨が主題になる小説があります。「雨のなかの猫(Cat in the Rain)」という短編です。

彼が24歳のときに書いたものです。

イタリアの海辺の町の風景は雨でぬれています。アメリカ人の若い夫婦が、小さなホテルに逗留し、妻は2階の窓辺にいて、窓のすぐ下に子猫がうずくまっていることに気づきます。

雨ざらしのテーブルの下にもぐりこんで、濡れまいとして懸命に体をちぢめています。

「あの子猫、連れてくるわ」彼女はいいます。夫はさっきからずっとベッドの端っこに寄りかかって夢中で本を読んでいます。「ああ、子猫がほしい」と妻はおもいます。あとで探したときは、猫はいませんでした。

「あの猫がほしかった」とおもいます。

メイドがあとで違う猫を抱えてやってきます。

「猫を持っていくようにと、主人からいいつかりました」と彼女はいいます。夫は、何食わぬ顔をしています。

妻は夫にかまってくれない寂しさから、猫がほしいとおもったわけです。というより、ぼくにはあの猫こそ、自分だとおもったに違いありません。そんなふうに女ごころの機微をさらっと描いていて、とても悲しい新婚夫婦を描いていたとおもいます。

そのときの雨も、哀しく描かれていました。

「窓の真下に水滴を滴らせる緑色のテーブルがいくつかあり、そのひとつの下に一匹の猫がうずくまっていた。猫は滴ってくる雨水に濡れないようにできるだけ身を縮めていた」と書かれています。

「身を縮めていた」のは、ほんとうは妻だったというのが、この小説のいいたいところだったに違いありません。

この小説のタイトルにも、定冠詞はありません。いかにも皮肉をこめたタイトルになっています。

銀座の大沢商会のエレベーターガール。彼女との想い出は、いまは、夜の公園でキスしたことしか想い出しません。20歳のぼくは、彼女と抱き合って、たちまち自爆してしまったのです。