■映画「砂の器」をどう見る? 1 ――

本忍脚本の《の器》

 

 原作者・松本清張                  

 

なんにぶん少し古い名作脚本である。

映画にはトリスバーが出てくる。

ウイスキーをソーダで割ったハイボールが主流で、カクテル類にも人気があった。昭和30年ごろに生まれ、爆発的な人気を呼んだ庶民的なバーだった。けっこう安いので、学生のじぶんも、銀座で友人と出会って満腹になると、そこらで気軽に飲んでいた。

秋になるすこし前、松本清張の「砂の器」と、――橋本忍の映画シナリオ作品――を、時間をかけて読み返してみた。そして、田村栄の「松本清張の世界――その人と文学」(清山社)、関口安義の「砂の器」(「解釈と鑑賞」平成7年)をあらためて併読した。

映画「砂の器」は、小説「砂の器」とはちょっと違っている。――まずその話からはじめてみたい。

この小説は、昭和35年(1960年)5月17日~昭和36年4月20日まで「読売新聞」夕刊に連載されたものである。

「点と線」が雑誌「旅」に連載されたのは、昭和32年2月からだったから、それから4年たって「砂の器」が発表されたことになる。

つい先日観た、録画保存していた松本清張ドラマは、娯楽作品としては楽しいものだったが、作品は完全にべつものである。脚本家の橋本忍が渾身の腕をしぼってまとめあげたという「砂の器」は、何が、どう違うのか。おもに、脚本のパワーというものを考えてみたいとおもった。

国鉄蒲田操車場の構内で、ひとりの男性の撲殺死体が見つかった。被害者の身元はわからず、唯一の遺留品は、蒲田駅近くのトリスバー「ろん」のマッチ1個だけである。

「ろん」のマダムやホステスを尋問してみると、たしかに前夜、被害者と思われる初老の男と、もうひとり、白いスポーツシャツにサングラスをかけた若い男がふたりで長時間話し込んでいたという。

そのとき、ホステスのひとりは、初老の男が東北弁で「カメダがどうした」とか、「カメダは変らない」などと話しているのを聞いている。

「カメダ」は、はじめ人名と考えられ、東北地方を中心にカメダという行方不明者や不審者が洗われたが、手がかりは得られなかった。

警視庁捜査一課の今西刑事(丹波哲郎)は、カメダは地名ではないかと思いつき、西蒲田署の吉村刑事(森田健作)とともに秋田県の羽後(うご)の亀田に出張するが、ムダ足に終わる。

 

 

 

小説は、そのシーンからはじまる。

捜査本部を解散したあと、事件は意外なところから進展を見せる。

被害者の息子(松山省二)が名乗りでてきたのだ。それによって被害者の身元がわかった。被害者は三木謙一(緒形拳)。彼は岡山で雑貨商を営んでいた。しかしここに、3つの疑問が浮かびあがってきた。

 

 ① 三木は岡山出身で、島根県で警察官をしたあと、郷里の岡山に帰り、雑貨商をはじめた。

  東北にはいちども行ったことがない。「ろん」のホステスが聞いたという東北弁の「カメダ」

  はどう考えたらよいのだろうか。「ろん」のホステスが見たのは別人だったのだろうか。

 ② 三木はだれからも尊敬され、けっして人から恨まれるような人間ではなかった。なぜ三木

  は、あんな殺され方をしたのだろう。

 ③ 三木は息子に、「気楽なお伊勢参りをしてくる」といって出かけた。それがなぜとつぜん、

  東京に向かうことになったのか、――という疑問である。

 

この小説は、昭和35年から36年にかけて読売新聞の夕刊に連載された。単行本として光文社から出たのは昭和36年7月のことである。これは小説のほうの「砂の器」である。

さて、映画「砂の器」は違う。映画の脚本は橋本忍が担当している。その橋本忍のことばを引用してみると、こう書かれている。

共作者の山田洋次は、「映画をつくる」(大月書店、国民文庫)のなかでこう証言している。まず松竹社内の企画会議で、映画化することが決まった。監督は野村芳太郎。野村の助監督だった山田洋次は、橋本忍の脚本を手伝うように命じられた。しかし山田が原作を読んでみると、長くて複雑で、とても映画にはできそうにない。

打ち合わせの喫茶店で、山田がそう進言する。

 

「この作品にはひとつだけいいところがあります」

「――いや、この作品にはひとつだけだが……、いいところがあります。それは山田くん、ここなんじゃないかと、おれは思う」

そういって、原作に一行だけ赤鉛筆で傍線が引かれているところを見せた。

それには、「福井県の田舎を去ってから、どうやってこの親子ふたりが島根県までたどり着いたかは、この親子ふたりにしかわからない」という記述だった。

「山田くん、ここだぞ! この映画の核心は!」と橋本忍はいった。

そういわれてみると、山田には、巡礼姿の親子が、雪の降る冬の海岸や、桜の村里、太陽が照りつけるあぜ道を歩いているイメージが一気に湧いてきた。ここは、小説には書かれていない。

「なるほど、これならいけるかもしれませんね」と山田は応じた。

さらに、捜査会議の日と、犯人の新曲発表会の日をおなじ日にしたらどうだろう、というアイデアが出た。こうして、喫茶店で一気にシナリオの構想ができあがったのである。――そのように書かれている。

  

 松本清張「砂の器」、新潮文庫

 

橋本忍の記憶に残っている部分は、山田の記憶よりもう少し前の部分だった。

橋本も原作が長くて、はじめはぜんぜんやる気がしなかったという。山田と橋本のふたりで山陰方面にシナリオハンティングに出かけたときも、橋本は原作をろくに読んでいなかった。

そして山田にいった。

「洋ちゃん、これ、やっぱりやんなきゃダメかな」ときいた。

あのとき、「洋ちゃんが《そうですね、これはちょっと無理ですよね》ともしもいっていたら、それで終わりだったよ、この話は。……ところが洋ちゃんは、《そりゃ、やっていただかなくちゃ困りますよ》と松竹代表みたいなことをいうんだよ。ははははっ、だからしょうがなく、ぼくはやったんだ」

と、橋本忍は述懐している。

しかし、このシナリオは、会議では費用がかかり過ぎるなどの難点が指摘され、10年以上もお蔵入りにされてしまった。橋本が独立プロを設立して製作が立ち上がるまで、日の目を見なかった作品である。

橋本らが費用を分担することで、松竹もようやく重い腰をあげた。

この映画の最大の問題は、ハンセン病患者のあつかいだった。小説では殺人犯の父親がハンセン病患者として描かれているが、くわしいことは描かれていない。

そのために問題はなかったのだが、いざ橋本、山田の考えた映画にするとなると、そのハンセン病が中心になるドラマが展開される。橋本忍は、そこを描くことができれば「砂の器」は完成したも同然と考えていた。

原作に書かれたすべてを描くのではなく、もっともドラマチックな部分を組み立て、つよい印象を残すことで、観終わったあとの全体の余韻がまるで変えられるというのが、橋本忍たちの考え方だった。

だから、小説では「福井県の田舎を去ってからどうやってこの親子ふたりが島根県までたどり着いたかは、この親子ふたりにしかわからない」と書かれ、作者・松本清張にも分からなかった物語を、橋本と山田がつくることになったのである。

これが映画づくりのおもしろいところである。脚本家・橋本忍は、それを描こうとした。

その目のつけどころに、ぼくははげしく撃()たれた。

小説には出てこない親子の暮らしが、映画ではなぜ長々と出てくるのか、当初、ぼくにはわからなかった。

父親(加藤嘉)がハンセン病患者であるという設定をつい忘れて見ていたからだった。

もちろん、松本清張はハンセン病患者を描くにあたって、多くの患者がどのようにあつかわれているかを取材している。

しかし、小説「砂の器」の狙いはハンセン病患者の問題ではない。

子どものころ、世話になった村の巡査と思わず出会ったために起こる悲劇に重点が置かれている。

そのあたりは、映画評論家でもある佐藤忠男さんのコメントがあり、それには「自分を完全に共同体から切り離そうとする人間が、共同体社会の代表者である巡査を惨殺する問題は、きわめて現代的である」と指摘し、「一人の若者の宿命的なドラマ」になったと述べている。

――たとえば、「ゼロの焦点」では、むかしパンパンガールだったことを隠すために、むかしのじぶんを知る人間を殺害するという動機とおなじ設定である。映画も小説も、その動機に重点が置かれていることに注目したい。

アリバイ隠蔽にかかわる部分では、空襲による「戸籍焼失」という出来事を悪用したり、小説では、超音波による殺人といった卓越したトリックが描かれたりして、当時のミステリー小説をおもしろいものにしていて、犯人像をつぎつぎと覚醒させていく叙述は、いままでになかったものである。

それと同時に、社会的に差別されているハンセン病患者の苦悩にもスポットをあてて描かれるところに、戦後日本の一時代の縮図を描いて成功している。当時の日本では、ハンセン病は「国恥病」であり、パンパンガールは、「ガード下の娘たち」であり、その数は4万人もいたと記録されている。

昭和21年11月に公布され、昭和22年5月に施行された「日本国憲法」だったが、「何人(なにびと)も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」とうたわれたのだが、時代は惨状をきわめていた。

さて、松本清張は、どんな資料を見て書いているのか知らないけれど、彼はよく足で調べて書いている。ぼくは、この「砂の器」をなんども読み返しているが、取材は、なかなかくわしいのだ。

 

豊岡で昼飯を食べた。一時十一分だった。

鳥取二時五十二分、米子よなご四時三十六分。大山(だいせん)が左手の窓に見えた。安来(やすぎ)四時五十一分、松江五時十一分。

今西栄太郎は、松江駅に降りた。

このまま亀嵩(かめだけ)まで行くと、三時間以上かかる。そこまで行っても、すでに警察署は係りが帰ってしまっている。今日のうちに足をのばしても、むだだった。

松本清張「砂の器」より

 

橋を渡った。

家並みはまだつづいている。かわら屋根もあったが、檜皮葺(ひかわぶ)きの屋根があんがい多い。郵便局を過ぎ、小学校を過ぎると、三成警察署の前に出た。建物は、この田舎とは思われないくらい立派だった。東京の武蔵野署や立川署ぐらいの大きさだった。

白いこの建物を背景にして、やはり山が迫っている。

松本清張「砂の器」より

 

すばらしい描写である。作者はこの土地を訪れて、じっさいに目で確認しているに違いない。「三成警察署」というのはじっさいに存在していた。

出雲三成(いずもみなり)という小さないなかの駅を下りてから、三成警察署に行くまでの描写がリアルに描かれている。そこにどんなホテルがあり、どんな旅館があるか、松本清張は調べたのだ。

同時に、出雲三成の街の地図を手に入れて、じっさいに歩いた道なりに描いているのかも知れない。

蒲田のトリスバーで見かけた客が「カメダは変らないでしょうね」と話していたのを記憶していたバーの女性は、そのことを刑事に伝えた。東北弁だったという。

この「カメダ」という、東北弁でしゃべる男の話から足がつき、警視庁の刑事は、東北ではなく、出雲の「亀嵩(かめだけ)」という地名に興味を持ち、そこを訪ねるシーンである。

「カメダ」と「亀嵩」とは別字だが、土地特有の語尾を落とす方言のあることを知った今西刑事は、ぜひにも、その土地を訪れてみたいとおもう。

東北弁は、あくまでも東北6県でしゃべる方言とされているが、この東北弁とそっくりに発音をする地方が、ほかにたったひとつだけあることに刑事は着目した。しかし、じっさいに土地の人間と会ってみると、みんなしゃべることばは標準語に近い。どうしてだろうと彼はおもう。

こっちが標準語を使うので、相手も標準語で答えていることが分かった。

仲間うちでしゃべることばは、出雲弁丸出しだったからだ。

「是非(どけじ)、その仇(あだ)を取ってごしなはいや。あげなええ人しを殺した奴(やち)は憎んでもあきたアません」という。――「ぜひ、そのアダを打ってください。あんなにいい人を殺したヤツは憎んでもあきたりません」という意味である。

これは、東北弁の抑揚とそっくりで、はじめて聞く人は、東北弁でしゃべっているとしか思えなかったのもムリはない。

刑事今西栄太郎は、東北とはまるで反対の出雲地方に、その謎に迫る手がかりが潜んでいるらしいと考えたのだ。そこに持っていく作品の展開がみごとである。