■北竜中学同期会に58年ぶりに出席した日。――

北緯45度線のピオンのように。

――今朝、夢を見ました。その話を書きます。

無事に帰り着きました。

旭川から飛び立った機内で、偶然にも、滝本光男さんに会いました。機内は満席でしたが、事情をいってアテンダントのお嬢さんに彼との同席を頼み込み、1時間半、たっぷり彼とおしゃべりを愉しみながらの帰途となりました。この天の采配にこころから感謝しているところです。

川田浩二さんには北竜町から旭川空港まで送っていただき、とても嬉しく思っております。「三浦綾子文学記念館」を訪れることができ、ぼくには望外の歓びでした。ありがとうございます。

ふるさと北海道で、「北竜中学同期会」に58年ぶりに出席。――2016年の秋は小走りに南下し、ひさしぶりにひんやりとした北海道の田園の空気を吸い、丘から丘へと連なるなだらかな田園の裾野を見ながら、北海道はいいなあと心から思いました。

はるか向こうに見える山並みは、神々の遊ぶカムイミンタラの出現かと見まがうような絶景です。

 

 

恩師・渡辺晋一先生(86歳)

 

ぼくは札幌からバスに乗って、丘陵や平野を突っ走り、北海道の田園の風景に目をうばわれ、車窓からながめる道行く人びとの姿をぼんやりと見つめていました。北緯44度線はどこも日向路は夏の終わりを迎えていましたね。

ぼくは札幌で、両親や伯母の墓参りをすませ、後ろから迫ってくる10号台風の行方を気にしながらバスに飛び乗ったのです。滝川で乗り替えると、客は自分ともうひとりの客人だけになり、ぼくは運転手さんにたずねました。

「このバスは、北竜温泉近くに行きますか? 北竜温泉に行くには。どこで降りたらいいでしょうか?」と。

すると、運転手さんは、にこっと笑って、

「このバスは、北竜温泉に停まりますよ」といいます。それを聴いていた客人はぼくに声をかけてきました。

「ぼくも、そこに行きます」とその人はいったのです。

「失礼ですが、北竜町の方ですか?」

「ええ、元は北竜町の人間でしたよ」

「ええと、お名前は?」

「川本です」

「もしかしたら、恵岱別(えたいべつ)の川本さんですか?」

「ええ、そうです」とその人はいいます。

「川本佐津子さん、ご存じですか?」

「ええ、佐津子はぼくの妹です」といった。

そしてぼくは、北竜町で中学校の同期会があるという話をし、「佐津子ちゃんと会えますかね?」というと、

「佐津子はもう行っているはずですよ」

といいました。ぼくは嬉しくなりました。

川本佐津子さんとは高校時代もいっしょでした。彼女はきれいな人で、みんなに好かれていました。いい寄る男子たちを袖にして、ぼくらの知らない別の男性と結婚されました。けれども、73歳の川本佐津子さんをぼくは想像することができませんでした。

「川本佐津子です」と名乗ったその方は、頭には白髪が多くなりましたが、いまもきれいな方で、ぼくは彼女にぬけぬけとその話をしたものです。彼女は、ぼくには永遠の女性です。小説のモデルにしたこともあります。

 

北竜町のサンフラワー・パーク。

 

サンフラワー・パークホテルの受付で出会った最初の寡黙な男、北清正昭さんはわかりませんでしたね。58年ぶりの再会でしたからね。それはそれとして、渡辺晋一先生にお目にかかったのがいちばん嬉しく思います。お顔はちっとも変らず、58年の旅のなか、途中でどこかで出会ったとしても、たぶん先生だと気づくでしょうね。86歳とは思えない物腰で、その立居振舞いには品があって、年季の入ったお姿。

お顔が白く、髪も白くて、黄色い花弁をつけ、まるで北海道の可憐なエゾコザクラソウ(蝦夷小桜草)のようでした。白い花弁なら高山植物のチングルマ(稚児車)といったところでしょうか。

そういう意味では、みんなも人生の旅の途中にあり、ぼくもいま、その旅の真ん中にいる、という気分でした。すでに旅を終え、天に召された方々もいて、――112名中28名、――さびしい気分に襲われました。

北竜町竜西では吉岡さんという女性とお話をする機会を得ました。彼女は数人で、道路端の広い畑で仕事をなさっていて、亡くなられた畏友森茂さんについて語っていただきました。ぼくは、感情惻々(そくそく)となり、残された人びとも、We‘re all in the same boat.おなじ船に乗った運命共同体という気分になったものです。

 

 

 

 

「故郷(ふるさと)は夕虹のさき馬走る」と詠った北竜町の田中北斗さんの句を想いだします。みんなの顔をおもい浮かべながら、いま、同期会で出会った方々の永遠の写真を見ているところです。

ふと柳瀬康治さんことが想いだされてきました。

彼は奥さまの手術をひかえ、2日目の朝、そうそうに帰られました。そんな折りによく来てくれたなと思います。彼は東京弁護士会の会長さんをなさっていて、いまも仕事で多忙なようす。中学3年には、彼はC組の学級委員でした。ぼくはA組の学級委員でした。B組の学級委員は山田隆司さんでした。

 

 

「バッハ作曲、G線上のアリア」

 

 

なかでも柳瀬康治さんは、雄弁家でした。

広島県呉市からは、からだが不自由なのに、滝本光男さんも来てくれました。また片桐さんという女性のお話は、ぼくはその彼女の酪農に取り組む、あまりにも過酷な北海道の労働の話を聞いて、とても切ない気持ちになりました。

彼女もまた多忙な折りに来てくれたのですね。中学の修学旅行には貧しくて、彼女だけ行くことができませんでした。

二上肇さんには、こういわれました。

「東京・目黒の幸光さんのお宅に泊まったのに、おもい出せないなんて!」と。もはや、往時茫々の荒野となりました。「グッバイを鞄に詰めて冬の旅」(吉田類)。

「ハナニアラシノタトエモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生サ」(井伏鱒二)、宇武陵の「人生 別離足る」を井伏鱒二さんはそう訳されました。これまで何1000人と会っているのに、「また会おう」といって一度も会うことはありませんでした。空海の「一生一別、ふたたびまみえ難し」はほんとうのようです。けれども、ぼくらは58年ぶりに会ったのです。奇跡のようです。

 

 

旭川空港にて。

 

このたびの同期会は、ぼくにとってまことに記念すべき、忘れがたい記念碑的なイベントとなりました。それを企画された発起人の方々の労を心からねぎらいたいと思いました。ぼくは蝶のように、――むかしタタール人がふるさとを追われてカラフトに亡命したときのように、蝶もひらひら大海を越えて渡ります。ぼくも、この人生を美しく、広い海峡を渡りきりたいと思っています、北緯45度線の美しい島に住むパピオンのように。

川田浩二さんもどうか、北竜町のために、町民のために、同期の仲間たちの果たせぬ夢を実現してくださることを切に願います。このたびは、たいへんありがとうございました。

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。

 (安西冬衛「軍艦茉莉」より。昭和3年

 

ついでですが、図書館から借りてきた塩田丸男の「日本詩歌小辞典」(白水社)という本に、安西冬衛のこの1行詩が載っていました。

だから借りてきたのですが、この詩にはじめて触れたのは、中学3年生のときでした。安西冬衛は、昭和3年(1928年)に創刊された同人誌「詩と詩論」の同人になっています。彼は奈良の生まれたようですが、官吏だった父の転勤にともなって満州の大連に移り住み、ここで青春を過ごしました。

そのころ、滝口武士の「屋根の上にあかしやの枝が折れてゐる」という句もあり、1行詩といえば、この「てふてふ……」がもっとも有名でしょう。

韃靼(だったん)というのは、モンゴル部族のひとつで、タタール人のことです。この海峡を最初に発見したのは、タタール人でした。それでむかしは、「韃靼海峡」と呼ばれたのですね。

英語では「タタール海峡(Strait of Tartary or Tatar Strait」」と書かれます。

サハリン北部とシベリアとのあいだにあるこの海峡を、「韃靼海峡」といい、おなじくこの海峡を発見し、サハリン(樺太)が島であることを確認したのは、江戸後期の探検家間宮林蔵でした。そういうことで、現在は、「間宮海峡」と呼ばれています。

安西冬衛は、この海峡を最初に発見したタタール人の勇壮な夢を、詩に託したわけです。しかも、蝶々が海峡をひとりで「渡って行った」といい切るのです。なんだか、一匹の蝶が、自分のような気持になります。

この詩集をぼくは中学校の図書室で見つけ、この1行詩を読んだのです。

蝶のような、小さな生き物が羽をひろげて海原を飛んでいく姿を想像し、えらく勇気ある行動に、びっくりしたものです。安西冬衛の「軍艦茉莉」という詩集は、しかし読んだ記憶がありません。この1行詩だけを読んだのかも知れません。それからずっと、この安西冬衛という詩人の名前を忘れずにいました。