北竜中学校時代の仲間たち。――

内での窓会。

 

左から田中幸光、川田浩二、小松茂樹、柳瀬康治の各氏。58年ぶりの再会。

 

きのう、北海道の中学校時代の同期の仲間たちと都内で会った。まあなんというか、58年ぶりの再会だった。58年ぶりだなんて、ちょっと考えられないくらいの時間だ。少年時代の顔が、全員70代の顔になるのだから、ぼくには想像することもできなかった。でも、おもしろいなとおもった。

うちひとりとは、ときどき会っていたので、ここ20年ほど会っていないというわけだが、あとのふたりとは、中学校を卒業してから一度も会っていなかった。ふたりともお互いに少年時代の顔しか知らないわけである。

柳瀬康治氏。

 

ある日、北海道・北竜町にいた人からとつぜん電話をもらった。小松茂樹さんからだった。

「ぼく、小松です」と彼はいった。

「小松さん? 小松茂樹さんですか?」

「おう、よくおぼえてくれていましたね」と彼はいった。

「おぼえていますよ。だってそうでしょ? 小松さんといえば小松茂樹さんしか、ぼくは知らないので」といった。

彼はははははっと笑って、

「しばらくでした」といった。「58年ぶりです」という。

「58年? ほう、もうそんなになりますか。おどろきですね」

「おどろきですよ。こんど北海道から川田浩二、彼がやってくることになったので、都内で仲間たちと会おうじゃないかっておもいましてね。田中さんの連絡先を、川田浩二さんから聞きましてね、……」というのだ。そういえば、ぼくは先月、川田浩二さん宛てに手紙を書いている。何を書いたかもう忘れてしまったが、手紙の最後に自分の名刺を貼りつけて出したことをおもい出した。そういうわけで、会うことになったわけだった。柳瀬康治さんもやってくるという。

「柳瀬康治さん? ほう、弁護士になった柳瀬さん?」

「そう。――」

「そういえば、ぼくは数年まえ、長谷川律子さんに会いましたよ。北海道の砂川で。砂川の彼女の美容室に行きましたよ」といった。

「へええ、それは知りませんでした」と彼はいった。

「そこでね、小松さんや柳瀬さんの話を聞きましたよ。でも、彼女はいうんですよ。――ごめんなさいね、わたし、田中さんのこと、おぼえていないのよっていうんですよ」

「おぼえていない? ははははっ」

 

川田浩二氏。

 

「そう。おぼえていないってね。ふたりともおなじクラスの学級委員だったというのに、ぼくのことは何もおぼえていないっていうんですよ。そりゃあわかるよ。だってぼくは、おとなしい子だったしね、いるのか、いないのか、わからないような、勉強のできない存在でしたからね」

「柳瀬さんもクラスは別ですが、学級委員だったしね。おぼえてますか?」

「おぼえていますよ。彼は頭のいいやつでしたね、弁護士になったほどですから」とぼくはいった。

「彼は、東京弁護士会の会長をやってますよ」という。

「会長? ほう。そうなの? で、今回、会長もやってくるんですか?」

「きますよ。29日、いかがですか?」という。仕事はあったが、ぼくはきのう休みをとって新宿に出かけた。あと数人に連絡したそうだが、病気療養中とかで来られなかった。

会ってみると、ふしぎなものだ。

待ち合わせは新宿のスタジオ・アルタの前。午後、全員そこで会った。まあ、会ってみると、たちまち中学時代の仲間になった。むかしのおもかげがあった。それから数時間、ビールを飲んで、全員、中学生になった。

「8月の、北海道での同窓会だけど、おれは行くよ」とふたりはいった。いうまでもなく、ぼくも行く予定だ、といった。

 

小松茂樹氏。

 

「北竜町にはひさしぶりなので、深川まで行って、そこからレンタカーを借りて行くよ。同窓会の翌日、北竜町をぐるっとまわってみたいですからね」とぼくはいった。子供のころ、よく行った、暑寒別岳が大きく見える恵岱別のほうまで行ってみたいといった。

柳瀬康治さんは、真竜小学校の5年生から中学校を卒業するまで、北竜町にいたらしい。彼のお父さんが亡くなって都内に住むようになり、中学校の卒業式に出られなかったそうだ。卒業証書は、あとで送ってもらったといっていた。彼は立教大学法学部を出ている。そのころ、ぼくは銀座に住み、明治大学文学部に通った。彼は大門の近くに住んでいたらしい。銀座とは目と鼻の距離だが、おたがいに知らずにいた。

彼は苦学をして、法学部を出るまえ、大学4年のとき、司法試験と国家公務員試験を受験して、両方とも合格し、1年間公務員をしたという。その後、司法研修所に入って、公務員経験もあって、任官してもいいかもしれないと思い、年度末の3月終わりに弁護士をしようと決めたそうだ。弁護士になろうと決めて1年間、先輩に就職先を世話してもらおうとおもいたち、先輩の阿部三郎事務所を訪ね、阿部先生に「うちの事務所に来ないか」と誘われて弁護士になったという話を聞いた。

そして、オウム真理教の破産管財人補佐をする常置代理人になって破産処理を担当していたことがわかった。――弁護士といえば、ぼくは正木ひろしさんと面識があったが、その話はいわなかった。やっぱり、柳瀬康治さんは頭がいいんだな、とぼくはいった。

「あんたは字がうまいじゃないか」と川田浩二さんがいう。ぼくが学級委員になったというのも、頭がいいからじゃない。ただ字がきれいだというだけの理由だったらしい。

「ぼくは、転校してきた香月幸子さんが好きだったんですよ」というと、みんなは彼女のことを知らないという。彼女については、川田浩二さんがくわしかった。好きなくせに、ぼくは彼女のことを何も知らなかった。

香月幸子さんに、「田中さん、進学するんでしょ?」ときかれて、

「うん」というと、「香月さんは?」とたずねた。すると彼女は、

「わたしは、……お嫁にいくかもしれません」といったのだ。それは強烈なことばで、ぼくは打ちのめされた気分になった。打ちのめされたことのない幸運な男がいる。それは小松茂樹さんだ。彼は小学校時代から好きな女の子がいて、いつもいっしょにいた。

それに、小松茂樹さんは、村ではだれよりも恵まれた存在だったなとおもう。呉服店を営み、小学生のころ、村ではじめてテレビを買った家だ。みんなはやわらの小松店に行って、テレビで力道山の闘うシーンを見たりした。そのころ、ぼくの家には電気というものがなくて、ラジオやテレビには無縁だったという話をした。

小学校の修学旅行に小松茂樹さんはカメラを持って出かけていた。あのころ、小学生が自分のカメラを持っていることがどんなにめずらしいか、そういう話になった。

きのうもやっぱり、彼はニコンのカメラを持っていて、みんなを写していた。ぼくはいい加減酔っ払っていて、真っ赤になっていた。

そして、柳瀬康治さんがトイレからもどると、

「川田浩二、……そう、ぼくは川田浩二さんには勉強で敗ける気はしないとおもっていたけど、その、なんというか、人望というか、生まれながらの資質というか人格というか、そういうものには敗けるな。おれはそうおもうよ。いくら勉強ができてもね……」

「そう、それはいえる!」とぼくはいった。「だから生徒会長になったわけだし、……」

「自分が目標に立てたのは、じつは川田さんみたいになりたいということでしたよ」と、ぼくはいった。自分のおもっていることを堂々といえること。少なくとも、自分の考えもいえないことは、恥ずかしいとおもった。ぼくは高校生になってから自分を変えようとおもった。その話をした。

「――電話してみて、あなたは変わったなとおもいましたよ」と小松茂樹さんがいった。

小松茂樹さんや柳瀬康治さんは、秀才型。川田浩二さんはなんというか秀才とはおもえないが、男としての魅力がだれよりもあって、人のこころのわかる人。同級の岩田達郎さんみたいな人だったなとおもう。

「ぼくはおもうんだけど、北竜には5年しかいなかったけど、ぼくの忘れがたいふるさとで、北竜には、あなた(川田浩二さん)がいてくれるので、いつでも行きたいとおもうんだよ」と、柳瀬康治さんはいう。

そういう彼の話をはじめて聞いた。

「ぼくも、そうおもうよ。北竜町には行けなくても、手紙を書いて切手を貼ればとどくんですからね。その相手は、たいがいあなたですよ」とぼくはいった。いつだったか、ぼくは彼に分厚い手紙を書いている。原稿用紙にすると、900枚くらい書いて。それっていったい、何だろうとおもう。

「あんた(田中)とは、妙なところで会うんだよ。ある日、北海道からやってきて、新宿の道を歩いていたら、あんたと偶然このあたりで会ったじゃないか。1000万人都市、東京だぜ!」と、川田浩二さんがいう。そういえば、札幌でも会っている。偶然に。

「おぼえている?」とぼくがきくと、

「そうだっけ? ……幸光くんとは、予期せず、よく会うんだよ」と彼はいった。

「さっきまで、おれとすれ違っても、お互い、おわからないよな?」と、柳瀬康治さんがいう。

「わからない、わからない。けど、これからはわかるよ」とぼくはいった。

「ははははっ、これからはわかる」

そんな話をし、最後に、店のお姉さんを呼んで、カメラでみんなを撮ってもらった。全員74歳。この8月、「また北竜町でみんなと会おう」といって、カメラにおさまった。先生方もきてくれるそうだ。8月も楽しみだ。