会社の送別パーティーで謝辞を述べたあと、司会者から「41年間のサラリーマン生活をふり返つて、最も誇りに思ふことは何ですか」と、型どほりの質問を受けた。
 
 「病気をしなかつたことでせうか」
 「ほう、この間、一度も病気をされなかつたですか」
 
 「鼻風邪程度のことはありましたけれど、41年間、少なくとも病気で欠勤したことは1日もありませんでした。毎日毎日、馬車馬のやうに元気に出勤しました。ただ休まず出勤してゐただけのことですが――」
 
 会場から失笑がもれた。現役最後のスピーチなのだから、もう少しウイットにあふれた、だれもが納得する手柄話とか人を食ふやうな話でもするのかと思へば、ただ出勤し続けただけのことか、といふ笑ひだつたらう。
 
 リタイアしてからも、幸ひ発熱して寝込んだり腹痛を起こして医者に駆け込んだりといふことは一度もないから、かれこれ50年間、朝から病床に伏すといふことがない。
 
 鉄棒の逆上がりもできない虚弱児だつた小中学生のころには想像もできなかつた事態である。
 
 ――などと誇らしげに書くと、「先日まではあんなに元気で、病欠ゼロを自慢してゐたのにねえ」などと、焼香の行列で参列者がひそひそ話を交はすなんて光景が、この歳になるとよくあるので用心しなければいけないけれど、この50年といふ同じ期間、一日もぼくの体から離れない物がある。
 
 ぼくはひそかに、これが古稀を越えた男の、霊験あらたかな健康のお守りだと信じてゐる。
 
 それは、北海道の土産物屋ならどこでも売つてゐるやうな、縦3センチほどの、おそらく槐(えんじゆ)の木と思はれる艶やかな木片に、アイヌ娘のたをやかな顔が彫られた根付である。
 
 娘の細面の両脇には長い髪がゆたかに流れ、頭にはアイヌ民族らしい鉢巻きの模様が入つてゐる。
 
 裏には、「阿寒湖 44、7、4」の彫り文字と、ぼくのイニシャルが刻まれてゐる。ある人が北海道へひとり旅した直後にプレゼントしてくれた。
 
裏面の数字は昭和44年(1969)の意で、もらつた当初は小銭入れに付け、仕事で車に乗るやうになつて10年ほどはワーゲン・ビートルのキーに垂らし、世に携帯電話が登場するやうになつてから30年弱、7、8台のケータイを転々として、いまは2台目のスマホに使つてゐる。
 
これが健康のお守りだという根拠は何もなく、ただ毎日胸ポケットの中で手にふれる人生の時間と、病気と縁のない人生の時間がたまたま符号してゐるからさう信じるだけで、だいたいお守りとか信心とかいふものに根拠や科学的裏づけは必要なく、これがわがお守りだと自分で信仰すればそれなりに効能はあるといふものだらう。
 
科学的根拠は日々の赤ワインに任せようか。
 行きつけのブラスリーのコックが変はつた。店長に言はれて初めて知つた。
 
 「去年の後半から、ランチ客の入りが悪くなつてゐたものですから、何人かの常連さんに率直に聞いてみたのです。そしたら、おいしくないつて言はれたので、思ひ切つてコックを代へました」
 
 繁華街からやや離れた位置にあるこの店は、単価の稼げるディナー客は平均すると日に2、3組。1か月の平均売上げ約300万円の大部分は、毎日50~70人のランチ客に頼つてゐる。それ以外に、ぼくのやうなワインだけの客や、珈琲一杯で長居する近所の井戸端会議の女性たちがゐる。
 
 問題のランチメニューは、どこの食堂にでもありさうな、ハンバーグなどの肉料理、季節の魚料理のほか、日替はりのパスタ料理で、珈琲か紅茶が付いて1200円。
 
 こんなポピュラーな料理で旨い不味いの差が出るものかと首をかしげるが、五十男の店長によれば、新しいコックになつてから少しづつ客足が戻つてきたさうだから、客の舌といふのも馬鹿にはできない。
 
 ぼくの41年間のサラリーマン生活では、日々、昼と夜は外食だつたから、そのときの仕事場につれて、大手町、六本木、四谷、人形町など、かなりの数の飲食店を渡りあるいた。
 
 どうしやうもない店もあつた。オムライス専門店といふから、ふわふわ卵
の中に鳥肉とケチャップにまぶされたご飯を想像してゐたら、破れさうなほど薄い卵焼きの皮は味も素つ気もなく、中身は真つ白な米だけだつた。新橋にあつたその店は半年もしないうちに消えた。
 
 中華料理なら当たり外れはないだらうとランチに飛び込んだ店は、すべてを旨く味つけする油料理、しかも何でも一定水準の味にする中華ソースを使つてゐるのに、どうすればこんな扁平な、ただ安油と胡椒と塩を混ぜ合はせただけのやうな肉野菜炒めが出来上がるのか、とむしろ感心させられた。銀座の中心部のビルの地下にあつたが、あれでは家賃が3か月も払へなかつただらう。
 
 リタイアしてから外食の機会は激減したが、最近、家族の誕生会とか昔の仲間との新年会、友人との集まりで利用する店には、さすがにかういふところはなく、例外なく旨い。いや、正確に言へば「不味くない」。
 
 とくに旨いとも、とくに不味いとも言へない、だからおそらく客から賞賛の声もない代はりに、「カネを返せ」といふクレームもつかない、無難な、中庸の味の店がほとんどだ。
 
待てよ、とそこで考へる。
旨くも不味くもない店が増えたのではなくて、いまだつて昔と同様に、町には旨い店も不味い店も混在してゐるのだが、近年のスーパーや外食産業による「より安く、より簡単に」ほどほどの味を社会にばらまく戦略に馴らされて、いつ知らず感度が落ちたぼくの舌が、旨いか不味いか識別できなくなつてゐるだけではないのか。
 
もしかしたら、それがぼくだけではなくて、「時代の舌」になつてゐるのではないか。戦後のある時期、だれもかれもが、かの白い化学調味料に馴致されて舌が麻痺したやうに、いままた、昔よりはるかに寡占、巨大化した食品業界の、巧緻で、あざとい「味の大衆化」路線によつて、ぼくたちの味覚が平準化され、不感症になつてゐるといふことではないのか。
 ことしの初夢はどんなものだつたかといふお尋ねですか。
 
困つたなあ。若いころから枕元に夢日記専用の手帳を置いてゐるくらゐ、夢はよくみるのですが、夢といふのは極度にプライベートなものですから、その中身をお話しするといふのはやはり恥づかしいです。
 
それに夢つて、ご存じのやうに、後で振りかへると他人にお話しできるほど結構の整つたものはほとんどありませんよね。みんな破天荒で、虚妄で。
 
 でも、折角のお尋ねですし、年に一度のおめでたい初夢ですから、文字どほり夢をつかむやうな猥雑な筋書きのぼくの初夢をできるだけ思ひ起こし、少々整理しながらお話しませう。
 
それは正月四日の明け方のことでした。明け方とはいつても、この日はだいぶ寝坊しまして、起きて部屋の壁時計をみると午前十時を回つてゐました。
 
二日、三日と、箱根大学駅伝をテレビ観戦するために、ぼくにしては早起きしてゐましたので、時節のわりに気味悪いほど温暖だつた四日は、かはたれ時からふだんになく熟睡してゐたのです。
 
よれよれの白衣を着流した、痩身の老人が黒板の前に立つてゐました。とうに引退して名誉教授の肩書きの先生か、霧ふかき山の中に住む、名もなき仙人のやうな老人です。
 
彼はただ一人の受講者のぼくを前にして、黒板に向かひ、昔ながらの白墨を持つて(今風に言ふなら「アイ・ハブ・ア・チョーク」か)、朴訥な書体で何か書きました。
 
「一文一語」です。
「一期一会」は聞いたことがありますが、「一文一語」は初耳です。
 
「わかりますか」
教壇の高みから、老人はぼくに問ひかけました。
 
「ワン・センテンス、ワン・ワード?」
受講者はわけのわからないことを答へます。
 
「いいですか。よく聞いてください。あなたはこれまでの人生で、いくつ文章を書いてきましたか」
 
「新聞記事や小説を書くのがぼくの人生でしたから、文章は無数に書いてきました」
 
「さう、生活の糧、あるいは心の糧を得るために、あなたは無数の文章を書いてきた」
と男は、受講者のうしろ側を見はるかすやうな、透徹した目をこちらに向けます。
 
「だが、あなたはこれまで、浜の真砂のごとき無数の文章を書き散らしながら、その文章ひとつひとつに、真心をこめた一語を投入したことがありますか」
 
「真砂、真心?」
 
「いまや老境に入つたあなたは、これからはただやたらに文章を書くのではなくて、一つ文章を書いたら、その中に最低一語は、ご自分で得心のいく言葉、ご自分でも心がわななくやうな言葉を遣はなければなりません」
 
「はい」
「たとへ数行のメモやメールでも、原稿用紙千枚の小説でも同じです。その中に、努力して最低一語は、真心からの言葉、真心からの表現、真心からの叫びを入れなさい。でないと、あなたはこの先いかに多くの文章を書かうとも、すべては紙屑同然。一生を悔やむことになります。心がけるべきは『いちぶんいちご』です」