壁掛け式の電話機の受話器を外して耳にあてる。交換台の慣れた女性が出て、「何番へ?」とささやく。

「ろつぴやくごじゅうばん、お願ひします」
子供心に、「六百五十番」は「しあはせの番号」だつた。

「はい、珍楽」
おやじの声がする。名前を告げ、「ラーメンとタンメンとチャーハン、お願ひします」。

三十分もしないうちに、門前に自転車のスタンドを立てる金属音がして、出前のスチール箱をさげた小太りのおやじが、茶の間に顔をのぞかせる。

どんぶりに親指を突きさして取り出したラーメンと割り箸を、縁側に置く。

戦後間もない貧しい食生活のなか、「珍楽」のラーメンは最高のご馳走だつた。

もう開店百年近くになるだらうか。おやじが亡くなつたあと、息子ふたりが跡を継ぎ、愛想の悪かつた長男は十年ほど前に病死したが、その後、ぼくより二つ年下の七十男がひとりでひつそり店をつづけてゐる。ラーメン屋はしぶとい。

仕事で初めて中国へ行つたとき、夜は北京ダックもいいけれど、昼は珍楽のとはおそらく別種の、「本場のラーメン」を食べたいと思つて、目抜き通りにある一流ホテル・北京飯店の主食堂へ入り、メニューをさがした。

どこを見ても「拉麺」の文字がない。決して笑顔を見せないこの国の女性店員に、「ラーメン」と言つたがむろん通じない。

下手な英語で、「麺とスープが一緒になつたもの」と説明すると、分厚い皮革のメニューの前のほうの、ある料理を指さした。

中国語の品名の下に、英語で「ヌードル」と説明がある。出てきたものは、日本の皿うどんみたいなものだつた。
 
 ことし九十九歳になつた元総理大臣の中曽根康弘氏は、若いころから頭は始終政治のことで覆はれてゐて、食べることにはあまり関心が回らなかつたのか、自民党幹事長のころ、国会内で昼どきになると、衆院、参院どちらも二階にある、晴れやかな議員専用食堂(通称「衆食」「参食」)は避けて、二階の幹事長室から議事堂一階の中央にある、昔の社員食堂のやうな暗い職員専用食堂へ下り、買ふ食券はいつも「チャーシュー麺」。ときどきそれにバナナを一本追加した。
 
 「をかしな組み合はせですね」
 と言ふと、
 「何か腹に入れておけばね。昼飯なんてそんなものだらう」
 と、毎日毎日「チャーシュー麺」。それでも長生きしてゐる。
 
 年に数回、まだ高校生だつた息子を四谷三丁目の寿司屋に連れて行き、カウンターに腰を下ろすと、まづ千円を渡す。

 息子も心得たもので、一つも注文しないうちに寿司屋を出て、大通りの反対側にある激辛ラーメン店へ行き、やがて
 「けふは下から三つ目の中辛を食べてきた」
 などと戻つてくる。

食べ盛りの高校生が空腹に任せて「トロにアナゴ、アワビ、イクラ……」なんて注文したらこちらの財布がたまらないから、とりあへずラーメンで腹を下ごしらへさせた。
 
 女遊びでは腕のいい友人が教へてくれた。
 「目星をつけた女に、『食事は何にしますか』と尋ねて、相手がフレンチとかイタリアンとか寿司なんて答へたら、まあ脈はないと諦めたほうがいい。ご馳走するだけ無駄だな。『ラーメンかお蕎麦』と言ふ女がゐたら、その晩、OKだよ」
 
 ラーメンといふのは奥の深いものらしい。

JR田町駅の先で第一京浜を西にはひり、御田八幡神社の境内をぬけ、お寺に囲まれた住宅街のあひだの、やたらに線香くさい幽霊坂をくだる。

前から来た別々の自転車の母子が楽々と上つていく。二台とも電動式自転車だ。

JRが企画した「駅からハイキング」に夫婦で参加した。

渋滞や駐車に気をつかふドライブより気楽だけれど、日ごろ出不精な夫婦だから、この手の遊びに加はることはまづない。

田町の駅長をしてゐる長男が「ひまだつたら参加して」とわざわざ誘つてきたので、一大決心の早起きをして、駅でもらつた地図をひらひらさせながら歩き出した。

幽霊坂の下を左折、白金商店街を通り抜けて、白金氷川神社に立ちより、こんどは魚籃坂をのぼり始める。

上つた先の右手に、赤穂浪士で知られる泉岳寺がある。坂の上からは、片側三車線の第一京浜越しに、新幹線や東海道線、山の手線、京浜東北線の線路が見える。

それまで手元の地図に吸ひ寄せられてゐた目が急に上を向き、自分の周囲が見えてきた。

びつくりした。泉岳寺につづく下り坂にも、泉岳寺前の広場にも、第一京浜の歩道にも、蜜にむらがる蟻のやうに観光客の人波が何列もつづいてゐた。

ぼくが衝撃を受けたのは、それらがすべて老人だけだつたからである。

「星ふる里」と書かれた旗を先頭に、二十人ほどの男女がゆつくりと移動してゐる。その後ろからは、三角形のバスツアー会社の旗をかかげた団体が行く。

「シニア大学」と読める旗もある。ある多人数のグループは、集団の目印なのか、全員が剣呑な赤い色の紙袋をぶらさげてゐる。

そろつて茶いろや黒やグレーのくすんだ色の服を着て、踵の磨り減つたウオーキング用の靴をはき、背や肩に小型のバッグをかけ、男も女もほとんどが腹を病気のやうに膨らませて、力なくうつむいたり、腰を大きく割つてふんぞり返つたりしてゐる。

ほとんどが茶いろか黒の帽子をかぶつてゐる。車椅子の人もあれば、両腕に安つぽい光を反射するステンレス製の杖を装着した者もゐる。

老人たちはみんな不満をかこち、怒りをたたへてゐるかのやうに仏頂面をしてゐる。ある者はほとんど首を動かさず、ある者は決して笑はず、ある者は背をくの字に曲げてゐる。

大柄な男は巨きな骨盤を誇らしげに、前に押し出すやうに歩くので、前後のバランスを維持するために両手を腰の後ろにあてがつたまま前進する。

近づいてみれば、たぶん、その唇も頬も髪も、時折吹きぬける海風と雑踏のために乾燥しきつてゐるに違ひない。

おそらくそこでは、歩き疲れた老人たちのぜいぜいといふ呼吸の音や、各人のポケットで歩数計のきざむ機械音だけが、まだ生きてゐる証明のやうに鳴つてゐることだらう。

毎日散歩のたびに着てゐるジャンパーからは、雑巾のやうな腐臭がし、たまにしか洗はない頭髪からは、むせ返るやうな加齢臭が発散してゐるに違ひない。

だれもが一歩一歩、転ばないやうに左右の均衡をとりながら歩くので、寺へつづく列の進みはのろく、すぐ前が詰まり、至るところで渋滞が起きてゐるーー。
 
 息が詰まる感じがして、そこから逃げ出すやうに線路をまたぐ道に出て、レインボーブリッジに連絡する、高層マンションの中の道を行く。

 よく晴れた日で、レインボーブリッジの北側の歩道から下をのぞいたら、海に太い海藻の束のやうな黒い線が走つてゐる。
 
 「何だらうね、あの黒い線。橋の下を利用して通信ケーブルでも通してゐるのかな」
 と家人の目を下に促す。
 
 「ああ、あれ。この橋が海面に映つてゐるだけよ」
 さう言つて、家人はもう数十歩先をあるいてゐる。この日ぼくが見た風景は、ぜんぶ鏡だつたのか。
ソニーのMC60――薄手のマッチ箱より小さいマイクロカセット1個を、宝物のやうに引き出しの奥に仕舞つてゐた。
 
1980年9月14日、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)郊外の「招待所」で金日成(キム・イルソン)主席と握手したとき、内ポケットに忍ばせてゐた小型レコーダーのテープである。
 
自民党のアジア・アフリカ研究会の訪朝団に同行した。
山や湖に囲まれた別荘のやうな「招待所」の玄関で、大柄な金主席は訪朝団一行につづいて、随行記者団にもひとりひとり握手で出迎へてくれた。
 
順番になつたとき、レコーダーのスイッチを入れた。手が分厚かつた。
 
正面から相対して、新聞社名と氏名を名乗る。笑顔をみせながら、金主席は意外に小さな、低い音で何か言つた。
 
脇から通訳の男が「歓迎します」と訳した。テープを聞くと、主席の声より通訳の声の方が大きい。北朝鮮の大親分の肉声は、当時も今もあまり出回つてゐない。
 
このほど平壌で、「金日成主席生誕105年」を祝ふ大層な式典が開催された。
 
金日成と金正日の巨大な親子像が建つキム・イルソン広場では、これ見よがしに最新の弾道ミサイルも公開された。
 
思はず金主席の肉声テープを思ひ出し、レコーダーに掛けてみた。反応がなく、電池を入れ替へてもテープは回らない。
 
もう20年以上使つてゐないから、どこか錆びついたか故障したのだらう。
 
4月中旬、昔の仕事仲間が久しぶりにわが家に遊びにきた。庭の枝垂桜はもう葉桜に変はつてゐた。
 
「ここで40人くらゐ集まつて花見をやりましたよね。満開でした。あのときの写真、ありますか」
と言はれて当惑した。写真はもうしばらく整理してゐない。
 
フィルムで撮影し、DPE屋に焼付けを頼んでゐたころは、一葉一葉きちんとアルバムに貼り付けてゐたのに、カメラからパソコンに取り込んで保存するやうになつて、扱ひが粗略になつた。
 
デジタルカメラやスマホで簡単に撮影できるから、撮影も保存も安易になつただけ、写真の有難味は薄れた気がする。アルバムのやうに他人と一緒にながめる楽しみもなくなつた。
 
仕事や旅行、趣味、文学などのデータや地図、参考書の保存も次第にぞんざいになつてゐる。
 
本棚の下半分は茶封筒に入れた資料などの棚だが、最近、その棚にならぶものが増えない。
 
これも年齢と関係があるのかな、とふと思ふ。
 
何かを取つておく、保存しておくといふのは、将来、その資料や写真を取り出して使ふ場面を想定するからだが、いまやその資料をもう一度必要とすることがあるかどうか分からないから、保存に熱が入らない。
 
もしそれが必要な事態になつても、映画「カサブランカ」のハンフリー・ボガードぢやないけれど、「きのうのこと? そんな昔の話は忘れたよ」で、すべてが許されてしまふといふのが悲しい。