10代の卓球選手の活躍が刺激となつて、いま中学、高校の部活動で、卓球部の人気がサッカーに次ぐ勢ひだといふ。
「ピンポン」といふ響きこそふさはしい、一見虚弱で、なんともマイナーなスポーツのあの卓球が、一時的にしろ、ここまで注目されるのは嬉しい。
といふのは、ぼくも中学、高校と卓球部に所属、中学生のときには地域の大会で準優勝したこともある「卓球少年」だつたからで、戦後間もない昭和20年代の卓球ブームを存分に楽しんだ。
小学校から帰ると、放り出したカバンの代はりに、布製のラケット・ケースと2個入りの球ケースを持つて、大人用の自転車を三角乗りして町の卓球場へ通つた。
卓球台が3台しかないこの卓球場は、後に「不良の溜まり場」として排斥されるのだが、当時は日本中どこでも、町の卓球場は子供から大人まで、健全な遊びの場だつた。
当時のラケットは、ペンや鉛筆を持つのと同じに、柄を親指と人差し指で支へる「ペンホルダー」が主流で、ぼくはこれに逆らつて、いま主流の、テニスのラケットのやうに柄を握る「シェイクハンド」(握手)の丸いラケットを使つた。
戦ひ方もペンホルダーの攻撃主体に対し、卓球台から距離を置いて相手の球をカットで拾ふ守備が中心になる。
中学生の大会で準優勝したとき、決勝戦の相手は大会前から優勝候補と目された少年だつた。左右の動きの機敏な男で、こちらが相手のバック側に流したはずの球をいつの間にか回り込んでフォアで打ち込んでくる。
それでも日ごろあまり対戦することのないカットに手こずつてかミスを連発、最初のセットはぼくが楽勝した。
当時は1セット21本ゲームで、21対13。ところが次のセットになると、相手がぼくのカットの切れ具合を徐々につかんできて、相手のスマッシュが決まり始めた。12対21で負けた。
最後の第3セット。
やはりぼくのカットはしばしば強く打ち返されて、こちらの返球が少し浮くと強打され、カウント7対13で、サーヴは相手に代はつた。勝負どころである。
そのとき、背後からコーチの背の高い中年教師が大声でぼくの名を呼んだ。
「〇〇! 打て!」
観衆もほとんどなく、決勝戦が行はれてゐるだけの静かな体育館に、その命令は砲弾のやうにひびいた。
日ごろ、この教師からは「カットマンはカットに徹する。相手の返球が少し浮いて、打ち込みたくなつても我慢しろ。もう一球カットでつないで、相手のミスを待つ。それがカットマンだ」と教へられてゐた。だから咄嗟に守備から攻撃に作戦変更する練習はほとんどしてゐなかつた。
しかし、コーチから「打て!」と言はれたら打ちにいかなければならない。台に一、二歩近づいて、相手の変化球サーヴを打ち返す。
優勝候補の変化球はさすがに曲者で、サーヴ5本の返球はみんな外に出たりネットに引つかかり、結局、最終セットは8対21で惨敗した。
ぼくが卓球少年として身につけたことは、むやみに攻撃しようとするよりも、球を拾ひに拾つて、一球一球つないでつないで、相手のミスを待つといふ姿勢だつた。
また、一度信奉したその哲学を、あるとき姑息に変更しても結実することはないといふ教へである。
就職した会社には41年間勤め通し、生まれたのと同じ場所で70年余を過ごし、結婚相手もついに50年変へず、小説は10代から50年以上書き続け、古くからの友人は40年超つづく……。
それが結果として良かつたのかどうかは分からないけれど、これも守備型カットマンの哲学と言へば言へるかもしれない。
最近の卓球は、ご存知のやうに攻撃あるのみ。守備に徹し、打たれても打たれても球を拾ふなんて選手はまづゐない。
スポーツとして面白くはなつたのだらうが、卓球に人生の味はひは薄れた。
