茶の湯の世界に初めて触れたのは、三十歳を過ぎたころだつた。
自民党担当記者として朝から晩まで党本部に出入りしてゐたとき、長年にわたり幹事長室の秘書をつとめ、口さがない若手議員から「幹事長室の女王」などと冷やかされてゐた中年女性から、「ぜひ紹介したい人がゐるの」と、ある日、ホテルオークラの茶室・聴松庵に案内された。
聴松庵の支配人をしてゐたのは、まだ二十歳になつたばかりの女性で、東京を発祥とする江戸千家一門の理事長のひとり娘・井上唯雪師だつた。
「幹事長室の女王」はこの理事長直々に茶を習つてゐたので、日ごろ職場での無駄話で茶道の話にすぐ乗つてくるぼくを師匠の愛娘の弟子にさせて、師匠に点数を稼がうといふ意図があつたのかもしれない。
ぼくの上の姉は裏千家、下の姉は大日本茶道学会と、どちらも茶を教へてゐるから、かねてから茶道には関心を持つてゐた。
ホテルオークラなら職場の国会議事堂に近く、通いやすいし、姉たちと流派が別といふのも面倒臭くなくていい。
それからざつと十年間、毎週木曜日の午後三時半になると、国会議事堂や自民党本部にある記者クラブをそつと抜け出し、社旗のついたハイヤーでホテルオークラに向かつた。政治記者にとつて、夕刊がをはる午後二時過ぎから夕方までは自由時間である。
茶の稽古はスーツのままだと立つたり座つたりが不自由なので、下だけ伸縮性のあるものに着替へ、帛紗(ふくさ)はベルトにはさむ。
茶室の入り方から始まつて、茶入れ、茶杓、茶筅のあつかひ、濃茶の練り方など、座つたままの作法のほか、右手に茶碗、左手に重い水指と柄杓を持つて、足の親指の力だけですつと腰をあげる動作の習得など、生来の不器用も相まつてなかなか上手くならない。
家事を一切やらないので、炭点前の火の熾し方、灰の均し方にも苦労した。
唯雪師は茶道のほか香道にも時間をかけ、キャラ、ラコク、マナバン、マナカ……と七種の香木の隠微な違ひを嗅ぎ分ける術や、茶花の生け方まで指導してくれた。
茶通箱、唐物、台天目、盆天、乱飾……ほぼ一年半ごとに免状のランクが上がり、十年ちよつとで茶名を頂いた。
家元から看板を受ける「相伝」当日は、東京・湯島にある家元の茶室を移動しながら、朝から夕方まで食事をはさんで約七時間、正座の苦行を強ひられる。
一緒に相伝の日をむかへ、それぞれの師匠とともに全国から上京した十余人の男女の中には、どうにも耐へきれず、真つ青になつて別室に逃げ込む者がゐた。
午後になると、ぼくも袴の中の両足が完全に麻痺して、石のやうに感覚が失せ、もはや別室行きかと観念したとき、
「うしろで両足をひらいて、その間にお尻を落とすと楽ですよ」
とささやく声があつた。
弟子一同の一番上座にゐたぼくの右隣りは唯雪師の父親、つまり流派の理事長で、このカニングで急場を救はれた。
いま、家の床の間には相伝の日に抱いて帰つた、縦八十センチほどの木の看板が違ひ棚に立てかけてある。
「江戸千家茶道教授」といふ筆太で風趣な墨書のわきに、細字で「無為庵雄雪」とあり、右上の家元の焼印や流派の雪輪紋は、今では焼き芋のやうな色になつてゐる。
この看板を門扉に掲げたことは一度もない。
相伝までには免状取得ごとにそれなりの謝礼もかかり、その挙句が「弟子いませんけ」では、人生の無駄といへば無駄だつたかもしれないけれど、青春のをはりの一時、仕事からも永田町の俗臭からも離れて、聴松庵で静謐な数刻を持てたことは、「茶の心」の真の感得だつたのではないかと、妙に納得してゐる。
