「わあ、これ、おいしい! しかも罪悪感ゼロつて感じ」

 

 一口食べて「罪悪感」なんていふ言葉がすぐ飛び出すとは、日ごろよほど太ることを警戒し、食事のカロリー計算に腐心してゐるにちがひない。

 

 口にしたのはマリネ。数種類の野菜類を甘酢とレモン汁に漬けたものだから、もともと「罪悪感」は薄い料理で、彼女がその小鉢に歓声をあげたのにはどうやらもう一つの理由があつた。

 

 ぼくも思はず目を奪はれたのだけれど、さすが元一流ホテルの洋食チーフといふだけあつて、小鉢に盛り合はせた野菜類の色どりの妙が秀逸だつた。

 

 トマトの赤い切り身を支へるかのやうに立てかけた牛蒡の黒、緑のピーマンの脇に添へられた真つ白なカリフラワー、その横には人参にかぶせたルッコラの葉、白い半円形の断面をみせたカブ、下に大根のこま切れ……

 

 甘酢に合はせたのか、やや硬めの牛蒡といひ、いまどき珍しい露地物のかをりをとどめたトマト、さつきまで畑と親しんでゐた証しのやうに青臭い香のするルッコラなど、あたかもサラダ野菜の大宴会のごとき集団が、よく噛みしめると、一つ一つそれぞれの味を個性的に発散してゐて申し分がない。

 

 「おしやれなマリネですね。ただの野菜の寄せ集めなのに、盛りつけ方ではこんな風になるなんて。まるで美術品みたい」

 

 彼女の興奮はつづいたが、最近、ネットの発達のお陰もあつて、日本の食文化も急に盛りつけが洗練されてきた気がする。

 ただ食べて美味しいといふだけでなく、テーブルに運ばれてきた瞬間に客が感激し、思はず写真に撮つて友人に自慢して盛り上がるやうな、見せる料理が多くなつた。ぼくも見栄えがする料理は嫌ひではない。

 

 反面、ひつそりとした路地裏で、おばちやんがほそぼそ暖簾を守つてゐる飲み屋で出されるつまみの、気取りのない純朴な美しさに痛く感激したりする。

 

 いや、日ごろおしやれな料理に慣れつこになればなるほど、さういふ何の衒ひもない、おばんざいのやうな盛りつけに、「これはまた、おしやれだなあ」と感動する。

 

 有名シェフが作るフレンチの皿と、おばちやんがひとり、何十年と同じスタイルを維持してきた縄のれんの皿とのあひだに、差が無くなる。

 

 今風なマリネの「おしやれ」と、昭和の匂ひのするおばちやんの「おしやれ」とをつなぐものは一体何なのか。

 

 まだぼくは結論が出てゐないものの、マリネと縄のれんを貫くおしやれ哲学は、いふなれば「すさまじい自己主張と偏執」とでもいふべきものだらうか。

 

 もしかすると、それこそが人の営為、ファッション、住まひ、音楽、芝居、文学など、つまり人間生活全般にかかはる、俗にいふ「おしやれか野暮か」を分ける大事なものなのかもしれない。

 

 5階建ての結婚式場に併設されたフレンチレストランを教場にして、「エッセー塾」をやつてみるかーー。

 

 をかしなことを考へ出したのは、12年間続けてきたカルチャーセンターのエッセー講座が、突然、センターの閉鎖で継続できなくなつた末の窮余の策でした。

 

 その最初の塾が、先週3日(土曜塾)と今週5日(月曜塾)に計12名(待機が3名)で開校できました。

 

 1期3か月で6回講座、毎月第1、第3の月曜、土曜開塾で、講座は1時間半、といふ形式はカルチャーセンターと同じです。

 

 前と変はつたのは、会場がレストランなものですから、ランチとディナータイムを避けて、講座時間を午後2時半から4時までと、1時間ほど後にずらした点だけです。

 

 「レストランで塾」と聞くと違和感がありますよね。

 お客さんが食事をしたりワインを飲んだりしてゐる傍らで、渋い顔をした一団がエッセーを朗読したり批評し合つたり、はたまた老講師が「エッセーの構成」とか「ちよつと気取つて書け」「文章にシンコペーションを」「語彙を増やす術」など講義する光景を想像すると、だれでも「大丈夫なの?」といふ気がします。

 

 ぼくも最初、それを懸念しました。教場さがしを始めた当時、最寄駅からの立地や、「第1、第3月曜、土曜」の長期安定的な会場確保がままならず(図書館や公民館など公共施設は毎回抽選といふところが多いです)、たうたう最後は馴染みのフレンチに泣き込んで、“レストラン塾”を決断したときは、はたしてどんな雰囲気の講座になるのか不安でした。

 

 「先生、エッセーを鑑賞するには、学校みたいなカルチャーセンターよりも、店内に緑はあるし、珈琲やジュース片手に気楽に話ができるここのほうが適してゐますね。やつてみて初めて分かりました」

 

 日ごろ気むづかしいことを言ふ元専門商社マンの老人や、クルーズ船の旅行が趣味の女性など、受講者の多くがそんな感想を語つてくれたのは嬉しかつたです。時間が来ても、みんな席を立たうとしないのにはこちらが焦りました。

 

 しかし、背後についてゐる新聞社が期ごとに講座内容を新聞折り込みのチラシで宣伝してくれたカルチャーセンターとちがひ、個人塾には宣伝の手段がありません。

 

 こんご、今までのやうに長続きさせるためには、受講者が口コミで友人知人に宣伝してくれないと尻すぼみになるのは目に見えてゐます。

 

 まあ、喜寿の塾長、さう気張ることもないので、せいぜい受講者と一緒にエッセーを楽しみます。

 

 間隔を置いて腰かける今どきのカウンターの隅で、五十年配の男と若い女がいちやついてゐる。

 

 酔つぱらつた女が男の顔からマスクをはぎ取つて、自分がしてゐた白いマスクを男に突き出す。

 

 「さあ、これして。さつき好きだつて言つたぢやない。好きならマスクの交換ぐらゐ何でもないでしよ」

 

 男は突き出されたマスクを手にとりながら、苦笑ひしてためらつてゐる。

 

 「私は平気よ、ほら」

 と若い女は、男の顔から外したマスクを自分の顔に着け、紐を耳に回した。

 

 「ねえ、なんで私のマスクをできないの。私が嫌いなの? それとも私つてバッチイ?」

 

 ぼくは手にした赤ワインを飲むふりをしながら、ちらちらと男のほうを見る。心の中では絶対に女の要求に負けるなと男を応援してゐる。

 

 結局、男は女のマスクを手に持つたまま、もう一方の手でワイングラスを持ちあげ、また飲み始めた。

 

 いつまでもじろじろ見てゐるわけにはいかないから、その後、男が女のマスクをどうしたかは確認してゐない。

 

 余計なお世話かもしれないが、これは明らかに若い女が失礼だ。

 

 好きとか嫌いとかの話ではない。マスクといふ純粋に緊急避難的衛生用具を、ブローチやスカーフと同じやうなものと勘違ひしてゐる。

 

 コロナ騒動がさわがしくなつて半年余、世界中でマスクが日常用具化し、マスクをするのが当たり前といふ空気になつてゐるから、この若い女のやうにマスクの交換を愛情表現の踏み絵にしようといふ「悪い遊び」がはやつたりするのかもしれない。

 

 久しぶりに会つた友人に握手の手を出すと、相手はとまどひを見せる。

 

 お辞儀をしてから親近感をこめて近寄ろうとすると、警戒するやうな表情になる。

 

 みんな大きな声で話をしなくなり、なるべく短時間で別れようとする。

 

 失礼な話である。コロナ対策も大事だが、人間同士の礼儀は同じくらゐ大事ぢやないのか。

 

 コロナ対策といへばどんな失礼も非常識も通用する世の中はをかしい。

 

 人と会ふとき、マスクは表情を隠す「失礼な道具」であり、人と人は本来なるべく近寄るべきであり、会話は誤解を生まないやうにはつきりと発音すべきものだ。

 

 コロナ対策は絶対の神ではない。コロナのためなら人間同士の信頼を損ねてもいいのか。

 

 コロナのためなら人を傷つけてもいいのか。

 

 さうではあるまい。感染症に罹らないことは重要だが、世の中にはそれ以上に重要なこともある。常識に還らうではないか。